​第28話 『魔女の白旗と、最強の免疫力』

翌朝の帝都大学病院。

 高嶺怜子は、いつものようにナースステーションで指示を出していた。

 だが、その横顔には、以前のような悲壮な緊張感はなかった。

 どこか吹っ切れたような、凛とした美しさ。

 昨夜、遥人の腕の中で流した涙が、心の淀みを洗い流してくれたようだった。

​「……おはようございます、部長」

​ 背後から、甘い香水の香りが漂ってきた。

 佐伯摩耶だ。

 彼女は怜子の顔をじっと覗き込み、片眉を上げた。

​「あら。……別れ話、失敗したみたいね」

​ 周囲には聞こえない声量で、鋭く切り込んでくる。

​「……ええ。お陰様で」

「顔色が良くなってるわよ。……随分と、いい『治療』を受けたみたいね」

​ 摩耶は悔しげに、しかしどこか楽しそうに笑った。

 怜子はカルテを置き、彼女に向き直った。

​「佐伯先生。あなたのアドバイスは正論でした。……年齢差、将来、介護。すべて事実です」

「でしょうね」

「でも、私たちはその『リスク』ごと、一緒にいることを選びました」

​ 怜子は言い切った。

 迷いのない瞳。

​「彼が私の重荷を背負うと言うなら、私は全力で彼を支えます。……彼が医師として、男として大成するまで、私が最高の『土台』になります」

​ それが、五十五歳の私ができる、彼への愛し方だから。

​ 摩耶はしばらく怜子を見つめていたが、やがてふぅ、とため息をついた。

​「……重いわねぇ。昭和の女って感じで」

「時代遅れで結構です」

「でも、嫌いじゃないわ。その覚悟」

​ その時。

 廊下の向こうから、桜井遥人が走ってきた。

​「部長! 佐伯先生! ……あ、あの」

​ 彼は二人が対峙しているのを見て、慌てて間に割って入った。

 まるで、怜子を守るように。

​「佐伯先生、部長に何か用ですか? ……文句があるなら俺に言ってください」

「あら、ナイト気取り?」

​ 摩耶は遥人の顔をまじまじと見た。

 以前のような、頼りなげな研修医の顔ではない。

 愛する女を守ろうとする、一人前の男の顔だ。

​(……なるほどね)

​ 摩耶は悟った。

 自分が入り込む隙間など、最初から1ミクロンもなかったのだと。

 若さや美貌で勝負できる次元の話ではない。この二人の間には、もっと泥臭くて、強固な「根」が張っている。

​「……降参よ」

​ 摩耶は両手を挙げた。

​「こんな熱い二人に見せつけられちゃ、入り込む余地もないわ。……ご馳走様」

「え?」

「安心して、ワンコくん。私、負け戦はしない主義なの」

​ 彼女は遥人の白衣の胸ポケットに、持っていた缶コーヒーを差し込んだ。

​「あげるわ。……その代わり、彼女を泣かせたら私が奪うから。覚悟しておきなさい」

「……はい! 絶対に泣かせません!」

​ 遥人は力強く答えた。

 摩耶は満足げに頷き、怜子に向かってウインクをした。

​「お幸せに、高嶺部長。……ふふ、やっぱり年上の女は手強いわね」

​ 彼女は颯爽と去っていった。

 その背中は、潔く、美しかった。

​ 残された二人。

 ナースステーションの喧騒の中で、視線が絡み合う。

​「……行っちゃいましたね」

「ええ。……強敵だったわ」

「でも、俺は最初から部長一筋ですよ?」

「調子に乗らないで」

​ 怜子は小声で叱りつつも、口元が緩むのを止められなかった。

 障害は、すべてクリアした。

 過去の恋人も、未来の不安も、強力なライバルも。

 雨降って地固まる。

 私たちの地盤は、もう誰にも揺るがせないほど固まっていた。

​「……仕事に戻りなさい、桜井先生」

「はい! ……あ、今日の夜、カレーでいいですか? 俺が作ります」

「……楽しみにしているわ」

​ 遥人は敬礼をして、病室へと走っていった。

 怜子はその背中を見送り、深く深呼吸をした。

​ 病院の消毒液の匂い。

 忙しないナースコールの音。

 いつもの日常。

 けれど、今の私には、そのすべてが愛おしく、輝いて見えた。

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