第17話 『熱に浮かされた翌朝と、不器用なお返し』
翌朝。
怜子のマンションの寝室は、重苦しい熱気に包まれていた。
キングサイズのベッドの真ん中で、桜井遥人が苦しげな呼吸を繰り返している。
「……39.2度」
怜子は体温計の数字を見て、氷のような表情を崩さずに呟いた。
だが、その内心は穏やかではなかった。
昨夜、ずぶ濡れで山道を走り、新幹線で東京まで戻ってきた直後、遥人は糸が切れたように倒れ込んだのだ。
無理もない。仕事明けでそのまま軽井沢まで走り、あの雨の中を奔走したのだから。
「……うぅ……寒い……」
遥人がガチガチと歯を鳴らして身を縮める。
怜子は手早く冷却シートを彼の額に貼り、厚手の毛布を追加した。
テキパキと動くその手つきは、ベテラン看護師そのものだ。だが、患者を見るその瞳には、職業意識とは違う、切実な色が滲んでいた。
「バカな子。……私のために、こんなになるまで」
怜子はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。以前彼が来た時とは違い、中身は少し充実していた。彼の影響で、少し自炊をするようになったからだ。
土鍋を取り出し、米を研ぐ。
カチャカチャという音が、静かな部屋に響く。
かつて彼が私にしてくれたように。
今度は私が、彼に命を吹き込む番だ。
一時間後。
卵とネギだけのシンプルなお粥が出来上がった。
怜子は盆に乗せて寝室へと運ぶ。
「……桜井先生。起きて」
肩を揺すると、遥人がうっすらと目を開けた。
潤んだ瞳が、焦点の定まらない様子で怜子を捉える。
「……部長? ……ここ、病院?」
「いいえ、私の家です。……あなた、玄関で倒れたのよ」
「あ……そっか。俺、かっこ悪……」
遥人は力なく笑おうとして、顔をしかめた。
「すみません……助けに行ったはずが、助けられてちゃ世話ないっすね」
「生意気言わないで。……ほら、少しでも食べなさい」
怜子は彼の上半身を起こし、背中にクッションを当てた。
そして、スプーンでお粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。
「……あーん」
「えっ、部長!? 自分で食べますよ!」
「手が震えているでしょう。こぼされたらシーツの洗濯が面倒なの」
怜子は有無を言わさずスプーンを口元に運んだ。
遥人は顔を真っ赤にしながら、おずおずと口を開けた。
「……どう?」
「……うまいっす。……すごく、優しい味がする」
遥人の目から、ポロリと涙がこぼれた。
高熱のせいか、それとも安心したのか。
「……俺、夢見てるのかな。鬼部長に『あーん』してもらうなんて」
「熱のせいよ。治ったら忘れるわ」
「忘れませんよ。……絶対に」
彼は半分ほど食べると、「もう無理」と首を振った。
怜子は器を下げ、薬を飲ませ、再び彼を寝かせた。
また、静寂が戻る。
怜子はベッドサイドの椅子に座り、文庫本を開いた。
看病のために、今日は病院を休んだ。
「体調不良」と嘘をついて。
看護部長が、無断欠勤に近い形で休むなんて、以前の私なら考えられなかった。
自分が自分でなくなっていくような感覚。
でも、不思議と怖くはなかった。
「……れいこ、さん」
不意に、名前を呼ばれた。
本から顔を上げると、遥人が虚ろな目でこちらを見ていた。
うわ言だろうか。
「……はい」
「……行かないで」
その言葉に、胸が締め付けられた。
昨夜の別荘での会話が、夢の中にまで彼を追い詰めているのか。
「行かないわよ。……私はここにいるわ」
怜子は本を置き、布団から出ていた彼の手を握った。
熱い手。
あの日、私を暗闇から連れ出してくれた手。
「……ずっと、そばにいて」
「ええ。……いるわ」
怜子は彼の手を両手で包み込み、自分の額に押し当てた。
「あなたが元気になって、また私をからかうようになるまで。……ずっと、そばにいる」
遥人は安堵したように息を吐き、再び深い眠りに落ちていった。
その寝顔は、昨日の勇ましい姿とは裏腹に、幼く、守ってあげたくなるものだった。
怜子は窓の外を見た。
昨夜の嵐が嘘のように、東京の空は晴れ渡っていた。
私たちは、戻ってきた。
でも、もう以前と同じ場所には戻れない。
上司と部下という境界線は、昨夜の雨と一緒に流されてしまったのだから。
明日は月曜日。
病院に行けば、桂木教授の報復が待っているかもしれない。噂が再燃するかもしれない。
それでも構わない。
この手の温もりがある限り、私はもう、氷の城に閉じこもったりしない。
怜子は遥人の汗ばんだ前髪を、愛おしげに指で梳(す)いた。
五十五歳の初恋のような甘い痛みが、胸の奥で静かに脈打っていた。
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