第12話 『下町の唐揚げと、太陽のオカン』
日曜日。
高嶺怜子は、人生で一番場違いな場所に立っていた。
東京の下町、墨田区の商店街。
焼き鳥の煙と、自転車のベルの音、そして威勢のいい呼び込みの声が飛び交う雑多な通り。
上品なベージュのセットアップに身を包んだ怜子は、明らかに浮いていた。
「……本当に、ここで合っているの?」
「合ってますよ。ほら、そこです」
隣を歩く桜井遥人が指差したのは、年季の入った定食屋『さくらい』だった。
暖簾(のれん)は油で変色し、食品サンプルは日焼けしている。
『安い! 美味い! 多分早い!』という手書きの張り紙。
正直、衛生管理の観点から言えば、怜子が絶対に足を踏み入れないタイプの店だ。
「……帰ってもいいかしら」
「ここまで来て逃げないでくださいよ。さ、入った入った!」
遥人は躊躇なく引き戸をガララッと開けた。
「ただいまー!」
「あいよ! いらっしゃい!」
中から、よく通る元気な声が響いた。
店内は満席に近い。昼からビールを飲む老人や、学生の集団で賑わっている。
その厨房から、割烹着姿の小柄な女性が飛び出してきた。
「遥人! あんた帰ってくるなら連絡くらい……って、あら?」
彼女――遥人の母、キヨさんは、遥人の後ろに立つ怜子を見て、ピタリと動きを止めた。
お玉を持ったまま、まじまじと怜子を見つめる。
怜子は背筋を伸ばし、完璧な礼をした。
「……初めまして。帝都大学病院で、息子さんの上司をしております、高嶺と申します」
「じょ、上司……?」
キヨさんは目を丸くし、それから怜子の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように……いや、感動したように眺めた。
そして、バシッ!と遥人の背中を叩いた。
「ちょっとアンタ! こんな綺麗な人を連れてくるなんて、聞いてないよ!」
「痛っ! だから今言おうとしてたんだろ!」
「しかも上司だって!? あんた、まさか……」
キヨさんは目を細め、遥人に詰め寄った。
「……騙して連れてきたんじゃないだろうね? 『壺を買え』とか言ってないかい?」
「言うか! 俺をなんだと思ってんだ!」
「だってアンタ、こんな高嶺の花みたいな人が、ウチの敷居をまたぐわけないじゃないか!」
漫才のようなやり取り。
店内の客たちがドッと笑う。
怜子は呆気にとられていたが、不思議と不快ではなかった。
この明るさ、この屈託のなさ。
ああ、遥人はこの人から生まれたのだと、妙に納得してしまった。
「ま、立ち話もなんだから座んな! 汚い店だけどね!」
通されたのは、奥の小上がり席だった。
ちゃぶ台。座布団。壁には演歌歌手のポスター。
怜子が正座をすると、すぐに山盛りの料理が運ばれてきた。
「はい、遥人の好物! 特製唐揚げ定食! 高嶺さんも食べて!」
「……いただきます」
目の前に置かれたのは、拳ほどの大きさがある巨大な唐揚げの山だった。
揚げたての香ばしい匂いが、食欲を刺激する。
怜子はおそるおそる一つを口に運んだ。
カリッ。ジュワッ。
衣はサクサク、中は肉汁が溢れるほどジューシー。ニンニクと生姜が効いた、ガツンとくる味だ。
「……おいしい」
「でしょ? これが俺の言ってた『百点満点』です」
遥人が得意げに笑い、白飯をかき込む。
怜子もつられて箸が進む。
普段の質素な食事とは違う、エネルギーの塊のような味。
「よかった、口に合ったみたいで」
キヨさんがお茶を持ってきて、横に座った。
彼女は怜子を見つめ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「高嶺さん。……このバカ息子が、いつもご迷惑をおかけしてますねぇ」
「いえ、そんなことは……」
「隠さなくていいですよ。要領悪いし、お人好しだし、見ててイライラするでしょう?」
キヨさんは遥人の頭を小突いた。
「でもね、この子、昔から『誰かのために』って時だけは、馬鹿力を出すんですよ。……小さい頃、熱出した私を看病しようとして、台所を水浸しにしたこともあってねぇ」
「母ちゃん、その話はやめろって!」
「ふふ」
怜子は思わず笑ってしまった。
台所を水浸しにする幼い遥人と、先日の台風の夜に必死で患者を救っていた遥人の姿が重なる。
根っこは変わっていないのだ。
「……素敵な息子さんですね」
怜子は自然と言葉にしていた。
「不器用ですが、患者様の痛みを知ることができる、良い医者です。……私は彼に、何度も助けられました」
キヨさんが少し驚いた顔をした。
そして、嬉しそうに目を細めた。
「……そうかい。アンタにそう言ってもらえるなら、あたしも安心だよ」
帰り際。
店の前まで見送りに来てくれたキヨさんは、別れ際に怜子の手をギュッと握った。
水仕事で荒れた、温かい手だった。
「高嶺さん。……また来ておくれよ。上司としてじゃなく、遥人の連れとしてね」
「……ええ。必ず」
夕暮れの商店街。
駅へ向かう帰り道、遥人が照れくさそうに頭をかいた。
「……うるさいオカンですみません」
「いいお母様ね。……太陽みたいな人だったわ」
「部長とは正反対でしょ?」
「そうね。……私には、あんなふうに笑い飛ばす強さはないわ」
怜子は少し寂しそうに微笑んだ。
五十五歳の独身女。子供もいない。家庭もない。
キヨさんのような「母の強さ」を、私は一生知ることはないのだろう。
その時、遥人が怜子の手を握った。
人目も憚らず、しっかりと。
「……俺は、部長の静かな強さが好きですよ」
「え?」
「母ちゃんとは違う。でも、部長にしかない光がある。……俺は、その光に惹かれてるんです」
彼は真っ直ぐに俺を見た。
「だから、誰かと比べないでください。……俺にとっての『一番』は、あなたなんですから」
雑踏の中。
赤提灯が灯り始める下町で、怜子は握り返された手の温もりに、涙が出そうになるのをこらえた。
この場所(あたたかさ)に、居てもいいのだろうか。
氷の城の住人が、太陽の下を歩いてもいいのだろうか。
彼の手を握っている間だけは、その問いを忘れることができた。
だが。
そんな温かな余韻を引き裂くように、過去の亡霊が再び姿を現す。
「……怜子?」
駅の改札前。
信じられない人物が立っていた。
桂木惣一だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます