第3話 『頑固オヤジの血管と、最強の凸凹バディ』
翌日。西病棟のナースステーションは、朝からピリピリとした空気に包まれていた。
原因は、310号室に入院している患者、岩鉄(いしてつ)さん(72)だ。
元・鳶職(とびしょく)の親方。頑固一徹。
検査のたびに「いてぇ! 下手くそ!」と暴れ、食事も「こんな病院食、鳥のエサか!」とひっくり返す、看護師泣かせのモンスターペイシェントだ。
「……また拒否ですか」
怜子は報告書を見つめ、眉間に深い皺を寄せた。
今日の午後は、重要な造影CT検査がある。そのためには静脈ルート(点滴の管)を確保しなければならないのだが、若手の看護師たちがことごとく追い返されているのだ。
「申し訳ありません部長……。『痛いのは嫌だ、帰らせろ』と暴れられて、針が刺せなくて」
「貸して。私が行きます」
怜子はトレイを手に取り、立ち上がった。
私の技術なら、痛みを感じさせることなく一発で決められる。
彼女は廊下を風のように歩き、310号室のドアを開けた。
「失礼します、岩鉄さん。看護部長の高嶺です」
「おう! なんだ、次は偉いさんの出ましか!」
ベッドの上であぐらをかいた岩鉄翁が、猛獣のように吠えた。腕にはこれまでの失敗の痕である絆創膏がいくつも貼られている。
「検査の時間です。腕を出してください」
「断る! ここの看護師はみんなへっぴり腰だ! 俺の腕は丸太じゃねえぞ!」
「私は失敗しません。動かなければ、一瞬で終わります」
怜子は冷静に詰め寄る。
だが、正論は火に油だった。
「うるせえ! その冷たい目が気に入らねえんだよ! 機械人形みたいな顔しやがって! 帰れ!」
枕が飛んできた。
怜子はそれを片手で受け止めたが、心の中では小さく傷ついていた。
(機械人形……)
完璧であろうとすればするほど、人の心は離れていく。分かっているのに、止められない。
その時。
背後から、ひょっこりと顔を出した男がいた。
「あーあ、親方。また暴れてんの?」
桜井遥人だった。
彼はなぜかポケットからミカンを取り出し、お手玉をしながら入ってきた。
「おう、へなちょこ先生か!」
「へなちょことは失礼な。……これ、あげるから機嫌直してよ」
遥人はミカンを岩鉄に投げ渡した。
岩鉄はそれを見事にキャッチし、少しだけ表情を緩めた。
「……桜井先生。何をしているのですか」
「いやー、通りかかったら怒鳴り声が聞こえたんで。……親方、注射嫌いなんすか? 刺青(タトゥー)入れるより痛くないでしょ?」
「バカ野郎、墨と注射は別だ! 針が見えるのが嫌なんだよ!」
意外な弱点だった。
遥人は「なるほどねえ」と頷き、怜子にウインクをした。
「部長。俺が親方の目隠しになります。その隙に、部長の神業でブスッといってください」
「……は?」
「親方、俺と勝負しましょう。俺が『あっち向いてホイ』で勝ったら、大人しく腕出してくださいよ」
遥人は岩鉄のベッドの柵に腰掛けた。
あまりにも医療従事者らしからぬ態度。普段なら叱責するところだが、今の岩鉄は遥人に興味を引かれている。
「面白い。俺が負けるわけねえだろ!」
「じゃあ行きますよ! 最初はグー……」
二人がじゃんけんを始めた。
怜子はその隙を見逃さなかった。
素早く岩鉄の腕を取り、駆血帯を巻く。
血管は……細い。脱水気味で逃げやすい血管だ。若手が失敗するのも無理はない。
だが、私なら。
「じゃんけん……ホイ! あっち向いて……ホイ!」
遥人が指を右に向けた。岩鉄がつられて右を向く。
視線が外れた。
今だ。
怜子は迷いなく、翼状針を滑り込ませた。
皮膚を突き破る感覚、血管壁を捉える確かな手応え。
逆血確認。成功。
「……え? あ?」
岩鉄が向き直った時には、すでにテープで固定されていた。
「終わりです」
「は? いつ刺したんだ?」
「あなたがへなちょこ先生に負けている間によ」
怜子は手早く片付けをした。
岩鉄は自分の腕と怜子を交互に見て、バツが悪そうに鼻を鳴らした。
「……ちっ。痛みも何も感じなかったぞ。……大した腕だな、姉ちゃん」
「職務ですから」
怜子はクールに返したが、胸の奥が少し温かくなった。
機械人形ではなく、技術屋として認められた気がしたからだ。
廊下に出ると、遥人が壁にもたれて待っていた。
「さっすが部長! マジで早業でしたね。俺、見えなかったっす」
「……あなたの『あっち向いてホイ』のおかげですよ。くだらないけれど、効果的でした」
「でしょ? 俺と部長、いいコンビになれるかも」
彼は無邪気に笑った。
いいコンビ。
大学病院の看護部長と、落ちこぼれの研修医。
あり得ない組み合わせだ。でも、さっきの連携は、長年連れ添ったバディのように呼吸が合っていた。
「……調子に乗らないでください。次はあんなふざけた真似は許しませんよ」
「えー、厳しいなぁ」
遥人は伸びをした。
その時、彼のお腹が「グゥ〜」と情けない音を立てた。
「……失礼。朝から何も食べてなくて」
「医者が不養生ですね」
怜子は呆れつつも、白衣のポケットから何かを取り出した。
昨日、彼からもらったチョコレートの残りだ。
「……お返しです」
「えっ、くれるんすか?」
「糖分補給しないと、倒れますよ。……私の目の前で倒れられたら、書類仕事が増えて迷惑ですから」
素直じゃない。自分でも分かる。
遥人はチョコを受け取り、嬉しそうに剥いて口に放り込んだ。
「んー! 生き返る! ……部長のチョコ、俺のより美味い気がする」
「同じメーカーです」
「いや、隠し味が入ってますね。『優しさ』っていう」
彼はニカっと笑い、手を振って去っていった。
残された怜子は、廊下の真ん中で立ち尽くした。
顔が熱い。
更年期のホットフラッシュだろうか。
いや、違う。
胸の奥でチリチリと燃えるこの熱は、もっと別の、懐かしくてくすぐったい感情だ。
怜子は誰もいない廊下で、一度だけ小さく咳払いをした。
そして、先ほど彼と岩鉄が触れ合っていた自分の左手を、そっともう片方の手で握りしめた。
(……調子が狂うわ)
氷の城の主は、自分が溶け始めていることに、まだ気づかないフリをしていた。
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