終わりの章

未練を残して…

 ーー*日野■■*ーー


 小学四年生の夏。私のクラスに、季節外れの転校生がやって来た。

 ……『転校生』か。

 その言葉にそこまでの魅力は感じられず、私は背くように窓際を向いて、黄昏れることにした。

 新作ゲームが発売した……そんな話の方がまだ心が躍るというもの。 

 

木ノ橋きのはし翔楼かけるです。…よろしくお願いします」

 

 女子達の黄色い歓声を聞けば、顔を見なくとも転校生が容姿端麗なのは明らか。そんな注目の的に目もくれず、私は気まぐれなそよ風に身を委ねた。


 …は~、ゲームしてぇなぁ…。


 今日は一度もゲーム機に触れていない。禁断症状の前触れか、指先はピクピクと無意識に動いて、帰ったらプレイ予定のゲームのウォーミングアップが始まっていた。

 そんな私は万年ゲームオタクだ。勉強や転校生などは、人生の二の次でしかない。

 寂々じゃくじゃくとした自己紹介も終わりを告げ、転校生は教師にうながされるまま最後尾の席へと足を進めた。

 登校したときには用意されていた後ろの空席は、どうやら転校生の為に用意された席だったらしい。

 支配者のようにクラスを一望できる特権を奪われた私は、簒奪者の顔を一目拝んでやろうと、憮然と通り過ぎようとする転校生を一瞥した。

 すれ違いざまに横目に映った転校生は、確かに整ったカッコいい容姿をしていた。

 だが同時に、そこはかとなく漂ってきた哀愁に、急に転校してきた理由を思わず勘ぐってしまう。

 まぁ家庭の事情なんていろいろだ。余計な詮索は慎まないと。


 初日の転校生なんて、檻に入れられた小動物も同然。休み時間ともなれば、好奇心の強い肉食獣にあれよあれよと弄ばれる。


「ねぇ…どこから来たの?」「なんでこのタイミングで来たん?」「部活には入るの?」「どこに住んでるの?」


 これも転校生の定め。休み時間はこの調子がずっと続き、ご近所さんである私にとっては、とてもいい迷惑だった。

 ところが翌日ともなると、驚く程に人集りが捌けていた。

 それもそのはず、転校生はとっても無愛想で、「うん…」か「いや…」と、味気のない返答を繰り返すばかり。

 彼と話してもつまらない…と、興味の熱は一気に冷め、声をかける者の次第にいなくなっていった。


 数日が経ったある日の事。

 教師たちが話しているのを偶然聞いてしまった。


「しかし…翔楼君も可哀想な子ですね。あの歳で両親が…」


 転校生の両親は事故に遭い、帰らぬ人となっていた。

 聞けば、運転中の事故だったという。家族と休日の帰り道、翔楼を乗せた車は飲酒運転の車に衝突され、諸共に歩道外に突き飛ばされた。

 幸い翔楼には意識が残っていて、機転を利かせて父親のスマホで救助を呼んだらしい。

 しばらくして、駆けつけた救助隊に翔楼は助けられた。だけど彼らの到着は虚しく、両親が目を覚ますことはなかったそうだ。

 翔楼は小さいながらに、家族の死を目の前で目撃していたのだ。

 悲痛にして壮絶な過去。

 私は言葉を失い、目頭が熱くなった。

 

「決めた!」


 この時からだ。うざがられるのは百も承知で、翔楼に元気になってもらおうと積極的に話しかけた。

 「好きな食べ物は何?」「趣味はある?」「休みの日は何してるの?」「ねぇねぇ、この漫画知ってる?」

 「ねぇ」「ねぇ」「ねぇ」「ねぇ」「ねぇってば!」

 答えてくれるまで離れない。そんな勢いでグイグイ迫った。

 案の定『なんだコイツは…』という目で見られた。だけど、それが私には嬉しかった。

 別に変な性癖を持ってるわけじゃない。翔楼の目から初めて、暗い色がちょこっと消えたのだ。

 どんな感情であれ、誰かに対して『悲しい』以外の感情を向けてくれた。それが最初の一歩になると私は踏んでいた。

 それからもめげずにアタックを続けた。もちろん他意はない。

 だけど翔楼が心を開いてくれるのには、少々骨が折れた。

 

 ー 


 ある日、進展があった。

 

「のおぉぉぉぉぉ。またテストだ~!嫌だよぉ…」


 きっかけは些細な出来事。定期的に訪れる魔の週間……テスト期間がやってきたのだ。

 恥ずかしながら私は頭の出来が悪い。運動は得意なのだが、類まれなる運動神経も座学の前では成す術もない。

 そのうえ、私はテスト後の居残り常習犯。居残り回避のため、なんとかして高得点を叩き出したかった。

 それに放課後、他の生徒達が帰宅する中、先生との補習はなかなか堪えるものがある。まるで『コイツは阿呆な子なんですよっ!』って、見せしめにされている気がして凄く惨めな気持ちになる。


