​第24話 『32歳のフェロモンと、独り寝のワイン』

​ 桜井遥人が実家の手伝いのために休暇に入ってから、三日が過ぎた。

 帝都大学病院の時計は、いつも通り正確に時を刻んでいる。

 だが、高嶺怜子にとっては、その針の進みがあまりにも遅く感じられた。

​ 廊下の曲がり角で、誰かとぶつかりそうになることもない。

 ポケットに安物のチョコレートがねじ込まれることもない。

 彼がいないだけで、この巨大な病院が、ただの無機質なコンクリートの箱に戻ってしまったようだ。

​(……寂しいなんて、言っていられないわ)

​ 怜子は首を振り、ナースステーションへと向かった。

 そこには、いつもと違う華やかな空気が漂っていた。

​「へえ、ここが噂の外科病棟? 意外と殺風景なのね」

​ 中心にいたのは、白衣を着崩した一人の女性医師だった。

 佐伯摩耶(さえき・まや)。三十二歳。

 大学の医局人事により、急遽赴任してきた外科医だ。

 緩く巻いた茶髪、派手なメイク、そして白衣の下から覗くタイトなスカート。

 医師というよりは、モデルのような容姿をしている。だが、その腕は確かで、バツイチの独身という噂も相まって、すでに男性医師たちの注目の的になっていた。

​「あら、あなたが看護部長の高嶺さん?」

​ 摩耶は怜子に気づくと、艶然と微笑んで近づいてきた。

 甘い香水の匂いがする。

​「初めまして。佐伯です。……噂は聞いてますよ。『鉄の女』って」

「……初めまして、佐伯先生。現場では華美な装飾品は外していただけますか」

​ 怜子は冷静に注意した。だが、摩耶は動じない。

​「硬いわねぇ。……ねえ、それより。いないの?」

「誰がですか?」

「噂のワンコくんよ」

​ 摩耶は面白そうに目を細めた。

​「桜井遥人先生。……なんでも、あの鬼部長を骨抜きにしてる研修医がいるって、本院の方まで噂が届いてるわよ」

「……」

「私、年下もイケる口なのよね。しかも研修医なんて、一番可愛げがある時期じゃない?」

​ 彼女は舌なめずりをするように唇を湿らせた。

​「いないなら残念。……戻ってきたら紹介してね。私が指導(かわい)がってあげるから」

​ 摩耶はヒラヒラと手を振り、医師たちの休憩室へと消えていった。

 残された怜子は、拳を握りしめていた。爪が掌に食い込む。

​ 三十二歳。

 若く、美しく、そして同じ「医師」という立場。

 遥人と話が合うのは、私よりも彼女の方だろう。

 彼女には、私が失ってしまった「若さ」と「未来」がある。

​(……嫌な女)

​ そう思う自分の心が、一番醜くて嫌だった。

​ その夜。

 怜子のマンションのリビングは、静まり返っていた。

 テレビをつける気にもなれず、怜子はキッチンでワインを開けた。

 一人で飲む酒は、久しぶりだ。

​「……乾杯」

​ 誰にともなく呟き、グラスを傾ける。

 アルコールが空っぽの胃に染みる。

 酔いが回るのが早かった。

​ ソファに寝転がり、天井を見上げる。

 先日の夜、ここで遥人が眠っていた。彼が掛けていた毛布を抱きしめてみる。

 微かに、彼の匂いが残っている気がした。

​「……会いたい」

​ 声に出すと、涙が滲んだ。

 摩耶の言葉が脳裏をよぎる。『年下もイケる口なの』。

 もし遥人が戻ってきて、あんな魅力的な女性に言い寄られたら?

 彼は若い男だ。五十五歳の「お母さん」みたいな女より、三十二歳の美しい「お姉さん」の方がいいに決まっている。

​ 不安が、ワインの酔いと共に増幅する。

 怜子はスマホを手に取った。

 LINEの画面を開く。

 『お母様、大丈夫?』と打とうとして、消した。

 重い女だと思われたくない。上司として振る舞わなければ。

​ でも、指が勝手に動く。

​ 『遥人くん』

​ 送信。

 既読がつかない。

 忙しいのか、それとも寝てしまったのか。

 不安で胸が押しつぶされそうだ。

​ 『佐伯先生という、綺麗な先生が来たわ』

 『あなたに興味があるみたい』

 『……取られたくない』

​ 打っては消し、打っては消し。

 最後に残ったのは、あまりにも短く、そして情けない一言だった。

​ 『声が聞きたい』

​ 送信ボタンを押してしまった。

 ハッとして、取り消そうとする。

 深夜一時。こんな時間に、迷惑だ。

 だが、無情にも画面には「既読」の文字がついた。

​(……やってしまった)

​ 怜子はスマホを放り投げ、クッションに顔を埋めた。

 自己嫌悪で死にそうだ。

 いい年をして、酔っ払って、寂しいとメールを送るなんて。

​ ブブブッ。

 クッションの下で、スマホが震えた。

 着信画面。

 『桜井遥人』。

​ 怜子は震える手で通話ボタンを押した。

​「……もしもし」

『……部長? 起きてた?』

​ 遥人の声だ。

 少し眠そうだが、温かくて、優しい声。

 その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。

​「……ごめんなさい。酔っ払って、間違ってメールを……」

『間違いじゃないでしょ。「声が聞きたい」って書いてあるし』

​ 電話の向こうで、彼がふふっと笑う気配がした。

​『俺もですよ。……ちょうど今、部長のこと考えてた』

「……嘘つき」

『本当ですって。母ちゃんの看病しながら、ああ、部長ならもっと手際よくやるんだろうなーとか、部長の作ったお粥食いたいなーとか』

​ 日常の会話。

 佐伯摩耶のことなんて、彼の頭には1ミリもないような口調。

​『……なんかあったんすか?』

「……ううん。なんでもないわ」

​ 言えるわけがない。

 若い女医に嫉妬して、寂しくてワインを飲んでいるなんて。

​『そっか。……じゃあ、俺の話していいですか?』

「ええ」

『母ちゃんがね、「早く嫁の顔が見たい」ってうるさいんですよ』

​ ドキリとする。

​『だから俺、言ったんです。「世界一カッコよくて、手のかかる人がいるから、もう少し待ってくれ」って』

「……手のかかる人って、誰のことよ」

『誰でしょうねぇ。……寂しがり屋で、すぐ強がる人のことかな』

​ 涙がこぼれた。

 彼は全部お見通しだ。

 ここから何キロ離れていようと、彼は私の心の揺らぎを察知して、こうして言葉で抱きしめてくれる。

​「……早く帰ってきなさい。仕事が溜まっているわよ」

『はいはい。……明後日には戻ります』

​ 遥人の声が、少し低くなった。

​『……戻ったら、覚悟してくださいね』

「え?」

『数日分、甘えさせてもらいますから。……部長の家で』

​ 電話が切れた。

 ツーツーという音を聞きながら、怜子はスマホを胸に抱いた。

​ 勝てない。

 三十二歳の美人が来ようが、誰が来ようが。

 この絆だけは、誰にも壊せない。

​ 怜子は飲みかけのワインをシンクに流した。

 もう、酒の力なんていらない。

 明後日、彼が帰ってくる。

 その事実だけで、私はまた強くなれるのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る