第26話 『魔女の正論と、残酷な鏡』
その日の夕暮れ。
手術室の休憩エリアは、消毒液とコーヒーの香りが混ざり合っていた。
高嶺怜子は、術後の看護記録のチェックに追われていた。
「……お疲れ様です、高嶺部長」
背後から声をかけられた。
振り返ると、佐伯摩耶が立っていた。
手術着の上に白衣を羽織り、缶コーヒーを片手に持っている。その立ち姿は、同性から見ても惚れ惚れするほど若く、美しい。
「お疲れ様です、佐伯先生。……何か不手際でも?」
「いいえ。スタッフの動きは完璧だったわ。さすが部長の教育ね」
摩耶は艶然と微笑み、少し声を潜めた。
「……少し、風に当たりません? 屋上で」
「仕事中ですが」
「休憩時間でしょう? ……ワンコくんの話、したくない?」
怜子の指がピクリと止まった。
摩耶の瞳は、すべてを見透かすように光っている。
逃げられない。
怜子はペンを置き、無言で立ち上がった。
屋上。
茜色の空が、東京の街を染めていた。
フェンスに寄りかかった摩耶は、風に髪をなびかせながら、単刀直入に切り出した。
「……付き合ってるんでしょ? 桜井先生と」
「……プライベートな質問にはお答えしません」
「隠さなくていいわよ。彼の首のキスマーク、コンシーラーで隠してたけど、汗で浮いてたわ」
摩耶はクスクスと笑った。
「やるわね、部長。あの堅物そうな顔で、あんな可愛い子を食っちゃうんだ」
「……言葉を慎んでください」
「ねえ、高嶺さん」
摩耶の声から、笑い色が消えた。
彼女は怜子の方を向き、冷徹な外科医の顔で告げた。
「……楽しい? おままごとは」
心臓を鷲掴みにされたような感覚。
「彼は二十六歳よ。医者としても男としても、これからが一番脂が乗る時期。……その貴重な時間を、あなたが奪っていいの?」
「奪うなんて……」
「奪ってるわよ。未来を」
摩耶は一歩、怜子に近づいた。若さという暴力的な輝きを押し付けるように。
「十年後、彼は三十六歳。働き盛りで、一番モテる時期よ。……その時、あなたは六十五歳。定年退職したお婆ちゃんよ」
数字の暴力。
怜子は息が詰まった。分かっていたことだ。でも、言葉にされると、ナイフのように刺さる。
「彼が子供を欲しがったら? 彼が学会で海外に行くと言ったら? ……あなたはついていけるの? 彼の重荷にならずに、彼を支えられるの?」
摩耶は残酷な鏡を突きつけた。
「若い男の気まぐれに付き合うのは勝手だけど。……彼の将来を潰す権利は、あなたにはないわ」
「……っ」
「彼には、同じ景色を見て、同じ速度で走れるパートナーが必要なの。……例えば、私のようなね」
摩耶は怜子の肩に手を置いた。
「悪いことは言わないわ。……綺麗な思い出のうちに、解放してあげたら? それが『大人の女』の愛し方でしょう?」
摩耶はそれだけ言い残し、ヒールを鳴らして去っていった。
残された怜子は、フェンスを掴んだまま動けなかった。
正論だった。
反論の余地など、1ミリもなかった。
私は、自分の寂しさを埋めるために、彼の若さを搾取しているだけなのかもしれない。
「守る」なんて言いながら、本当は彼の未来を閉ざしているのは、私自身なのではないか。
夜。
マンションに帰ると、温かいシチューの香りがした。
遥人がキッチンに立っている。
合鍵を使って先に入り、夕食を作って待っていてくれたのだ。
「おかえりなさい、怜子さん! 今日はクリームシチューですよ!」
エプロン姿の彼が、屈託のない笑顔で迎えてくれる。
その笑顔が、今は痛い。
「……ただいま」
「どうしたんですか? 元気ないっすね」
遥人は心配そうに近づき、怜子の額に手を当てようとした。
怜子は反射的に、顔を背けてしまった。
「……あ」
「ごめんなさい。……少し、疲れているだけ」
怜子は洗面所へ逃げ込んだ。
鏡を見る。
そこに映るのは、疲れ切った五十五歳の女の顔。
今日の摩耶の、張り詰めた肌と自信に満ちた顔とは、比べ物にならない。
(……釣り合わない)
涙が滲んだ。
リビングから、遥人の「冷めないうちに食べてくださいねー」という明るい声が聞こえる。
その優しさが、今は残酷なほど重かった。
怜子は冷たい水で顔を洗った。
この幸せは、借り物だ。
いつか返さなければならない、期限付きの夢。
魔女の言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れなかった。
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