​第14話 『届かない背中と、大人の招待状』

その週、ナースステーションには甘く重たい香りが漂っていた。

 真っ赤なバラの花束。

 送り主は、桂木惣一教授。

 添えられたカードには、流麗な文字でこう書かれていた。

​ 『今週末、軽井沢の別荘にて。これからの医療と、二人の未来について語り合いたい。 惣一』

​ それは、ただのデートの誘いではない。

 東都医大との提携プロジェクトという「公務」と、復縁という「私情」を巧みに織り交ぜた、拒否権のない招待状だった。

​「……素敵ですね、部長。まるで映画みたい」

​ 事情を知らない若手看護師たちが噂をする。

 高嶺怜子は、花束をデスクの端に押しやりながら、眉間を揉んだ。

 頭が痛い。

 断りたい。けれど、病院の理事長からも「桂木教授とは良好な関係を築いてくれ」と釘を刺されている。組織の長として、無下にはできない。

​ その様子を、遠くから見つめる視線があった。

 桜井遥人だ。

 彼はカルテを抱えたまま、花束と怜子を交互に見て、唇を噛み締めていた。

​ 夕方。

 屋上のベンチ。ここが最近の二人の秘密の待ち合わせ場所になっていた。

 怜子が缶コーヒーを買って座ると、遅れて遥人がやってきた。

 いつもなら「お疲れ様です!」と元気に来るはずの彼が、今日は足取りが重い。

​「……行くんですか? 週末」

​ 遥人は座りもせず、フェンスにもたれかかって聞いた。

​「仕事ですから。……病院同士の付き合いも重要なのよ」

「ふーん。仕事、ね」

​ 遥人は空を見上げた。

​「あの人、本気ですよ。部長のことを連れ戻す気だ」

「連れ戻す?」

「ええ。『こちら側の世界』へ。……俺みたいなガキがいない、地位も名誉もある大人の世界へ」

​ 彼の声には、隠しきれない嫉妬と、それ以上の無力感が滲んでいた。

 路上の事故現場で、桂木の圧倒的な技術を見せつけられた直後だ。遥人の自信は揺らいでいる。

​「……止めてほしい?」

​ 怜子は試すように聞いた。

 「行かないで」と言ってくれれば、それを理由に断れるかもしれない。

 そんな淡い期待を抱いていた。

​ だが、遥人は寂しげに笑った。

​「……俺に、そんな権利ありますか?」

「え?」

「あの人は、部長に『安らぎ』を与えられる。俺は、いつだって部長に心配かけて、世話焼かせて、コンビニの飯しか食わせられない」

​ 彼は拳を握りしめた。

​「部長が本当に幸せになるなら……俺が止めるのは、ただのワガママです」

​ 怜子の胸が冷えた。

 彼は優しい。優しすぎて、残酷だ。

 「君の幸せのために身を引く」なんて、そんな綺麗事、聞きたくなかった。

 ただ泥臭く「行くな」と言ってほしかったのに。

​「……そうね。あなたは賢いわ」

​ 怜子は立ち上がり、飲みかけのコーヒーをゴミ箱に捨てた。

 カラン、という乾いた音が響く。

​「行ってきます。……美味しいワインと料理を楽しんでくるわ」

​ それは、精一杯の強がりであり、彼への当てつけだった。

 怜子は振り返らずに屋上を出た。

 遥人は追いかけてこなかった。

​ 週末。

 怜子のマンションの前に、桂木が手配した黒塗りのハイヤーが到着した。

 運転手が恭しくドアを開ける。

 怜子は小さなボストンバッグを手に、車に乗り込んだ。

​ 車窓から見えるいつもの街並み。

 スーパー、公園、そして遥人が住むアパートのある方角。

 景色が後ろへと流れていく。

​(……これでいいのよ)

​ 怜子は自分に言い聞かせた。

 親子ほど歳の離れた恋愛ごっこは、もう終わり。

 元の「完璧な看護部長」に戻るだけ。

 桂木の提案を受け入れて、穏やかな老後を選ぶのも悪くないかもしれない。

​ 車は首都高に乗り、東京を離れていく。

 ハンドバッグの中で、スマホが一度だけ震えた気がした。

 でも、怜子はそれを見なかった。

​ 軽井沢への道は、遠く、そして重かった。

 彼女はまだ知らない。

 置き去りにしてきたはずの青年が、自分の「物分かりの良さ」を呪い、今まさに走り出そうとしていることを。

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