第三章 運命の歯車

第19話 金髪の貴公子、再来


 ──どうして、「大丈夫」なんて言っちゃったんだろう。


 ロイド様夫妻の結婚記念パーティーから一週間が経った今でも、私はあの日の夜の出来事を繰り返し自問自答してた。

 アレックス様に偽装夫婦のことがバレていると言えなかった。ヴィンセント様に告白され、手の甲にキスされたことも、ずっと口に出せずにいる。


 言ってしまったら、どうなってしまうのだろう。


『妻としての自覚が足りてないな』


 なんて言われて、さらに詰め寄られるかもしれない。そんなのもう、私の心臓がもたない。ただでさえあの夜、バルコニーで抱きしめられたときの鼓動がまだ耳の奥に残っているのだ。

 それに、手の甲とはいえ他の男性にキスを許してしまったなんて知られたら──私のことを軽蔑して、“この関係“を解消させられてしまうかもしれない。


 ──そんなの、イヤだな……。


 アレックス様に嫌われることを想像しただけで、胸の辺りがきりっとねじれる。

 偽装夫婦なんて、元々反対だったのに。アレックス様となんて、絶対上手くいきっこないって思ってたのに。

 

 ──なのに、どうして……。

 

 気持ちの整理はつかないし、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 アレックス様の意地悪な顔、おどけたセリフ。だけど、ふと見せる真剣な眼差しに、無邪気な笑顔、繊細な指先──これまでのすべてが走馬灯のように駆け巡る。


 頭がぐちゃぐちゃなのは、それだけじゃない。

 ヴィンセント様。あんな王子様みたいな告白。やっぱり異性に慣れてないなんて、嘘としか思えない。

 だけど、あの夜の光景は幼い頃に夢見ていた憧れの王子様の姿と重なってしまって──現実なのに、夢の続きを見ているように思えてしまう。


 ──ああ、もう! わかんない……!


 このまま自室にこもっていても、もやもやする気持ちが膨れ上がるだけだ。


「少しだけ歩こう……」


 私は軽く身支度を整えて、部屋の扉を開けた。


 *


 向かった先は、家からそう遠くない場所にある庭園。

 季節の花が咲き乱れ、あおあおと茂る木々の葉の間をやわらかな風が通り抜けていく。澄んだ池の水面は昼下がりの陽射しを反射して、きらきらと揺れていた。


 退院してから何度も訪れている場所。静かで、落ち着けて、心が穏やかになる。

 中でも、一角にある温室が私のお気に入りだった。

 小さな扉をくぐれば、外より少し温かい空気と花の香りに包まれる。外よりもゆったりと時間が流れているようで、自然と呼吸も楽になっていった。


 ──やっぱり、落ち着くなあ。

 

 温室の奥には二脚の椅子と小さな丸いテーブルが置かれている。私は慣れた動作でその椅子に腰を下ろした。ガラス越しに陽射しが差し込んでいる温室は、さながら教会みたいに神聖なものに映る。

 花々の香りに癒されて、少しだけ現実を忘れそうになった頃。温室の扉が開かれて、見知った人影が現れた。


「……あ」


 一気に意識が現実に引き戻されていく。


「これはシェリルさん、こんにちは」


 ぴんと背筋を伸ばした姿勢で挨拶をしてきたのは──ヴィンセント様だった。


「こっ、こんちには」


 こせつくように椅子から立ち上がって、スカートを摘み上げる。


「今日もいい天気ですね」

「そ、そうですね」


 なんて自然な会話運びなんだろう。私なんて、この前告白されたことが頭を駆け巡って、しどろもどろになっているというのに。


「あの、ヴィンセント様は、どうしてここに?」

「あなたに会うために」


 間髪を入れずに返される。にこっと微笑んだその顔は、予め答えを決めていたかのようにさえ思えてしまう。

「えっ……!?」と間抜けな声を出した私に、ヴィンセント様はくすりと笑った。

 

