第11話 『白き巨塔の噂話と、開き直りのランチタイム』
台風一過の晴天。
しかし、帝都大学病院の院内には、昨夜の嵐よりもタチの悪い、湿った空気が停滞していた。
午前中。高嶺怜子が廊下を歩くだけで、すれ違う職員たちの視線が絡みつく。
好奇心、嘲笑、そして嫉妬。
言葉にならぬ囁きが、聴診器のように怜子の耳に届く。
「……見た? あの二人」
「ERの自販機前でしょ? 寄り添って寝てたって」
「まさか。部長とあの研修医だよ? 親子じゃん」
「でも、完全に肩抱いてたらしいよ。……やっぱり独身だと寂しいのかねぇ」
事実は、極限状態での短い仮眠だった。
しかし、噂という怪物は事実を食らい、醜悪な物語へと変貌させていた。
『鉄の女・高嶺看護部長が、若い研修医をたぶらかして、廊下のベンチでイチャついていた』。
そんなレッテルが、怜子のプライドを容赦なく傷つけた。
ナースステーション。
古株の看護師長が、気まずそうに怜子に近寄ってきた。
「……部長。少し、耳に入れたいことが」
「噂のことでしょう」
怜子は書類から目を離さずに言った。ペンを握る指が白くなっている。
「昨夜は非常事態でした。仮眠ベッドも満床で、やむを得ずベンチで休息を取っただけです。……他意はありません」
「わかっております。ですが、若手の間では面白おかしく言われていて……。桜井先生のためにも、少し距離を置かれた方がよろしいかと」
桜井先生のため。
その言葉が、怜子の胸を抉った。
そうだ。彼はこれから医師としてキャリアを積んでいく身だ。
五十五歳の独身女部長に手を出したなどという噂は、彼の将来の汚点にしかならない。
(……私が、守らなければ)
怜子は決意した。
徹底的に冷たくしよう。噂を否定し、彼を遠ざけることで、この醜聞を沈静化させるのだ。
昼休み。
職員食堂は満席だった。
怜子はいつものように、窓際の一人席でうどんを啜っていた。
周囲の視線が痛い。だが、背筋を伸ばして平然を装う。それが私の鎧だから。
「……ここ、いいっすか?」
トレイを置く音がした。
顔を上げると、桜井遥人が立っていた。
カレーライスとお茶を持って、ニコニコと笑っている。
食堂がざわめいた。
「うわ、来たよ」「この空気でよく座れるな」
怜子は箸を置いた。低い声で告げる。
「……桜井先生。他の席へ行きなさい」
「なんでですか? ここ、空いてますよ」
「空気を読みなさい。今、私たちが並んで食事をすれば、火に油を注ぐことになります」
怜子は彼を睨みつけた。
「あなたの評判に関わるのよ。……私のことなら気にせず、向こうの同期たちと食べなさい」
冷たく突き放す。
それが彼のための優しさだと信じて。
だが、遥人は動かなかった。
彼はドカッといすに座り、カレーをスプーンですくった。
「……評判なんて、どうでもいいっすよ」
「なっ……」
「俺、知ってるんです。部長が昨日の夜、どれだけ走り回って、どれだけ多くの患者さんの手を握っていたか」
彼は大きな声で言った。周囲の雑音をかき消すように。
「あのベンチで、俺たちは泥のように眠った。……ただの戦友として。それの何が恥ずかしいんですか?」
食堂の空気が変わった。
野次馬根性で見ていた者たちが、バツが悪そうに視線を逸らす。
彼の言葉は、噂を否定するものではなく、「やましいことなど何もない」という堂々たる宣言だった。
「それに」
遥人は声を潜め、テーブル越しに身を乗り出した。
イタズラっぽい少年のような笑顔。
「俺、噂されるの嫌いじゃないですよ」
「……はい?」
「だって相手は、この病院で一番美人で、一番カッコイイ女性でしょ? ……俺みたいなへなちょこには、勿体ないくらいの名誉です」
怜子は絶句した。
顔が熱い。耳まで真っ赤になるのが分かる。
この子は、バカなのか。それとも天才的な女殺しなのか。
五十五歳の私を捕まえて、「一番美人」だなんて。
「……バカ言わないで。カレーが冷めるわよ」
「いただきます!」
遥人はガツガツとカレーを食べ始めた。
怜子は小さくため息をつき、うどんの器を持った。
震える手元を隠すように。
周囲の視線はまだある。
けれど、それはもう「嘲笑」ではなく、「呆れ」と、少しの「羨望」に変わっていた。
堂々としている男の隣にいると、女は守られている気分になるのだと、怜子は初めて知った。
「……ねえ、部長」
「何ですか」
「今度の日曜、空いてます?」
「……予定はありませんが」
「じゃあ、俺の実家に来ませんか? 下町の定食屋なんですけど」
え?
実家?
「……ご両親に、誤解されますよ」
「誤解させときゃいいじゃないですか。……俺は、部長に俺の育った場所、見てほしいんです」
それは、デートの誘いであり、
そして、自分のテリトリーへ彼女を招き入れるという、次なるステップへの招待状だった。
怜子は眼鏡の位置を直し、小さく頷いた。
「……七十点以上なら、考えてあげます」
「うちの唐揚げは百点満点ですよ!」
食堂の窓から差し込む日差しが、二人のテーブルだけをスポットライトのように照らしていた。
噂なんて、どうでもいい。
今はただ、目の前のカレーを頬張る青年の笑顔だけが、私にとっての真実だった。
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