​第22話 『壊れた蛇口と、真夜中の自己嫌悪』

季節は冬へと向かっていた。

 外の寒さとは裏腹に、高嶺怜子の体内では、得体の知れない熱と嵐が吹き荒れていた。

​ 更年期障害の症状が、変化していたのだ。

 以前のようなホットフラッシュやめまいは落ち着いたものの、代わりにやってきたのは、制御不能な「情緒不安定」だった。

​ 些細なことでイライラする。

 部下のちょっとしたミスに、怒鳴り散らしたくなる。

 そして夜になると、理由もなく涙が溢れて止まらなくなる。

​「……ッ、もう、なんなのよ」

​ 部長室。

 怜子はデスクに突っ伏していた。

 さっき、実家の母から電話があった。『近所の〇〇さんの娘さんが孫を連れて帰ってきてねぇ』という、他愛のない世間話。

 それだけで、胸が掻きむしられるほど苦しくなり、電話を切ってしまった。

​ 私は何をしているんだろう。

 仕事だけの人生。子供もいない。夫もいない。

 残ったのは、老いていく体と、孤独だけ。

​ コンコン。

 ノックの音がした。

​「……どうぞ」

​ 努めて冷静な声を出したつもりだった。

 入ってきたのは、桜井遥人だった。

 外科のハードな勤務の合間を縫ってきたのだろう、少し疲れた顔をしているが、目は輝いていた。

​「お疲れ様です、部長! ……これ、見てください」

​ 彼は一枚のレントゲン写真を嬉しそうに見せた。

​「今日のオペ、初めて縫合を任されたんです。氷川教授に『遅いが丁寧だ』って、初めて褒められました!」

「……そう。よかったわね」

「あと、岩鉄さんが差し入れ持ってきてくれて……」

​ 遥人は無邪気に話し続ける。

 いつもなら、微笑ましく聞ける話だ。

 彼の成長を、誰よりも喜べるはずだった。

​ でも、今の怜子には、その「若さ」と「未来への希望」が、あまりにも眩しすぎた。

 自分の老いと対比されて、惨めさが込み上げてくる。

​「……うるさい」

​ ポツリと、言葉が漏れた。

​「え?」

「うるさいと言ったのよ!」

​ 怜子は書類を床に叩きつけた。

 バサァッ!

 紙吹雪のように舞う資料。遥人が目を見開いて固まる。

​「忙しいのが分からないの!? あなたの自慢話を聞いている暇なんてないわ!」

「ぶ、部長……?」

「出て行って! ……若くて才能があるからって、いい気にならないで!」

​ 言ってしまった。

 一番、言ってはいけない醜い嫉妬の言葉。

 遥人は傷ついた顔をして、唇を噛んだ。

​「……すみません。邪魔しました」

​ 彼は静かに部屋を出て行った。

 パタン、とドアが閉まる。

​ その瞬間、怜子の目から堰(せき)を切ったように涙が溢れ出した。

 違う。そんなことが言いたかったんじゃない。

 「頑張ったわね」と頭を撫でてあげたかったのに。

​「……最低だわ」

​ 怜子は床に座り込み、泣きじゃくった。

 コントロールできない。感情の蛇口が壊れてしまったようだ。

 こんなヒステリックなおばさん、嫌われて当然だ。

 もう終わりだ。彼も離れていく。

​ 一時間後。

 怜子はまだ床に座り込み、散らばった書類を呆然と眺めていた。

 もう帰らなくては。でも、立ち上がる気力がない。

​ ガチャリ。

 鍵をかけたはずのドアが、開いた。

 合鍵を持っているのは、清掃員か、あるいは――。

​「……やっぱり」

​ 遥人だった。

 彼は私服に着替えていた。帰ったはずじゃなかったのか。

 手にはコンビニの袋。

​「……泣いてると思った」

「見ないで!」

​ 怜子は顔を背けた。

 目が腫れ上がり、化粧も崩れている。世界で一番醜い顔だ。

​「帰って……お願いだから。今の私、おかしいの。……あなたを傷つけることしか言えない」

「知ってますよ」

​ 遥人は部屋に入り、鍵をかけた。

 そして、怜子の隣に座り込み、散らばった書類を拾い集め始めた。

​「更年期、ですよね。……勉強しました」

「……ッ」

「ホルモンバランスが乱れて、感情の制御ができなくなる。……部長のせいじゃない。病気のせいです」

​ 彼は淡々と言った。

 その声には、怒りも呆れもなかった。ただの「診断」として受け入れている。

​「……嫌いになったでしょう。こんな、理不尽に当たり散らす女なんて」

「なりませんよ」

​ 遥人は書類をデスクに戻し、改めて怜子の前に座った。

 そして、コンビニ袋から温かいココアを取り出し、怜子の手に握らせた。

​「俺は医者です。……患者さんが痛くて暴れたり、苦しくて泣き叫んだりするの、見慣れてますから」

「私は患者じゃないわ……」

「今は患者です。心の」

​ 彼は怜子の涙を、親指で乱暴に、でも優しく拭った。

​「八つ当たりしてください。俺、サンドバッグには自信あるんで」

「……バカ」

「それに、俺も調子に乗ってました。部長がしんどいの気づかないで、自分の話ばっかりして」

​ 遥人は怜子を抱き寄せた。

 若い体温。しっかりとした腕。

 その胸の中で、怜子の涙はまた止まらなくなった。

​「……怖いの。自分が自分でなくなっていくみたいで」

「俺がいます。……部長がどんなに変わっても、俺が見つけて元に戻します」

「おばさんになっても?」

「もうおばさんじゃないですか。今さら何を」

​ 憎まれ口。

 怜子は泣きながら笑ってしまった。

 そして、思い切り彼の胸を叩いた。

​「……痛いっすよ」

「反省なさい。……生意気な研修医」

​ 深夜の部長室。

 壊れた蛇口は、まだ直らない。

 でも、溢れ出た感情を受け止めてくれる器がここにある。

 

 老いることは、失うことだけではない。

 弱さを晒せる相手がいるという幸福を、怜子は涙の味と共に噛み締めていた。

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