​第16話 『完璧な空調と、泥だらけのスニーカー』

軽井沢の夜は深かった。

 桂木の別荘のリビングには、暖炉の薪が爆ぜる音と、静かなクラシック音楽だけが流れていた。

 室温は完璧に管理され、湿度も不快感がないよう調整されている。

 そこは、埃ひとつない、美しい箱庭のようだった。

​「……どうした? 食事が進んでいないようだが」

​ 対面に座る桂木が、心配そうに声をかけてきた。

 テーブルには、ケータリングのシェフが用意した極上のフレンチが並んでいる。

 怜子(れいこ)はフォークを置いた。

​「……いえ。少し、胸がいっぱいで」

「無理もない。これからの人生を左右する決断だ」

​ 桂木はワイングラスを傾け、優雅に微笑んだ。

​「怜子。君はもう、誰かのために走らなくていい。泥をかぶる必要もない。……このガラスの向こうの嵐のように、外の世界は過酷だ。君はここで、ただ美しく咲いていればいいんだ」

​ 守られる幸せ。

 それは、五十五年必死に戦ってきた身体には、甘い毒薬のように魅力的に響くはずだった。

 だが、怜子の胸の奥では、警鐘が鳴り止まなかった。

​ (咲いていればいい?)

​ それはまるで、押し花だ。

 彼は私を愛しているのではない。若き日の思い出と、今の私のステータスを、自分のコレクションに加えたいだけなのだ。

​ その時。

 完璧に防音された室内に、微かな異音が混じった。

 ドンドン! ドンドン!

 玄関のドアを、激しく叩く音。

​「……なんだ? こんな嵐の夜に」

​ 桂木が不快そうに眉をひそめ、立ち上がった。

 インターホンが鳴り止まない。

 怜子も胸騒ぎを覚えて、彼の後を追った。

​ 桂木が重厚なドアを開ける。

 吹き込む風雨。

 その向こうに立っていたのは、ずぶ濡れの幽霊――いや、桜井遥人(はると)だった。

​「……はぁ、はぁ、はぁ……!」

​ 傘はない。パーカーもジーンズも水を含んで重く垂れ下がり、髪からは絶え間なく雫が滴り落ちている。

 足元を見れば、白いスニーカーは泥まみれだった。

​「き、君は……あの時の研修医か」

​ 桂木が驚愕の声を上げる。

 遥人は肩で息をしながら、真っ直ぐに奥にいる怜子を見据えた。

​「……迎えに、来ました」

「桜井、先生……?」

​ 怜子は息を飲んだ。

 どうしてここに。東京にいるはずなのに。

 まさか、ここまで走ってきたというの?

​「不法侵入だぞ! 警察を呼ぶ!」

​ 桂木が怒鳴る。

 しかし、遥人は構わずに、ピカピカの大理石の玄関に、泥だらけの足を踏み入れた。

 ジャリ、と砂の音が静寂を汚す。

​「呼んでください。……でもその前に、部長を返してもらいます」

「何をバカな。彼女は私のゲストだ。君のような子供が……」

「子供で結構です! 金も地位もない、ただのガキです!」

​ 遥人が叫んだ。

 雨音に負けない、腹の底からの声。

​「でも俺は、部長をこんな箱に閉じ込めたりしない! ……彼女は、押し花じゃないんだ!」

​ 怜子の肩が震えた。

 押し花。

 彼も、同じことを感じていたのか。

​「彼女は、現場で汗かいて、眉間にシワ寄せて、貧血で倒れるまで戦ってる時が……一番いい顔してるんです! それを奪う権利は、あんたにはない!」

​ 遥人は一歩踏み出し、怜子に向かって手を伸ばした。

 雨と泥で汚れた手。

 洗練された桂木の手とは比べ物にならない、無骨で、汚い手。

​「帰りましょう、部長。……明日の朝、早いんでしょ?」

​ 日常への誘い。

 あの忙しくて、大変で、でも愛おしい病院への帰還命令。

​「……怜子。行くのか?」

​ 桂木が低い声で問うた。

​「そっちに行けば、君はまた泥だらけの毎日だ。老いて、疲れ果てて、いつか一人になる。……私が差し出す『安らぎ』を捨ててまで、その若造の手を取るのか?」

​ 究極の二択。

 怜子は、遥人の汚れた手を見つめた。

 その手は、私が倒れた時に支えてくれた手だ。

 不器用な料理を作ってくれた手だ。

 そして今、私を連れ戻すために、ここまで必死に伸びてきた手だ。

​ 怜子は顔を上げた。

 迷いは、消えていた。

​「……ごめんなさい、惣一さん」

​ 彼女は静かに告げた。

​「私は、綺麗な庭園で枯れていくよりも……この子と一緒に、泥だらけで転んでいる方が、性に合っているみたいです」

​ 怜子は駆け出し、遥人の手を掴んだ。

 冷たい雨水に濡れた手が、驚くほど熱かった。

​「……行こう、遥人くん」

​ 初めて呼んだ、下の名前。

 遥人の目が大きく見開かれ、そしてクシャクシャに笑った。

​「……はい!」

​ 二人は雨の夜へと飛び出した。

 高級車も傘もない。

 背後で閉ざされた重いドアの音が、過去との決別のように響いた。

​ 真っ暗な山道。

 二人は手を繋いだまま、バス停を目指して走った。

 スーツも髪も台無しだ。寒さで歯がガチガチと鳴る。

 けれど、怜子の心は、かつてないほど熱く燃えていた。

​「……バカね、あなた。本当にバカ」

「知ってますよ。……遺伝ですから」

​ 遥人が笑う。

 怜子は、握りしめたその手に力を込めた。

 この泥だらけの手を、もう二度と離さないと誓って。

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