第21話 動き出した歯車


 そして、ヴィンセント様に紅茶を買ってもらったあの日から、三日が経った今日。

 紅茶の香りと一緒にヴィンセント様の姿まで思い出してしまいそうで、実はあまり手がつけられずにいたる。これもきっと、「運命」という言葉の余韻がまだ抜けていないせいだ。

 だから今朝は、まったく別の茶葉を選んでメイドに淹れてもらった。


 *

 

 昼食を済ませて、私は図書館へ向かう。

 その途中、無意識のうちにアレックス様の館の前を通り、遠くから視線を向けてしまっていた。


 ──私、妻なんじゃなかったの……。


 アレックス様とは、もう八日も顔を合わせていない。

 “この関係“になる前は、こんなに間が空くのは当たり前だったのに。今は、その当たり前がどうしようもなく寂しい。

 庭にも、窓の向こうにも、彼の姿は見当たらない。深い息をひとつ落として、通り過ぎた。


 *


 着いた先は、王都で三番目に大きい図書館。

 開放感のある高い天井、フロアいっぱいの本棚、紙の香りに、ページをめくる音。外の喧騒から隔てられた図書館は、小鳥のさえずりが響く森の中にいるような安らぎに包まれていた。

 

 受付で名前を記入すると、顔なじみの司書がにこやかに声をかけてくる。


「シェリル様、こんにちは」

「こんにちは」

「いらっしゃると思っていました。今日は新刊の日ですもんね」

「はい、読むの楽しみにしてきました」


 今日は月に一度の新刊入荷の日。

 毎回、棚にどんな物語が並ぶのかが楽しみになっていた。


 ──今日の新刊は、っと。


 ずらりと並べられた表紙を順に追っていく。

 国の歴史、解剖学、政治経済といった小難しい本から、冒険活劇や童話に絵本、恋愛小説まで。幅広いジャンルが置かれている中で、ある一冊の本に目が止まった。


 ──貴族同士の……恋。


 手を伸ばして、その本を取り上げる。それは、目を伏せて涙を流す女性の横顔が描かれた恋愛小説だった。

 あらすじを追う。

 主要人物は、上級貴族の娘と没落貴族の息子。二人は幼馴染だったが、彼が貧しい身分になり会えなくなってしまう。身を立て、ようやく地位を築いた彼が再び彼女の前に現れたとき、彼女は政略結婚の直前で──。

 そんなあらすじだった。


 ──悲恋の話、なのかな……。


 本を握る手が強まる。

 幼馴染、身分違い、政略結婚──どこかアレックス様と私のことと重なって見えた。

 読んでみたいような、読みたくないような。物語だとわかっていても、今は同じような結末をたどる気がしてしまう。


 ──せめて、表紙が泣き顔じゃなければなあ。


 これが、二人が寄り添って笑っている絵や、微笑んでいる横顔の表紙だったら読んでいたかもしれないのに。

 はあ、とため息をつきながら本を戻そうとしたとき。


「こんにちは」


 隣から、もう聞き馴染みのある軽やかな声が聞こえた。

 艶のある金髪、細められたエメラルドグリーンの瞳、いつものように優雅な立ち姿──案の定、彼だった。


「ヴィンセント様、こんにちは」

「シェリルさんも新刊を?」

「はい」


 にこりと、ごく自然に微笑みを返す。

 予想外の反応だったのか、ヴィンセント様は少しだけ目を丸くした。

 

「今日はあまり驚かないのですね」

「なんとなく、そんな気がしてましたから」


 これまで、行く先々でヴィンセント様に遭遇してきたのだ。ここまでくると今日会わないほうが不自然だと思えるくらいには、彼との逢瀬に違和感を抱かくなっていた。

 それが「運命」だとは、まだ思えそうになかったけれど。


「それは……恋愛小説ですかね」


 ヴィンセント様の視線は、私が抱えている本に向けられていた。

 

「はい。ちょっと気になったんですけど、やっぱり違うのにしようかなって」

「貴族同士の恋、ですか」


 そう言ってヴィンセント様はあらすじを追ったあと、「なるほど」と小さく頷いた。


「シェリルさん、今ってお時間ありますか?」

「今、ですか?」

「ええ。少しお話ししたくて」

「はい……まあ少しでしたら」


 ヴィンセント様は「ありがとうございます」と顔を傾げながら微笑んで、すぐに視線を出口のほうへ向けた。


「ここでは込み入った話はできませんし……一度、外へ出ましょう」


 私をエスコートするように自然な仕草で歩き出す。

 彼のそばを歩く私の足取りは、少し重かった。ヴィンセント様は、いったいどんな話をするつもりなのだろう。これ以上に込み入った話をされたら、頭も気持ちもこんがらがって解けなくなってしまいそうなのに。

 それでも、彼の歩調に合わせてしまう自分がいた。


 *


 たどり着いた先は、図書館の中庭。

 木漏れ日がさわさわとこぼれ落ちるベンチに、並んで腰掛けた。


「シェリルさんは恋愛小説がお好きなんですか?」

「そうですね。でも、なんでも読みますよ」

「読書家なんですね」

「はい。それに……小さいときは、ほんとに読書だけが楽しみでしたから。だから、今でも読書は好きなんです」


 一日中ベッドの中にいた幼少期。どれだけ本に世界を教えてもらい、救ってもらったことか。そして、あのとき私に本を持ってきてくれた王子様。彼がいなかったら、今でも私の世界は灰色だったかもしれない。

 

 ──私の、憧れの王子様……。

 

 やさしいロイド様? 絵に描いたように完璧なヴィンセント様? それとも、意地悪な──。

 の顔が浮かんだ瞬間、憧れとは違う感情が胸の中をくすぐった。それは、春風がふわりとあたたかく心を撫でていくような──幼い頃には知らなかった感情だった。


「シェリルさん?」

「……あ、はい!」


 名前を呼ばれて、はっと意識を現実に戻す。

 さっきまで頭の中でちらついていたのは、なぜだろうか。意地悪な笑みを浮かべた、あの人の姿だった。


「すみません、ボーッとしてたみたいです」


 小さく苦笑いをこぼしながら謝罪する。

 はたと顔を上げたときに映ったヴィンセント様の表情に、どきりとした。いつも微笑みを絶やさずにいるヴィンセント様の顔つきが、今は真剣そのものだったからだ。

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