第25話 『香水のバリケードと、約束の合鍵』
木曜日の朝。
数日間の休暇を終えた桜井遥人が、ナースステーションに戻ってきた。
「おはようございます! ご迷惑おかけしました!」
彼の元気な声が響くだけで、淀んでいた病棟の空気がパッと明るくなる。
看護師たちが「お帰りなさい」「お母さん大丈夫?」と駆け寄る。
高嶺怜子は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
よかった。元気そうだ。
駆け寄って抱きしめたい衝動を、白衣のポケットの中で拳を握りしめて堪える。
「……人気者ね」
小さく呟いた時、強烈な甘い香りが鼻を掠めた。
佐伯摩耶だ。
彼女は白衣の裾を翻し、一直線に遥人の元へ歩み寄った。
「あなたが桜井くん? ……ふうん、噂通り可愛い顔してる」
摩耶は遥人の目の前で足を止め、上目遣いで彼を見上げた。
距離が近い。パーソナルスペースなどお構いなしだ。
「え、あ、はい。桜井ですが……どちら様で?」
「佐伯摩耶。新しく来た外科医よ」
彼女は自然な動作で、遥人の二の腕に手を添えた。
「ねえ、ワンコくん。今日の午後、私のオペに入らない? 手が足りないの」
「えっ、俺ですか? でも俺、まだへなちょこで……」
「いいのよ。私が手取り足取り教えてあげる」
摩耶は意味ありげに微笑み、遥人の耳元で囁いた。
「……怖い部長さんに叱られてばかりじゃ、萎縮しちゃうでしょ? 私の下なら、もっと自由にさせてあげるわよ?」
明らかな誘惑。
周囲の看護師たちが息を飲む。
怜子は、血管が切れそうになるのを必死で抑えていた。
三十二歳の美貌と、確かな技術。そして「自由」という甘い餌。
私が彼に与えられるのは「規律」と「小言」ばかりなのに。
遥人は困ったように頭をかいた。
そして、摩耶の手をそっと外し、一歩下がった。
「……光栄です、佐伯先生。でも」
彼は真っ直ぐに怜子の方を見た。
「俺、厳しい指導が好きなんですよ。……叱られて伸びるタイプなんで」
「あら、Mなの?」
「ドMかもしれませんね。……すみません、部長への報告がまだなので」
遥人は摩耶に一礼すると、小走りで私の元へやってきた。
摩耶が面白くなさそうに肩をすくめるのが見えた。
「……部長! 戻りました!」
目の前に立つ彼からは、実家の定食屋の匂いと、懐かしい安心感が漂っていた。
「……お帰りなさい、桜井先生。お母様の具合は?」
「バッチリです。もう店に出るってきかなくて」
「そうですか。……佐伯先生の誘い、断ってよかったのですか?」
つい、嫌味な聞き方をしてしまう。可愛くない女だ。
遥人はきょとんとして、それから声を潜めて言った。
「……あの人の香水、キツすぎます。俺、部長の石鹸の匂いの方が落ち着くんで」
ドクン、と心臓が跳ねた。
彼はニッと笑い、「仕事してきます!」と病室へ走っていった。
残された怜子は、赤くなる耳をカルテで隠した。
完敗だ。この子には、どうあがいても敵わない。
その夜。午後九時。
怜子のマンションのチャイムが鳴った。
ドアを開けると、コンビニ袋を持った遥人が立っていた。
「……お疲れ様です」
「入りなさい」
招き入れると同時に、遥人は玄関で怜子を抱きしめた。
靴も脱がずに、力強く。
「……ただいま、怜子さん」
「……お帰りなさい、遥人くん」
数日分の寂しさを埋めるように、二人はしばらく玄関で身を寄せ合っていた。
彼の鼓動が、私の鼓動と重なる。
「……嫉妬した?」
リビングのソファで、遥人がニヤニヤしながら聞いてきた。
怜子はビールを飲みながら、ふんと鼻を鳴らした。
「まさか。……佐伯先生は優秀なドクターよ。あなたが学ぶことは多いはずだわ」
「嘘つき。……ナースステーションで、鬼みたいな顔して睨んでたくせに」
「見ていたの?」
「見てましたよ。……あ、妬いてくれてる、可愛いなって」
彼はソファの上で距離を詰め、怜子の肩に頭を乗せた
「……安心してよ。俺の飼い主は一人だけだから」
「誰が飼い主よ」
「怜子さんです。」
彼は自分のネクタイを緩めた。
怜子の理性が、音を立てて崩れていく。
「……今日は、帰さないわよ」
「望むところです。……充電させてください、空っぽなんです」
遥人は怜子を押し倒すように抱きしめた。
甘い夜。
佐伯摩耶の香水も、病院の消毒液も、すべて忘れて。
二人は互いの熱に溶けていった。
翌朝。
怜子は早起きして、合鍵を一つ、テーブルの上に置いた。
「……これ」
「え?」
「合鍵よ。……いちいちチャイムを鳴らすのも面倒でしょう」
それは、事実上の「半同棲」の申し込みだった。
遥人は鍵を手に取り、信じられないという顔をした。
「……いいの? 俺、転がり込むよ?」
「掃除と洗濯はあなたの担当よ。料理もね」
「うわ、家政夫扱い!」
文句を言いながらも、彼は鍵を大切そうに財布にしまった。
こうして、奇妙で甘い二重生活が始まった。
昼は、厳しい上司と出来の悪い部下。
夜は、甘えん坊な年下彼氏と、それを包み込む年上彼女。
だが、幸せな時間は長くは続かない。
佐伯摩耶の目は節穴ではなかった。
彼女は、遥人の首に残された、怜子がつけたキスマーク(隠したつもりだったが、襟元から見えていた)を見逃さなかったのだ。
「……ふーん。やっぱり、飼い主がいたのね」
摩耶は医局の隅で、冷ややかに笑った。
魔女のターゲットが、遥人から怜子へと変わった瞬間だった。
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