​第29話 『残酷なショーウィンドウと、恋人繋ぎの熱度』

平和な日々が続いていた。

 桜井遥人は、研修医としての修了判定試験を無事にクリアし、晴れて春から正規の医師として帝都大学病院に残ることが内定していた。

​ ある休日。

 二人は久しぶりに銀座へ買い物に出かけていた。

 遥人の新しいスーツを買うためだ。

​「……こっちのネイビーの方が、顔映りがいいわよ」

「えー、俺グレーが着たいんですけど」

「却下です。あなたの肌色には沈んで見えるわ」

​ 紳士服売り場。

 怜子は手慣れた様子でジャケットを選び、遥人にあてがう。

 その光景は、端から見れば微笑ましいものだっただろう。

 だが、店員の一言が、その場の空気を一変させた。

​「あ、そちらのネイビー、とてもお似合いですよ!」

​ 若い女性店員が、笑顔で話しかけてきた。

​「息子さんの就職祝いですか? お母様、センスがいいですねぇ」

​ ――ピキリ。

 怜子の笑顔が凍りついた。

 息子。お母様。

 悪気がないのは分かっている。五十五歳と二十六歳。親子に見えるのが自然だ。

 分かっているけれど、ナイフで刺されたような痛みが胸を走る。

​「あ、いえ……私は……」

「そうなんですよ。うちの母さん、こだわりが強くて」

​ 遥人が、明るく遮った。

 怜子は驚いて彼を見た。

 彼は店員にニコニコと笑いかけ、「じゃあこれ試着してきます!」とフィッティングルームに入ってしまった。

​ 残された怜子は、居たたまれなかった。

 否定しなかった。

 彼は、面倒な説明を避けるために、あえて「息子」のフリを受け入れたのだ。

 それは優しさかもしれない。

 でも、怜子にとっては「恋人として見られていない」という事実を突きつけられたも同然だった。

​(……やっぱり、無理があるのかしら)

​ ショーウィンドウに映る自分を見る。

 上品なマダム。その横に並ぶ彼は、ピカピカの青年。

 どう見ても、親子だ。恋人には見えない。

 この先、どこへ行ってもこの視線に晒されるのだ。

​ 買い物を終え、店を出た。

 怜子は無言で歩いた。遥人が紙袋を持って隣を歩いているが、距離を感じる。

​「……怜子さん」

「……なに?」

「怒ってます?」

「怒ってないわ。……事実だもの」

​ 怜子は足を止めず、前を向いたまま言った。

​「他人から見れば、私たちは親子よ。……あなたが咄嗟に話を合わせたのも、賢明な判断だわ」

「話を合わせた?」

​ 遥人が足を止めた。

 怜子の腕を掴み、強引に引き止める。

​「違いますよ。……あんな店員に、俺たちの関係を説明するのが面倒だっただけです」

「それが『話を合わせた』ってことでしょう?」

「違います!」

​ 遥人は、往来の真ん中で怜子の手を握った。

 ぎゅっと、指を絡める「恋人繋ぎ」。

​「見てください。……親子は、こんな繋ぎ方しません」

​ 周囲の視線が集まる。

 「あら、あの二人……」「えっ、親子じゃないの?」というヒソヒソ話が聞こえる。

 怜子は顔が熱くなった。

​「やめて、恥ずかしい……」

「恥ずかしくないです。……俺は、あなたを愛してる」

​ 遥人は真っ直ぐに怜子を見つめた。

​「世界中の人が『お母さん』だと勘違いしても、俺にとってあなたは『最愛の女性』です。……それじゃダメですか?」

​ 彼の瞳には、一点の曇りもなかった。

 世間体も、常識も、彼には関係ないのだ。

 ただ、目の前にいる私だけを見ている。

​ 怜子は力が抜けたように息を吐き、握られた手に力を込めた。

​「……バカね。こんな人混みで」

「いいじゃないですか。見せつけてやりましょうよ」

​ 遥人はニッと笑い、怜子の手を引いて歩き出した。

 堂々と。胸を張って。

​ ガラスに映る二人の姿。

 確かに年齢差はある。

 でも、繋がれた手と、互いに向けられる視線の熱度は、紛れもなく「恋人たち」のものだった。

​ だが、世間の目は甘くない。

 店員の勘違いなど、これから起こる試練の序章に過ぎなかった。

 最大の壁――「家族」という現実が、二人に迫ろうとしていた。

​ その夜。

 怜子のスマホに、実家の母親から着信が入った。

​『もしもし、怜子? ……来週、お見合いの話があるのよ。相手は病院の理事長さん。……もう断れないわよ?』

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