​第8話 『朝陽のコーヒーと、解けない指先』

​ 朝、カーテンの隙間から差し込む光が、怜子の瞼を刺した。

 意識が浮上すると同時に、全身の節々が痛んだ。

 無理もない。床に座り込み、ソファに頭を預けたまま眠ってしまったのだから。

​「……うぅ」

​ 首を回そうとして、動きが止まった。

 左手が、動かない。

 いや、固定されている。

​ 恐る恐る視線を下ろすと、そこには昨夜と変わらぬ光景があった。

 ソファで眠る桜井遥人が、怜子の左手を両手で包み込み、自分の胸元で大切そうに抱いている。

 彼の寝息に合わせて、怜子の腕も上下していた。

​(……一晩中、このままだったの?)

​ カッ、と顔が熱くなる。

 親子ほど歳の離れた男の子に、手を握られて眠る五十五歳。

 客観的に見れば異常だ。でも、不思議と不快感はなかった。

 むしろ、彼の手のひらから伝わる体温が、まだ私の体を芯から温めてくれている。

​「……起きなさい、桜井先生」

​ 怜子は努めて冷静に、彼の方を揺すった。

 遥人が「ん……」と声を漏らし、ゆっくりと目を開ける。

 寝ぼけ眼が怜子を捉え、次に自分の手元を見て、また怜子を見る。

​ 普通なら、ここで「すみません!」と飛び起きるところだろう。

 だが、彼は違った。

 ふにゃりと、だらしなく笑ったのだ。

​「……おはよーございます、部長」

「おはようございます。……いつまで握っているつもりですか」

「んー……あと五分だけ」

​ 彼は手を離すどころか、さらに強く握りしめ、頬ずりするように顔を寄せた。

​「部長の手、昨日は氷みたいだったのに。……今はポカポカしてる」

「なっ……!」

​ 怜子は反射的に手を引き抜いた。

 心臓が破裂しそうだ。この子は、自分が何をしているのか分かっているのか。

​「……寝ぼけていないで、顔を洗ってきなさい! もう六時ですよ!」

「うわ、マジだ! 遅刻する!」

​ 遥人はガバッと跳ね起き、慌てて洗面所へ走っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、怜子は自分の左手を、右手でそっと握りしめた。

 熱い。

 彼に触れられていた部分だけが、火傷したように熱を持っている。

​ 三十分後。

 リビングには、コーヒーの香りが漂っていた。

 身支度を整えた遥人が、キッチンで二人分のコーヒーを淹れてくれていた。

​「どうぞ。……俺、コーヒー淹れるのだけは得意なんですよ」

「……ありがとう」

​ 怜子はカップを受け取った。

 彼女はすでに「武装」を済ませていた。

 きっちりと結い上げた髪、完璧なメイク、皺のないスーツ。

 鏡の前で三十分かけて作り上げた、「看護部長・高嶺怜子」の姿だ。

​ 遥人は、そんな怜子をまじまじと見つめた。

​「……すごいなぁ」

「何がですか?」

「さっきまで、あんなに無防備だったのに。……もう完璧な『鉄の女』に戻ってる」

​ 彼は少し寂しそうに笑った。

​「その鎧、重くないですか?」

「……重くても、着るのが仕事です」

​ 怜子はコーヒーを一口飲み、彼を真っ直ぐに見た。

​「桜井先生。昨夜のことは感謝します。……ですが、このドアを出たら、全て忘れてください」

「え?」

「私は上司で、あなたは部下。それ以上でも以下でもありません。……昨夜のことは、体調不良による緊急避難。それだけです」

​ 冷たく言い放つ。

 そうしなければ、自分の中の何かが決壊してしまいそうだったからだ。

 遥人はしばらく怜子を見ていたが、やがてカップを置き、静かに言った。

​「……忘れられませんよ」

「命令です」

「無理です。……だって俺、部長の弱った顔も、冷たい手も、寝起きのボサボサ頭も、全部知っちゃいましたから」

​ 彼は一歩、怜子に近づいた。

​「病院では、上司と部下でいいです。他人のフリもします。……でも」

​ 彼の手が伸びてきて、怜子の胸元のスカーフを、ちょん、と直した。

​「俺の前では、もう無理しないでください。……鎧が重くなったら、いつでも俺が支えますから」

​ 至近距離。

 彼の瞳には、二十六歳の若者とは思えない、深い色が宿っていた。

 怜子は息を飲んだ。

 反論できない。拒絶できない。

 この「共犯関係」を受け入れるしか、私には道が残されていない気がした。

​「……遅れますよ。行きます」

​ 怜子は逃げるように玄関へ向かった。

 背後で、遥人が「はいはい」と軽やかに答える声がした。

​ 病院の地下駐車場。

 怜子の車の助手席から降りた遥人は、誰にも見られないようにフードを目深に被り、職員通用口へと走っていった。

 まるで、秘密の情事の後のように。

​ 怜子はハンドルに突っ伏した。

 バックミラーに映る自分の顔は、完璧にメイクされているはずなのに、頬だけがほんのりと赤く上気していた。

​(……調子が狂う)

​ エレベーターに乗り、ナースステーションへ向かう。

 扉が開いた瞬間、怜子はスイッチを切り替えた。

 背筋を伸ばし、ヒールの音を響かせて歩き出す。

​「おはようございます、部長!」

「おはよう。……305号室の点滴、確認した?」

​ いつもの「鬼部長」。

 だが、その氷の仮面の下には、今朝飲んだコーヒーの温かさと、左手に残る青年の体温が、消えない火種のように燻(くすぶ)り続けていた。

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