「嫌だなぁ、テスト…」


「お前、勉強ができないのか?」

 

 教科書と睨めっこをしながら頭を抱えていると、不意に声をかけられた。

 書物を閉じ、その声の主を見てみる。そして、思いがけない人物を前に、私は思わず変な声が出た。


「ふぇ!?翔楼君!」


 初めてのお声がけ。

 嬉しかったけれど、正直それどころじゃない。なにせ私の唯一の楽しみ、帰宅後のゲームがかかっている。放課後の居残りなんてやってられないのだ。

 悩んだ挙句、


「勉強…教えてくれない…?」


 私は藁にもすがる思いで頼み込んだ。

 突然の無茶振りだ。内心では、断られるんだろうなと諦めムード。私は期待せずに、帰って来る言葉を待った。

 しばらくが空いて、彼は溜息混じりに言った。


「わかった。ちょっとだけ勉強見てあげる」


「え!見てくれるの!」


 思わぬ展開に前のめりになる。

 ずっと私を避けていたのに、心境の変化でもあったのかな?

 もしかすると!狙いはこの美少女わたし


「なんか失礼なことを考えてないか?」 


「いや!そんなことないよ!」


 一筋の希望が見えたのは事実。

 その日から、私の家で勉強を教えてもらえることになった。


「ねぇねぇ、このゲーム一緒にやろう!」


「君の頭が悪い理由がわかったよ…」


 時には誘惑に流され、勉強の合間で息抜きにと、ゲームをして遊んだ。なんだかんだ言って、翔楼は不貞腐れながらも付き合ってくれる。

 それでも勉強した時間の方が長かった。なにしろ私はどの教科も壊滅的だ。本当なら予断を許さないくらい崖っぷちなのだ。


 それからテスト当日。いつもは白紙に近い答案用紙も、多少は黒く塗り潰せた…と思う。

 

「それじゃあ答案用紙を返却すぞー」


 数日が経ち、審判の日であるテストの返却日がやってきた。

 教師に名前を呼ばれ、一人、また一人と教卓の前に進むと、答案用紙を受け取った瞬間、誰もがその点数に見合った反応を見せた。

 肩を落としたりする子、喜んだりする子、こんなもんかと表情を変えない子。

 やがて自分の番が回ってきて、私は自信に溢れながら答案用紙を受け取りに行った。そして記載された点数を見て、私は内心でガッツポーズを取った。


「ヌフ、ヌフフフフ」


 休み時間、私は怪しい笑みを浮かべながら、後ろに椅子ごと方向転換した。向かうは、ぶっきらぼうな翔楼の顔。

 今回のテスト結果を、恩師である彼に披露目したかったのだ。

 

「見てよ!私の人生!史上最高得点!」

 

「お前…よくこんな堂々と…」


 一枚の答案用紙を見るなり、翔楼は顔を曇らせた。

 

 38点。


 私の中では、過去類を見ない高得点。こんな成果を出した自分が…勉強を頑張った自分が誇らしかったのだ。


「翔楼君はどうだった?」


 そう聞くと、彼は顔色一つ変えずに数枚の答案用紙を鞄の中から取り出した。


 全教科…90点代。内二教科が100点。


「のぅ…」


 世界の不条理を痛感した。

 そして教師が教室から去り際、私の名を呼んで放課後の居残りが確定した。

 私が基準点に満たっていたのは、たったの三教科だけだったのだ。


「翔楼君、今日もうちに来るでしょ」


 放課後の激戦を終えた翌日。私は翔楼に、いつもの調子で声をかけた。


「勉強を見るだけって…」


 すると、以前と同じ鬱陶しそうな顔をされた。

 勉強を見てもらっていた時と同様、自然な流れで誘えると思ったけれど流石に通用しなかった。

 彼が勉強を見てくれたのは単なる気まぐれか、あるいは憐れみだったのかもしれない。

 私はしょんぼりと肩を落とし、しぶしぶ彼に背を向けた。


「待って…」


 ボソリと呟かれた声に、私はふっと振り返る。

 その視線の先で、翔楼はモジモジと気恥ずかしそうにしていた。そしてはにかみながら、彼は朗らかに頬を緩めた。 


「やっぱり今日も行くよ」

 

