第13話 『路上のトリアージと、持たざる者の武器』
駅の改札前。
雑踏の中で、高嶺怜子は凍りついていた。
目の前に立っているのは、かつての恋人であり、現在は東都医大の教授である桂木惣一。
仕立ての良いスーツに身を包んだ彼は、怜子と桜井遥人が繋いでいた手元に視線を落とし、冷ややかに目を細めた。
「……見間違いかと思ったが。まさか君が、こんな下町で若い男と手をつないでいるとはな」
「桂木教授……これは……」
怜子は反射的に手を解こうとした。
だが、遥人は離さなかった。むしろ、力を込めて握りしめ、怜子を庇うように一歩前に出た。
「……こんばんは。奇遇ですね」
「君は、あの時の研修医か。……なるほど、そういうことか」
桂木は鼻で笑った。侮蔑と、失望が入り混じった笑い。
「怜子。君ともあろう人が、寂しさを紛らわせるためにこんな子供遊びをするとは。……がっかりだよ」
「遊びじゃありません」
遥人が低い声で言った。
「俺は本気です。部長も、俺のことを……」
「黙りたまえ」
桂木が一喝した。その迫力に、遥人がたじろぐ。
「君のような未熟者が、彼女の隣に立って何ができる? 彼女のキャリア、品格、そして孤独。……君に背負えるのか?」
正論だった。
遥人は唇を噛んだ。何も言い返せない。実績も地位もない自分には、言葉にする資格がないかのように。
その時だった。
キキーッ!! ドンッ!!
近くの交差点で、激しいブレーキ音と衝突音が響いた。
悲鳴が上がる。
「事故だ!」「人が跳ねられたぞ!」
三人の表情が、一瞬で「医師」と「看護師」の顔に変わった。
「行くぞ!」
桂木が叫び、現場へ走る。怜子と遥人も続く。
交差点の真ん中。バイクと軽自動車の衝突事故だ。
バイクの運転手の青年が、アスファルトの上に投げ出され、ピクリとも動かない。ヘルメットが割れ、頭部から出血している。
「……酷い」
桂木がすぐに青年の元へ駆け寄り、頸動脈に触れる。
「脈が弱い。意識レベル低下。……気道確保だ! 誰か救急車を!」
「呼びました! 到着まで十分かかるとのことです!」
怜子が叫ぶ。彼女は即座に青年の足元を確認し、出血箇所を探る。
左大腿部が不自然に曲がっている。開放骨折だ。大量の血液が路面に広がっていく。
「まずいな。大腿動脈をやっているかもしれない。……圧迫止血が必要だが、この出血量では……」
桂木が顔をしかめた。
ここは病院ではない。止血鉗子もなければ、輸液もない。
最高峰の外科医である彼でさえ、道具のない路上では無力に近い。
「ネクタイ! ベルト! 誰か貸してください!」
遥人が叫んだ。
彼は野次馬の中に飛び込み、サラリーマンからネクタイを、作業着の男性からタオルを借り受けて戻ってきた。
「君、そんな不潔なもので……感染症のリスクが!」
「死ぬよりマシです!」
遥人は桂木の静止を無視し、青年の太ももの付け根をタオルで縛り上げた。
ターニケット(止血帯)の代用だ。
さらに、自分の体重をかけて傷口を圧迫する。
「部長! 頭部の固定をお願いします! 頸椎損傷の可能性があります!」
「はい!」
怜子は青年の頭を両手で挟み込み、動かないように固定した。
アスファルトに膝をつく。服が汚れることなど、微塵も気にならなかった。
「……聞こえますか! 頑張ってください! もうすぐ助けが来ますからね!」
遥人が青年の耳元で叫び続ける。
彼の手は血まみれだ。
桂木はその様子を見て、舌打ちをした。
「……無茶苦茶だ。だが、今はそれしかないか」
桂木もまた、スーツの上着を脱ぎ捨て、遥人の反対側に回って胸部の聴診(耳を直接当てる)を始めた。
「呼吸音が減弱している。気胸の疑いありだ。……おい研修医、もし心停止したら心マ(心臓マッサージ)は任せるぞ」
「はい!」
路上での緊急救命。
エリート教授、看護部長、そして落ちこぼれ研修医。
立場も技術も違う三人が、一つの命を繋ぎ止めるために連携する。
数分後。
遠くからサイレンの音が近づいてきた。
救急隊員が到着し、青年をストレッチャーに乗せる。
「……ふぅ」
搬送を見届け、遥人はその場にへたり込んだ。
手も服も血だらけだ。
怜子も立ち上がろうとして、足がふらついた。
「大丈夫ですか、部長」
「ええ……なんとか」
遥人が手を差し伸べる。その手は汚れていたが、怜子には何よりも頼もしく見えた。
彼女がその手を取ろうとした時、横から白いハンカチが差し出された。
「……使いなさい」
桂木だった。
彼は自分の汚れた手など気にも留めず、怜子を見下ろしていた。
「見事な固定だったよ、怜子。……腕は鈍っていないな」
「恐縮です」
「そして、君」
桂木は遥人を見た。
その目は、先ほどまでの侮蔑の色とは少し違っていた。
「……君の処置は野蛮で、教科書通りとは程遠い。医者としては三流だ」
「……はい」
「だが、あの状況で迷わずに泥に飛び込んだ度胸だけは、認めてやろう」
それは、エリートからの最大限の賛辞だった。
しかし、桂木はすぐに冷徹な表情に戻った。
「だが、勘違いするな。……医療現場でのガッツと、人生のパートナーとしての資質は別だ」
桂木は怜子に向き直り、宣言するように言った。
「私は諦めないよ、怜子。……君には、泥だらけの路地裏よりも、整えられた庭園が似合う。来週の週末、私の別荘に来てくれ。そこで改めて話をしよう」
彼は返事を待たずに、タクシーを拾って去っていった。
残されたのは、血と油の匂いがする路上。
「……行っちゃいましたね」
遥人がポツリと言った。
「ええ」
「やっぱり、勝てないなぁ。……悔しいけど、あの人、凄かったです」
遥人は自分の血まみれの手を見つめた。
「俺は必死だったけど、あの人は冷静に全体を見てた。……俺じゃ、部長をあんなふうにリードできない」
「……桜井先生」
怜子はハンカチで、遥人の頬についた汚れを拭った。
「あなたは、私の手を引いてくれましたよ」
「え?」
「あの人が『見ていた』時、あなたは『触れて』いた。……患者さんの体温を、恐怖を、一番近くで感じていたのはあなたです」
怜子は微笑んだ。
「私は、綺麗な庭園よりも……あなたと一緒に泥だらけになる方が、性に合っているみたいです」
遥人は驚いた顔をして、それから嬉しそうに、泣き出しそうに笑った。
「……帰ろう、部長。……風呂入って、また唐揚げ食いましょう」
「ええ。……でも、今日はお風呂掃除してからにしてちょうだい」
二人は肩を並べて歩き出した。
繋いだ手は汚れていたけれど、そこには確かな絆の体温があった。
だが、桂木の「招待状」を無視できるほど、大人の世界は単純ではないことを、怜子はまだ知らなかった。
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