「なんて、気晴らしによく来るんです。この庭園は開放感があって綺麗ですし、何より落ち着きますから」

「そうだったんですか。実は私もそうなんです、今日も気晴らしに来ました」


 さすがに「気晴らしの原因のひとつは貴方ですよ」とは言えなかったけれど。


「お隣に失礼しても?」

「あ、はい」


 ヴィンセント様は軽やかな仕草で向かいの椅子に腰を下ろす。それに続くように、私も椅子に腰掛けた。

 丸いテーブルを挟んで向かい合う。差し込む光が彼の金髪を淡く照らして、硝子細工のように煌めく。まるで幻のように、どこか現実味のない人。

 にこにこと微笑んでいるその人は、私を見つめながら、本当に現実感のないセリフを落とした。

 

「シェリルさんは、花の妖精みたいですね」

「えっ!?」

「こうして花に囲まれているシェリルさんも、とても絵になります」


 媚びるようなお世辞ではなく、純粋な賛嘆さんたんの響きを持っていた。

 私は恐る恐る、抱いていた疑問を投げかける。

 

「ヴィンセント様って……異性に慣れてないって、ほんとですか?」

「どうしてですか?」

「だって、そんなセリフ平然と言えるなんて……」


 おとぎ話の中でしか聞かないようなロマンチックで破壊力のある言葉を、そんなにも涼しい顔で言えるのだろうか。もし彼が異性に慣れていないというのなら、その平然さは一体どこから来るのだろう。


「以前お伝えしましたが、昔の俺は身体が弱くて。だから、その頃から思ってたんです。大人になったら、かっこいい男になるぞって」

「かっこいい男……」

「はい」


 つまり、多分だけど、彼は自分なりに“かっこいい男性”を想像して、それを目指して努力してきたのだろう。それはなんだか──幼い頃の私が夢見ていた“王子様”に近いものだった。


「いろいろと調べた結果……こういう男性像が理想だと知りました」


 そう言ったヴィンセント様の翠色の瞳に、ほんの一瞬だけ冷たい光が走った気がした。それは、獲物を逃すまいと距離を詰める狩人みたいな、背筋をなぞるような光。

 けれど、それはすぐに笑顔の裏に隠れてしまう。

 

「でも難しいですね。理想と現実はやっぱり違くて」


 彼は軽くため息をつき、眉を下げて自嘲するように笑った。

 

「いえいえ。じゅうぶん、かっこいいと思いますよ。ヴィンセント様の言動に、ときめかない人なんていないでしょうし」

「そうですかね」

「はい。勘違いしちゃう人もいて大変なんじゃないですか?」


 実際、初めて彼に会った日のスイーツの前で、私もちょっとした勘違いをしてしまったわけだし。

 あの優しさや笑顔、ぐっと詰めてくる距離感に、誰かが本気で恋をしてしまっても不思議じゃない。

 

「シェリルさんになら、勘違いされてもかまいませんよ」

「またそんなことを……!」

「俺は本気ですから」


 にこりと笑った顔は、やっぱり現実味がないほど完璧な笑顔だった。


「答えは急いでいませんので」

「でも……私には、アレックスという夫が……」


 そう。私には、アレックス様がいる。

 口にして、はじめて気づく。

 たとえ偽装夫婦だとしても──この関係を壊したくないと思ってしまった。それが執着心なのか、手放すのが怖いだけなのか、自分でもまだうまく言葉にできないけれど。

 

「偽りの関係に愛なんてないでしょう? シェリルさんは、きっと俺を好きになりますよ」


 微笑んでいるのに、どこか挑むような瞳。好意というより、必ず自分のものにしてみせる、という野心にも似た気迫がかすかに漂った。

 人が変わったようなヴィンセント様に言葉を返せずにいると、彼は瞬時に「失礼、少々気持ちが先走りましたね」と申し訳なさそうに頭を下げた。


「また会いましょう」


 そう言い残して、温室の扉の方へ歩き出す。私は優美な後ろ姿を目で追うことしかできなかった。

 一人になった温室には、花の香りだけが残った。

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