 翔楼が見せてくれた初めての笑顔。

 この時ようやく、私達は友達になれたのだ。


 ー


 中学…高校と、意外にも私達の腐れ縁は続いた。

 翔楼は私の背丈を追い越し、より一層カッコよくなった。性格も一転して以前よりは明るい。だけど口数は多くはない。元々クールな性格だったんだと思う。

 

 翔楼はモテた。

 私の知る限り、少なくとも三回は恋文や口頭で告白されている。

 そんな翔楼の様子を見ていると、時折、自分でもわからないのだが、心の中に薄暗い靄がかかる。その時は決まって、翔楼が女子に告白された話を知った時。ひどい時は、私以外の女子と話しているだけでも、奇妙な感覚が胸の中で不快に渦巻く。その正体不明な動悸は、未だに私を苛んでいる。

 だけど、翔楼が私のもとに戻ってくるたびに、その不快感は一瞬で消え去る。むしろ我が家にいるかのように、不思議と心が穏やかになるんだ。

 なんでだろ?

 まぁ、翔の話は置いておこう。

 対して、私の近況といえば──


「俺と付き合って下さい!」


 翔楼以上にモテた。

 どうやら私は千年に一度と言っても過言ではない、超絶美少女だったらしい。一月には三人以上の男子に告白され、その数は今月に入って、合計で十五人を超えただろう

 そんな男子たちに引く手あまたな私だが、すべての告白を丁重に断った。

 率直な感情を言うと、好きでもない人と付き合うのは、なんか違う気がしたのだ。

 持論だけど、恋愛について大事なのは片方だけの気持ちじゃなく、双方が思い合っていることこそが重要だと思っている。

 そんな理由で、私は数多くの男たちを無残にも泣かせてきた。


 ーー


 高校二年生になったある日。

 私は家でいつも通り、翔楼とゲームをして遊んでいた。

 ジャンルは先日発売したばかりの、長らく愛され続けているシリーズ物の新作格闘ゲーム。

 ゲーム画面を執拗に見つめ、もはや体の一部と言っても過言ではないコントローラーを思うがままに操り、翔楼をジリジリと追い込んでいく。

 その最中、不意に翔楼が囁いた。

 

「好きだ…」


「ふぇ!?」


 優位に立っていた私に、不意打ちの重い一撃。

 そしてディスプレイには、ドドン!と『K.O.』の文字。

 勝者は私だ。

 ヒットポイントを削られたのは、私の心の方だった。


「フフン。動揺を誘う作戦だったんだろうけど無駄だったね!」


 ぶっちゃけ凄く動揺した。

 翔楼は賢い。そして負けず嫌いだ。窮地に追い込まれると持ち前の頭を使って巻き返そうとする。翔楼はたまに、こういった馬鹿な手段を選択するのだ。

 だけど…


「本気なんだけど…」


 翔楼の表情は至って真剣。頬を薄っすらと紅潮させて、まっすぐに私を見つめている。

 冗談を言っている様子はない。

 『本気』と書いて、『マジ』だった。


「………え?……はっ?え!?」


 暫し間が空いてから、私の口から素っ頓狂な声が漏れた。

 信じられない。あの翔楼が?いつから?どんなところが?

 ありとあらゆる感情が嵐のように吹き荒れる。


──だけどストンと腑に落ちた。


 翔楼が恋人を作らなかった理由も、私が告白を断り続けてきた理由も…。

 いつからか私達は、互いを想い合っていたんだ。

 

 ー


 翔楼との交際も順調に続き、私たちは大学生になった。

 大学を目指す気はあまりなかったけれど、翔楼が大学に進学すると聞いて、私も彼と一緒にいるために必死になって、勉強の励む日々に明け暮れた。

 小学生の私が今の私を見たら、きっと腰を抜かして驚くことだろう。これも頭脳明晰な彼氏様が、小学生の時から勉強を見てくれたお陰だ。

 たくさんの友人、頼れる恋人、想像もてしいなかった大学生活。

 思えばこの時が、幸せの絶頂期だった。

 きっと私は、死ぬまでこの人と添い遂げるんだ。そう信じて疑わなかった。

 でもそんな思いはある日を境に、突然裏切られることとなる。


「ごめん…僕と別れてほしい」


 大学生活二年目が始まる直前、翔楼に別れ話を切り出された。

 あまりにも唐突な出来事に頭が真っ白になったが、なんとか持ち直して理由を尋ねた。しかし翔楼は、納得のいく理由を言おうとしない。それどころか、私が呼び止めるのも無視して、逃げるようにその場を去っていった。

 唐突な出来事に、私は追いかける気力もなく、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 ずっと一生を共にする、そう信じて疑わなかった彼の裏切り。

