最終章 契約偽装結婚した幼馴染と

第30話 ◇ヴィンセントの正体


 シェリルがアレックスと別れたらしい──その噂は、久しく感じていなかった興奮を呼び覚ました。


 ──やっと邪魔者が消えた。


 口の端が上がるのを抑えられない。

 アレックスさえいなくなれば、キャスター家の財産も土地も、すべて我がハイライト家のものになる。


 ずっと病床に伏せてた世間知らずのお嬢様など、扱うのは簡単だ。契約書でも婚姻文でも、甘く優しい言葉を添えて差し出せば迷わずサインするだろう。

 そのあとは、適当にそれらしい理由をつけて近郊の別邸にでも送ればいい。離婚を切り出す頃には、契約はすべて整っている。彼女の手元には、何ひとつ残っていない。


 ──思ったより、時間がかかったな。


 シェリルを落とすための情報は、金で抱き込んだ記録局の管理官から手に入れたものだ。

 同じ境遇を装い親近感を抱かせるために「病弱だった」と偽って近づいた。行動パターンも把握し、都合よく姿を見せて「運命」を演じた。

 そして、理想の男性像を仕立ててやったわけだが──まさか王子様だなんて。なんとも世間知らずなお嬢様らしい。

 知った瞬間、笑いを堪えるのに苦労した。


 ──機は熟した。


 噂を耳にして三日。

 勝利を確信しながら、庭園へと足を向けた。

 あの場所なら、シェリルがいる。悩みごとがあるとき、彼女がどこへ行くのか。そんなもの、とっくに読み切っている。

 もっとも、もうすぐそれを理解する必要すらなくなるが。


 俺は、もはや浮き立つ気分を隠すことすらしなかった。

 アレックスがいなくなった今、俺を止められる者などいない。今日で、すべてが思い通りになる。

 そう信じて疑わなかった。


 *


 昼過ぎの庭園にしては、やけに静まり返っていた。

 普段なら客や下働きの姿がちらほら見えるのに、今日は気配すらない。


 ──好都合だ。


 誰にも邪魔されず、シェリルから正式な返事をもらえる。考えただけで、愉悦と高揚感で胸が満たされていく。

 庭園を照らす陽光は、まるで天が祝福しているように降り注いでいた。


 温室の前に歩み寄ると扉に手をかけるより先に、張り詰めた声がもれ聞こえてきた。

 

「……アレックス様だって、最初から……!」

「お前こそ……勝手に決めつけて……!」


 怒声まじりの口論。声の主は、シェリルとアレックスだ。


 ──ここまできて、喧嘩か?


 たまらず口元が歪む。

 罠にかかったとも知らず、あっさりアレックスを切り捨てたシェリル。そして未練がましく引き止めに来たのに、結局言い争いにしかならなかったアレックス。


 ──なんとも滑稽だな。


 どちらも、俺の手のひらの上で踊らされているにすぎない。

 

「……さよなら!」


 叩きつけられるように扉が開いた。

 シェリルが涙を浮かべたまま飛び出し、こちらをまったく見ずに駆け抜けていく。


 ──仕上げにしては、上出来だ。


 追う気など、さらさらない。

 俺は迷うことなく温室の中に足を踏み入れた。

 

「これはこれは、アレックス卿。いたく盛大に振られましたね」

「ヴィンセント……」

「ダメじゃないですか。彼女には王子様みたいに優しく接しないと。夫婦なのに、そんなこともわからないんですか? ああ、失礼。夫婦は夫婦でも、偽装夫婦、でしたっけ」


 嫌味ったらしく肩をすくめてやる。この勝者の視点から見下ろすときを、どれだけ待ったことか。

 嫌悪、憎悪、屈辱──アレックスの歪んだ顔は、負け犬そのもの。立場の上の者が、下に落ちた瞬間。その表情は、どんな快楽よりも優越感を与えてくれた。

 

「……王子様なら、お前がシェリルを追ったらどうだ?」

「俺が? 冗談。あんな女、追いかける必要ないだろ。数時間もすれば、あんたのことなんか忘れて俺のところに来るさ」

「それがお前の素か」

「だいぶ骨が折れたが、演技は得意なんでね」

「ずいぶんと余裕だな。本当にシェリルが戻ってくるとでも?」

「当然だ。手に落ちた駒は、放っておいてもこちらへ転がってくる」


 アレックスの眉がわずかに動いた。

 しかし口調はずっと冷静そのものだ。どうせ、去勢を張っているのだろう。

 

「……おしゃべりが過ぎるんじゃないか?」

「これが喋らずにいられるか。俺はいま、楽しくてしょうがないんだよ。シェリルの財産は、全部俺のもの。それだけじゃなく、あんたの大事なものまで奪ってやった。悔しいだろ? 絶望しただろ? ああ、最高の気分だ」

「シェリルを利用したこと……後悔させてやるからな」


 アレックスの声は低く、鋭い冷気の塊のようだった。

 だが、俺にとっては負け犬の最後の遠吠えにしか聞こえない。


「後悔、ね」


 はっ、と鼻で笑い一蹴する。

 

「あんたさ、あんな女のどこがいいんだ? 憧れが王子様なんてガキみたいな理想を抱いた、世間知らずのじゃじゃ馬じゃないか」

「お前にはわからない」

「わからなくてけっこう。あの女には微塵も興味がない、ただの駒だ」

「だろうな。だからお前は……シェリルを追わず、ここに残った」


 アレックスは首を傾け、俺のことを哀れむように微笑んだ。余裕──そう言い換えても、まだ足りないほどの笑み。

 

「なんだよ……その顔は」

「いや。お前は本当に、何も気づいていないんだな」


 くつ、と小さくもれた笑い声。それは挑発でも怒りでもなく、揺るがぬ確信だけだった。

 ぞくっと背筋に冷たいものが走る。


「なにが……そんなにおかしいんだよ!?」


 笑われている理由がわからない。それが腹の底を焦がしていく。

 アレックスは堪えきれないというように、くつくつと喉を震わせていた。


「……っ、おい! 答えろ!」


 胸がざわつく。

 こいつの態度は、明らかにさっきまでと違う。立場が逆転したように、俺のほうが追い詰められている感覚。

 何を知っている? 何を掴んでいる?

 不気味な威圧感に、じりじりと喉元が締めつけられる。

 アレックスは獲物の逃げ場がないことを確信した眼差しで、俺を見下ろした。

 

「散々バカにしてきたその“じゃじゃ馬“に、お前はとっくに手綱を握られてるんだよ」

「なにを……!?」


 アレックスの視線が、何かの合図を送るように俺の背後へ流れた。


「ヴィンセント様」


 耳に刺さる、よく知った声。振り返るよりも先に、凛とした響きが心臓を跳ねさせた。

 

「話は、全部聞かせてもらいました」


 嫌な予感、なんてものではない。

 底なしの沼に引きずり込まれるような感覚が、身体中をじわじわと支配していく。

 

 恐る恐る振り返ると──こちらをまっすぐに見据えたシェリルが立っていた。

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