​第15話 『窒息する暖炉と、オカンの愛の鞭』

軽井沢の別荘は、静寂に包まれていた。

 暖炉の薪が爆ぜる音。ヴィンテージワインがグラスに注がれる音。

 すべてが上質で、完璧に設えられている。

​ 高嶺怜子は、ソファに座り、桂木惣一と向かい合っていた。

 話題は、これからの医療業界の展望と、二人の老後の設計図。

 桂木の話には隙がない。経済的な不安もなく、社会的地位も保証された、穏やかな未来。

​「……怜子。手を見せてくれないか」

​ 不意に桂木が言った。

 怜子が戸惑いながら左手を差し出すと、彼はそれを取って、眉をひそめた。

​「荒れているな」

「……ええ。消毒液と手洗いのしすぎで、万年あかぎれです」

「看護部長ともあろう人が、現場で手を汚す必要はないだろう。……これからは、オイルでケアして、美しい手を取り戻すべきだ」

​ 彼は慈しむように、けれど憐れむように言った。

 その瞬間、怜子は反射的に手を引っ込めたくなった。

​ この手は、私の勲章だ。

 何千回と点滴を刺し、患者の背中をさすり、そして――あの子(遥人)の頭を撫でた手だ。

 それを「汚れている」「直すべきだ」と言われたことが、無性に悲しかった。

​(……ああ、違う)

​ 怜子は気づいてしまった。

 桂木が見ているのは、今の私(五十五歳の高嶺怜子)ではない。

 三十年前の、若くて美しかった頃の「怜子」の幻影だ。彼は私を愛しているのではなく、自分の隣に置く「トロフィー」としての私を求めているだけなのだ。

​「……どうした? 気分でも悪いか?」

「いえ……少し、暖炉の火が熱くて」

​ 怜子は視線を逸らした。

 ここには酸素がない。

 完璧な空調のはずなのに、息が詰まりそうだった。

​ 一方、東京。

 墨田区の定食屋『さくらい』は、閉店後の静けさに包まれていた。

 桜井遥人は、カウンターの隅で冷めた茶を啜っていた。

 テレビのバラエティ番組の音が、やけに虚しく響く。

​「……はぁ」

​ 深いため息をつくと、背後からバシッ!と頭を叩かれた。

​「痛っ! なんだよ母ちゃん!」

「辛気臭いねぇ! 店の商品(あじ)が落ちるだろうが!」

​ 母親のキヨが、濡れた手で腰に手を当てて立っていた。

​「あんた、なんでここにいんのさ。今日は非番なんだろ? 高嶺さんとデートじゃないのかい」

「……デートなんて、そんなんじゃないよ」

「振られたのかい?」

「振られたっていうか……」

​ 遥人は湯呑みの縁を指でなぞった。

​「身の程を知ったんだよ。……向こうは教授で、金持ちで、部長の元カレだ。俺なんかじゃ勝てっこない」

「で?」

「部長にとっても、あっちに行った方が幸せなんだ。……俺といたって、安月給の定食屋の息子だし、苦労かけるだけだし」

​ もっともらしい理屈を並べる。

 自分を正当化するための、安いプライド。

​ 母ちゃんは呆れたように鼻を鳴らし、冷蔵庫からビール瓶を取り出して栓を抜いた。

 そして、コップに注ぐと、ドン!と遥人の前に置いた。

​「飲みな」

「いらねーよ」

「いいから飲みな! ……で、聞くけどさ」

​ 母ちゃんはカウンター越しに、息子の目を覗き込んだ。

​「あんたが言ってる『幸せ』ってのは、誰が決めたんだい?」

「え?」

「金があるとか、地位があるとか、そんなもんカタログスペックだろ。……高嶺さんが『あんたじゃ不幸だ』って言ったのかい?」

​ 遥人は言葉に詰まった。

 言われていない。

 彼女は、俺の作ったお粥を「おいしい」と言ってくれた。俺の手を握ってくれた。

​「あの人はね、ここに来た時、あんたのことを話す時だけ、すっごく優しい顔をしてたんだよ。……母親のあたしが言うんだ、間違いない」

​ 母ちゃんの声が、少しだけ優しくなった。

​「あんたはバカで、稼ぎも悪くて、へなちょこだ。……でもね、人の痛みが分かる男だ。高嶺さんが求めてるのは、綺麗な宝石箱じゃなくて、あんたのその『泥臭い手』なんじゃないのかい?」

​ 泥臭い手。

 遥人は自分の手を見た。

 あの日、路上の事故現場で血まみれになった手。

 そして、病室で震える彼女の手を包み込んだ手。

​「……勝手に決めつけて、カッコつけてんじゃねえよ」

​ 母ちゃんがトドメを刺した。

​「惚れた女ひとり、自分が幸せにするって覚悟も持てない男はね、ここから出て行きな!」

​ 遥人は弾かれたように顔を上げた。

 胸の奥で燻っていた火種に、ガソリンが注がれた気がした。

​ そうだ。

 俺は何を諦めているんだ。

 「あなたのため」なんて綺麗事を言って、傷つくのが怖くて逃げただけじゃないか。

 彼女が本当に求めているのは、「安らぎ」なんかじゃなく、「一緒に生きてくれる誰か」だったはずだ。

​「……母ちゃん」

「なんだい」

「行ってくる」

​ 遥人は立ち上がった。

 椅子がガタッと音を立てて倒れる。

​「金、あるのかい?」

「あるわけねーだろ! 給料日前だ!」

「ったく、しょうがないねぇ!」

​ 母ちゃんはレジを開け、売上金を鷲掴みにして遥人のポケットにねじ込んだ。

​「タクシーでも新幹線でも使いな! ……その代わり、手ぶらで帰ってきたら承知しないよ!」

「ああ! 土産話、期待してろよ!」

​ 遥人は店を飛び出した。

 外は雨が降り始めていた。

 関係ない。

 濡れたって構わない。泥だらけになったって構わない。

​ 待っていてくれ、部長。

 今、あなたの「処方箋」を届けに行く。

​ 遥人は雨の中、駅へと向かって全力で走り出した。

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