​第10話 『台風の夜のトリアージと、戦友の肩』

10月。

 大型の台風19号が、関東地方を直撃しようとしていた。

 暴風雨が病院の窓を叩きつけ、木々が悲鳴のような音を立てている。

​ 午後八時。

 高嶺怜子は、救急外来(ER)の指揮所に立っていた。

 白衣の袖をまくり、無線機を握る手には力がこもっている。

​「……はい、受け入れ可能です。ルート確保、準備急いで!」

​ 高速道路でバスの横転事故が発生した。

 負傷者は多数。この悪天候でドクターヘリは飛ばない。救急車が続々と、この病院へなだれ込んでくる。

​「部長! 処置室3、満床です!」

「ストレッチャーを廊下に出して! 軽傷者は待合室へ誘導!」

​ 怜子の指示が飛ぶ。

 現場は戦場だった。血の匂い、呻き声、モニターのアラーム音。

 足がすくみそうになる惨状だが、怜子は動じない。彼女が揺らげば、現場は崩壊する。

​ その混沌の中で、必死に走る背中があった。

 桜井遥人だ。

​「大丈夫ですか! 聞こえますか!」

​ 彼は血まみれの患者に声をかけ、止血処置を行っている。

 いつもの頼りなげな笑顔はない。必死の形相だ。

 だが、次から次へと運び込まれる急患に、彼の手が追いつかなくなっていく。

​「……くそっ、血が止まらない……!」

​ 遥人の担当する患者のバイタルが下がる。

 指導医は他の重症患者にかかりきりだ。

 遥人の顔から血の気が引いていく。パニックの予兆。

​ 怜子は受話器を置き、走った。

 彼の元へ。

​「桜井先生! 落ち着きなさい!」

​ 怜子の鋭い声が、遥人の耳に届く。

 彼はハッとして顔を上げた。

​「ぶ、部長……! 圧迫してるんですけど、血圧が……!」

「モニターを見るな! 患部を見なさい!」

​ 怜子は彼の手の上に自分の手を重ね、さらに強く圧迫した。

​「出血源はここです。私が押さえます。あなたは輸液ラインを全開にして、昇圧剤を準備!」

「は、はい!」

​ 怜子の手が、震える彼の手を支える。

 冷たい手ではない。熱く、力強い「戦友」の手だ。

​「大丈夫。患者さんは生きています。……あなたも、息をしなさい」

​ 怜子の静かな声が、彼の呼吸を整えさせる。

 遥人は大きく息を吸い込み、頷いた。

​「……やります!」

​ その後の数時間は、記憶が曖昧になるほどの激闘だった。

 怜子は看護部長の枠を超え、現場を走り回った。遥人もまた、泥臭く、しかし一度も逃げずに患者に向き合い続けた。

​ 午前四時。

 嵐が過ぎ去り、嘘のような静寂が訪れた。

 負傷者の受け入れは終了し、全員の容態が安定したとの報告が入る。

​ 怜子は自動販売機のある休憩コーナーへ足を運んだ。

 ドッと疲れが出た。

 ベンチに座り込むと、もう立ち上がれそうにない。

 髪は乱れ、白衣には返り血のシミがついている。

 酷い姿だ。

​「……お疲れ様です」

​ 声がして、温かい缶コーヒーが頬に当てられた。

 遥人だった。

 彼もまた、ボロボロだった。目の下には濃いクマができ、スクラブは汗で張り付いている。

​「……お疲れ様、桜井先生」

「死ぬかと思いました。……いや、患者さんを死なせなくてよかった」

​ 彼は怜子の隣に、どさりと座り込んだ。

 そして、天井を仰いだ。

​「……部長がいなかったら、俺、パニックで逃げ出してたかもしれません」

「そんなことはありませんよ」

​ 怜子は缶コーヒーを開けた。

​「あなたは最後まで、手を離さなかった。……立派な医者でしたよ」

​ それは、上司としてのお世辞ではない。

 現場で共に戦った者としての、心からの称賛だった。

​ 遥人はゆっくりと横を向いた。

 そして、何も言わずに、怜子の肩に頭を預けてきた。

 重い。

 男の頭の重さ。

​「……桜井先生?」

「……すんません。あと五分だけ。……電池切れっす」

​ 彼の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 極限の緊張から解き放たれ、安堵したのだろう。

 甘えているのではない。

 戦士が、唯一心を許せる場所で羽を休めているのだ。

​ 怜子は拒まなかった。

 むしろ、自分の方から少し体を寄せた。

 彼の髪からは、消毒液と、汗と、そして「生」の匂いがした。

​「……重いわよ」

「知ってます」

「……あと五分だけですよ」

​ 怜子はそっと、自分の頭を彼の頭に重ねた。

 

 廊下の向こうで、誰かが通り過ぎる気配がした。

 見られたかもしれない。

 「看護部長と研修医が寄り添って寝ている」と噂になるかもしれない。

 でも、今の怜子にはどうでもよかった。

​ 嵐の夜を越えて、私たちは生き残った。

 そして今、互いの体温だけが、冷え切った体を温めている。

 それ以上の真実など、この病院には存在しないのだから。

​ 窓の外が白んでいく。

 台風一過の朝焼けが、傷だらけの二人を静かに照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る