第9話 『鉄の盾と、秘密の絆創膏』
「他人行儀」。
それが、あの日かわした俺たちの契約だった。
ナースステーションですれ違っても、目も合わせない。
業務連絡は電子カルテのコメント機能のみ。
完璧だった。高嶺怜子は、相変わらず冷徹な看護部長として君臨し、俺、桜井遥人は、相変わらず要領の悪い研修医として走り回っていた。
だが、変化は確実に起きていた。
俺がミスをして指導医に怒鳴られていると、絶妙なタイミングで怜子が現れ、「先生、あちらの患者様が呼んでいますよ」と助け舟を出してくれる。
俺が疲れた顔をしていると、いつの間にかデスクに高カカオのチョコが置かれている。
その不器用な優しさに触れるたび、俺の胸は締め付けられた。
あの朝のリビングの空気を、俺だけが覚えているわけじゃないと知って。
そんなある日の午後。
特別病棟でトラブルが起きた。
「ふざけるな! 院長を呼べ! こんなガキに父さんの命が預けられるか!」
怒号が響き渡る。
声の主は、政財界の大物である入院患者の息子だ。
その前で、俺は頭を下げ続けていた。
「申し訳ありません! ですが、今の処置は適切で……」
「うるさい! 点滴一つ入れるのにモタモタしやがって! 手も震えていたじゃないか!」
図星だった。
相手の威圧感に気圧され、手元が狂ったのだ。技術不足。弁解の余地はない。
「チェンジだ! もっとマシな医者を連れてこい! 看護師もだ! ここをどこだと思っている!」
騒ぎを聞きつけ、野次馬が集まってくる。
俺は唇を噛んだ。
自分の未熟さが悔しい。そして何より、この騒ぎが怜子の耳に入り、彼女に迷惑をかけるのが怖かった。
その時。
人垣が割れ、冷ややかな空気が流れ込んできた。
「……何事ですか」
高嶺怜子だ。
彼女は騒然とする現場に静かに歩み寄ると、俺を一瞥もしないまま、激昂する息子に向かって深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。看護部長の高嶺です」
「おお、部長か! 聞いてくれよ、この研修医が酷いんだ!」
男は我が意を得たりとばかりにまくし立てた。
「トロいし、頼りない! こんな無能は即刻クビにして、ベテランを担当させろ!」
「……お言葉ですが」
怜子は顔を上げた。
その瞳は、いつもの業務的な冷たさとは違っていた。
静かに燃える、青い炎のような光。
「技術面での未熟さについては、指導を徹底いたします。ですが……彼を担当から外すことはできません」
「なんだと!?」
「桜井先生は、お父様の異変に誰よりも早く気づいた医師です」
怜子は毅然と言い放った。
「昨夜、お父様が胸の苦しさを訴えた際、モニターのアラートが鳴る前に駆けつけたのは彼でした。……彼が頻繁に病室を訪れ、患者様の些細な変化を観察していたからです」
俺は驚いて怜子を見た。
昨夜のこと。俺がこっそり様子を見に行っていたことを、彼女は知っていたのか。
「技術はこれから磨けばいい。ですが、患者様に寄り添い、異変を察知する『感性』は、ベテラン医師でも持ち得ない彼の才能です」
怜子は一歩前に出た。
その背中が、俺を守る盾のように大きく見えた。
「当院はチーム医療です。彼の手技は私が、そして看護部が全力でサポートします。……ですから、どうか彼を信じていただけませんか」
凛とした声。
男は気圧されたように口ごもり、「ふ、ふん……部長がそこまで言うなら」と矛を収めた。
解散した後。
俺はリネン室(シーツなどが置いてある倉庫)に呼び出された。
狭い空間。タオルの匂い。
怜子は腕を組み、厳しい顔で立っていた。
「……ありがとうございます、部長。助けていただいて」
「勘違いしないでください」
彼女は冷たく言った。
「私は組織の長として、現場の混乱を収めただけです。……あなたのミスが帳消しになったわけではありませんよ」
「はい……」
「採血の練習、毎日続けていますか?」
「やってます。でも、本番になるとどうしても……」
俺が言い訳をしようとすると、怜子がため息をつき、ポケットから何かを取り出した。
絆創膏だ。
彼女は俺の手を取り、ささくれだらけの指先に、それをペタリと貼った。
「……練習のしすぎで、指がボロボロじゃないですか」
彼女の声が、ふっと柔らかくなった。
「不器用ですね、本当に」
「……すみません」
「でも……嫌いじゃありませんよ。そういう不器用さは」
彼女は俺の手を離さなかった。
リネン室の薄暗がりで、指先だけが触れ合っている。
「……私の前でだけは、カッコつけなくていいのよ。……あなたが私に、そうしてくれたように」
「部長……」
「泣きそうな顔しないで。……甘やかしたくなるじゃない」
彼女はそっと背伸びをして、俺の白衣の襟を直した。
その距離、数センチ。
誰かに見られたら終わる。
でも、俺はこの人の「盾」の内側に、一生守られていたいと思ってしまった。
「……早く戻りなさい。サボっていると思われますよ」
彼女はポンと俺の胸を押し、背を向けた。
その耳が、赤くなっているのを俺は見逃さなかった。
廊下に出ると、いつもの忙しない病院の風景が広がっていた。
俺は指先の絆創膏を撫でた。
子供っぽいキャラクターものの絆創膏。
鬼部長のポケットに、こんなものが入っているなんて、誰も知らないだろう。
俺だけの秘密。俺だけの部長。
その優しさに報いるためにも、俺はもっと強くならなきゃいけない。
俺は拳を握りしめ、次の患者の元へと走った。
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