第27話 『小児病棟の残酷な光景と、拒絶された合鍵』

その日以来、高嶺怜子は桜井遥人を避け続けていた。

​ 「今日は会議が長引くから」

 「疲れているから、一人で寝たいの」

​ LINEでのそっけない返信。

 遥人の傷ついた顔を見るたび、胸が張り裂けそうになる。

 でも、これでいい。

 嫌われるなら、早いほうがいいのだから。

​ 水曜日の午後。

 怜子は用事があって小児病棟を訪れていた。

 ナースステーションの前を通りかかった時、聞き覚えのある笑い声が聞こえた。

​「高い高ーい! ……おっ、笑ったな?」

​ プレイルームのマットの上で、遥人が小さな男の子を抱き上げていた。

 外科の回診のついでだろうか。彼は子供たちに囲まれ、屈託のない笑顔を見せている。

​「桜井先生、パパみたいですねー」

「ほんと。いいお父さんになりますよ」

​ 若い看護師たちが黄色い声を上げる。

 遥人は照れくさそうに頭をかいた。

​「いやぁ、俺、子供好きなんで。……いつか自分のガキとキャッチボールするのが夢なんすよ」

​ その言葉が、怜子の足を縫い止めた。

 『自分の子供』。

 それは、五十五歳の私には、逆立ちしても叶えてあげられない夢。

​ 佐伯摩耶の言葉が蘇る。

 『彼の未来を奪ってるわよ』

 『あなたはついていけるの?』

​ 怜子は逃げるように踵を返した。

 涙が溢れてくる。

 あんなに輝いている彼を、私の「老い」という鳥籠に閉じ込めてはいけない。

 愛しているなら、解放してあげなければ。

​ その夜。

 怜子はマンションのリビングで、遥人の帰りを待っていた。

 彼から『話があるから行きます』と連絡があったのだ。

 怜子はソファに浅く腰掛け、膝の上で拳を握りしめていた。

​ ガチャリ。

 玄関の鍵が開く音がした。

 この音を聞くのも、今日で最後になる。

​ 廊下を歩く足音が近づき、リビングのドアが開いた。

​「……こんばんは、怜子さん」

​ 入ってきた遥人は、険しい顔をしていた。

 いつもの笑顔はない。ここ数日の怜子の態度に、明らかに戸惑い、傷ついている。

​「……お帰りなさい」

「避けてますよね? 俺のこと」

​ 遥人は立ったまま、ソファに座る怜子を見下ろした。

​「LINEも素っ気ないし、顔も合わせてくれない。……俺、何かしましたか?」

「いいえ。あなたは何も悪くないわ」

​ 怜子はソファから立ち上がり、彼に背を向けた。

 顔を見たら、決意が鈍る。

​「……ただ、目が覚めただけよ」

「目が覚めた?」

「ええ。こんな……おままごとは、もう終わりにしましょう」

​ 声を震わせないように必死だった。

​「楽しかったわ。若い恋人ができて、浮かれていたのね。……でも、疲れてしまったの」

「疲れた……?」

「そうよ。ジェネレーションギャップも埋まらないし、将来の話も合わない。……やっぱり、年相応の相手の方が楽だわ」

​ 嘘だ。

 あなた以外、誰もいらない。

 心の中で叫びながら、怜子は残酷な言葉を紡いだ。

 そして、振り返り、右手を差し出した。

​「だから、鍵を返して。……元の、上司と部下に戻りましょう」

​ 沈黙が落ちた。

 息が詰まるような、重苦しい時間。

​ 遥人が、一歩踏み出した。

 そして、差し出された怜子の手を払いのけ、彼女の肩を掴んだ。

​「……嘘だ」

​ 彼の瞳は、怒りに燃えていた。

​「目が泳いでますよ。……誰に何を言われたんですか? 佐伯先生ですか?」

「……関係ないわ」

「関係ある! 俺たちのことだ!」

​ 遥人は怜子の腕を強く握った。

​「『年相応』? 『疲れた』? ……ふざけるな。そんな理由で、あの夜の言葉をチャラにできると思ってるんですか!」

「……っ!」

「俺は、子供好きです。……でも」

​ 彼は怜子が見ていた光景――小児病棟での出来事――に気づいていたのだろうか。

 痛切な声で叫んだ。

​「俺が一番欲しい未来は、子供がいる未来じゃない。……あなたが隣で笑っている未来なんです!」

​ 怜子の目から、涙がこぼれ落ちた。

 

「……でも、私じゃあげられないものが多すぎるのよ!」

​ 怜子は泣き叫んだ。

​「子供も、若さも、時間も! ……十年後、私はお婆ちゃんなのよ!? あなたが一番脂が乗っている時に、私は介護が必要になっているかもしれない! あなたの重荷になりたくないの!」

「なればいいじゃないですか!」

​ 遥人は怜子を抱きすくめた。

 骨が軋むほど強く。

​「重荷? 上等ですよ。……俺は医者だぞ? あなたの介護くらい、喜んでやりますよ」

「……遥人くん」

「それに、俺はあなたから沢山もらいました。……自信も、居場所も、生きる意味も。……これ以上、何を望めって言うんですか」

​ 彼は怜子の顔を両手で挟み、涙を親指で拭った。

​「俺の幸せを、勝手に決めないでください。……俺の幸せは、この先どんなに歳をとっても、高嶺怜子の手を握っていることなんです」

​ 彼の言葉が、怜子の心の氷を粉々に砕いた。

 「あなたのため」なんて嘘だった。

 私はただ、自分が傷つくのが怖かっただけだ。いつか彼に捨てられる未来に怯えていただけだ。

​「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「謝るなら、一生そばにいて償ってください」

​ 遥人は怜子に口づけをした。

 しょっぱい、涙の味がするキス。

 でも、それは今までで一番深く、確かな愛の味がした。

​ 遥人はポケットから、自分の財布を取り出した。

 中に入っている合鍵。

 彼はそれを取り出すと……怜子の手に返すのではなく、自分のポケットの奥深くにねじ込んだ。

​「……鍵、返しませんからね」

​ 彼は宣言した。

​「もう二度と、追い出そうなんて思わないでください。……俺は、しつこいですから」

​ 怜子は彼の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

 魔女の呪いは解けた。

 未来のことは分からない。

 でも、今この瞬間、彼が私を選んでくれた。

 その事実さえあれば、私は老いていくことさえ恐れずにいられる気がした。

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