第2話 『めまいの階段と、内緒のチョコレート』
その日の午後、高嶺怜子は地獄の縁を歩いていた。
定例の師長会議。
ズラリと並ぶベテラン看護師長たちを前に、怜子は今後の業務改善計画を説明していた。
「……以上が、来期の目標数値です。各病棟、徹底するように」
声を張り上げる。背筋を伸ばす。
だが、白衣の下では、冷や汗が滝のように流れていた。
(……暑い)
空調は効いているはずなのに、カッと体が熱くなる。ホットフラッシュだ。
さらに悪いことに、今日は朝から偏頭痛が酷く、視界の端がチカチカと点滅している。
会議が終わると同時に、怜子は逃げるように席を立った。
「お疲れ様でした」という部下たちの声を背に、廊下を早足で歩く。
早く、一人になりたい。
誰もいない場所で、この仮面を剥いで深呼吸がしたい。
怜子が目指したのは、あまり使われていない東棟の非常階段だった。
重い防火扉を開け、冷んやりとしたコンクリートの空間に入り込む。
途端に、膝の力が抜けた。
「……っ」
その場に崩れ落ちる。
踊り場の隅にうずくまり、膝に顔を埋めた。
情けない。
五十五歳。管理職。何百人もの部下を抱える私が、こんなところで女子高生のように体育座りをしているなんて。
呼吸を整えようとするが、動悸が治らない。
バッグから薬を取り出そうとして、手が震えてピルケースを落としてしまった。
カラン、コロン……。
乾いた音が響き、白い錠剤が階段の下へ転がっていく。
「あ……」
手を伸ばすが、体が動かない。
涙が滲んできた。
拾わなきゃ。でも、立ち上がれない。
誰か来てほしい。……いや、誰にも見られたくない。
その時。
下の階から、誰かが上がってくる足音が聞こえた。
サンダル履きの、ペタペタという軽い音。
(……誰か来る)
怜子は慌てて顔を上げ、立ち上がろうとしたが、めまいでよろけた。
手すりにしがみつくのが精一杯だ。
「……あれ? 何か落ちて……」
現れたのは、ボサボサ頭の研修医、桜井遥人だった。
彼は階段に落ちていた錠剤を拾い上げ、不思議そうな顔で上を見た。
そして、青ざめた顔で手すりにしがみついている怜子と目が合った。
「……ぶ、部長!?」
遥人が血相を変えて駆け上がってくる。
「どうしたんですか! 顔色、真っ白じゃないですか!」
「……来ないで」
怜子は掠れた声で拒絶した。
「あっちへ行って……私は、ただの休憩中で……」
「休憩って顔じゃないですよ! 貧血ですか? それとも……」
遥人は怜子の体を支えた。
若い男の体温と、微かな消毒液の匂い。
振り払おうとしたが、今の怜子にはその力すら残っていなかった。
「……放して。誰かに見られたら……」
「こんな時に世間体ですか? 誰も来ませんよ、ここ」
遥人は怜子を踊り場の壁際に座らせると、拾った錠剤をティッシュで拭いて差し出した。
「これ、飲みますか? 水、持ってきますけど」
「……いいえ、今は飲み込めそうにないわ」
怜子は首を横に振った。
遥人は困ったように頭をかくと、自分の白衣のポケットをごそごそと探った。
出てきたのは、一口サイズのチョコレート。
「じゃあ、これ。……低血糖かもしれないし」
彼は包み紙を剥き、怜子の口元に差し出した。
まるで、駄々をこねる子供をあやすような手つきだ。
「……いりません」
「いいから。口開けてください」
「子供扱いしないで……」
「患者扱いしてるんです。ほら」
強引に唇に押し当てられる。
カカオの香りに負けて、怜子は小さく口を開けた。
舌の上で、甘い塊が溶けていく。
脳の芯まで染み渡るような甘さだった。
「……おいしい」
「でしょ? 俺の非常食っす」
遥人は隣にどかりと座り込んだ。
あろうことか、看護部長の隣に、地べたで。
「……あなた、勤務中でしょう。何をしているのですか」
「サボりです。……指導医が怖くて逃げてきました」
彼は悪びれもせずに言った。
「そしたら、もっと怖い部長がへたり込んでたんで、ビビりましたよ」
「……悪かったわね、怖くて」
「いや。……今の部長は、怖くないです」
遥人は膝を抱え、前を向いたまま言った。
「なんか、普通の人間って感じで。……俺は、こっちの方が好きだな」
ドキリとした。
好き、という言葉にではない。
私の「弱さ」を肯定されたことに、胸がざわついたのだ。
「……誰にも言わないでくださいね。こんな所にいたこと」
「言いませんよ。俺のサボりもバレちゃうし」
彼はニッと笑い、立ち上がって手を差し出した。
「立てますか? ……無理なら、おんぶしますけど」
「冗談じゃないわ。セクハラで訴えますよ」
「うわ、元気出たみたいっすね」
怜子はその手を取らず、自分の力で手すりを掴んで立ち上がった。
ふらつきは消えていた。
チョコレートのおかげか、それとも、彼の能天気な笑顔のおかげか。
「……戻るわ。仕事が山積みなの」
「ほどほどにしてくださいよ。……倒れたら、俺が一番に飛んでいきますから」
遥人は敬礼のポーズをして、階段を降りていった。
その背中を見送りながら、怜子は口の中に残る甘さを反芻(はんすう)した。
生意気な研修医。
成績は最下位。要領も悪い。
けれど、彼だけが知ってしまった。
鉄の女の鎧の下にある、ボロボロの素肌を。
怜子は階段の踊り場で、一つだけ深呼吸をした。
冷たいコンクリートの匂いの中に、ほんの少しだけ、春の日差しのような温かさが混じっている気がした。
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