 彼のことは理解していたつもりでいた。それは私の勘違いだったのだろうか。そんなことを考えているうちに日は暮れ、気づけば家で呆然とうずくまっていた。

 視界が歪み、世界が遠くなっていく。

 まるで今ま人生すべてが、私の理想を象った虚構のハリボテでできていて、それが一瞬で引き剥がされ、本当の現実を突きつけられたようだった。

 このままではいられない。

 明日、翔楼ともう一度話し合うために、胸を締め付ける不安を振り払いなぎら、私は強引に眠りについた。

 しかしその後の展開は、私の予想を斜め上へと進んでいく。

 

 翌日、私は同級生たちから思いもよらない話を耳にした。

 翔楼が大学を中退したと、同級生たちの間で、その話題が持ちきりになっていた。私も半信半疑で大学側に問い合わせたところ、それが事実であることが発覚した。

 翔楼は私の前から完全に消息を断ったのだ。

 

 …どうして…?


 幸せだった日常は一転。憤りを感じていると、同級生たちが私のことを励ましてくれた。

「あんな奴のことは忘れろ」「男なんて五万といる」「新しい男を見つけて次に進もう」

 だけどそれも、今の私には煩わしいノイズにしか聞こえない。

 忘れろだと?次に進めだと?

 簡単に言ってくれる。

 そんな簡単に忘れられたなら、翔楼のことを好きになんてなっていないんだよ…。


 しかし何事も、時間が解決してくれる。

 大学三年生になった頃には悲しみも癒え、普段通りの日常に戻っていた。

 だけど翔楼はいない。はたして普段通りと言っていいものか…。

 ともあれ翔楼が残していった爪痕は大きかった。翔楼を頼りにしていた私は、著しく成績が落ちた。単位が足りず、危うく留年するところだったけど、友人たちの助けもあり、なんとか留年は回避することができた。

 そして一番は私の心…。

 心の傷が癒えたとはいえ、瞳を閉じる度に思い出す。

 翔楼との過ごした数年間は、私の記憶の中に鮮明に焼き付いている。

 未練…というやつだろう。

 結局のところ、翔楼が私の前から消えた理由もわからないままだ。

 友人や知り合いのツテを当たって捜索したものの、手がかりは一切見つからない。

 翔楼が住んでいたアパートも、もぬけの空だった。

 捜索は難航。

 悶々と、そんな日々を繰り返しながら、翔楼の捜索を諦めて、もう前に進むべきかと思い悩んでいた。


 *ーー


 春と夏の境目とも言える梅雨のある日。

 じっとりとした雨の中、気分転換でもしようと私は外へと散歩に出ていた。片手には真っ白な傘。雨粒が地面を弾き、傘を弾き、植物を弾く。リズムのない不規則なリズムが、私の心に平穏を取り戻してくれる。

 いくら翔楼を探そうとも、まったくの進展がない。

 まるで何かに阻まれ、邪魔されているような、見えない陰謀のようなものを感じる。

 私の気のせいだろうけど、ここまで来るとそんなことを疑いたくなってくる。

 歩き続けていると、気づけば河川敷へとやって来ていた。

 そこで空耳にも近い、かすかな音が聞こえてきた。


「ん?なんだろう。鳴き声?」


 ザァザァと空気を飲む川波の唸りの奥で、それは確かに私に届いた。

 僅かな音に耳を傾け、その叫び声の主を探す。

 そして、水しぶきを上げる川の激流の中で、賢明にもがく小さな命を見つけた。


「黒い……猫?」


──ザッ、


 荷物を捨て、勢いよく地面を蹴る。そして脱兎の如く駆け出し、荒れる河川の中へと私は躊躇いなく飛び込んだ。

 無意識だった。翔楼の時と一緒だ。

 人であろうと猫であろうと、困っている人を…苦しんでいる人を放っておけない。

 きっとこれが、私の本質なんだろう。


「ニャー、ニャ!」


 川波を全力で掻き分け、濡れた毛並みを抱き寄せた。猫はビックリしつつも、爪を立てて私にしがみついた。

 …大丈夫、まだ生きてる。まだ生きたがっている。

 私は猫の無事を確認すると、全身全霊で踵を返した。


「ニャー」

  

 猫を先に高水敷に逃がしてやると、猫は一目散に駆け出し、そして『ありがとう』とでも言いたげに振り返って会釈をした。

 奇妙な行動に驚きにつつも、私も地上に上がろうと一歩を踏み出す。

 しかしその時──、


「え?」

 

 悪天候の影響が今頃になって、私の胸くらいの水位しかなかった川を、さらに巨大な生き物へと変貌させる。かろうじて保たれていた透明度は一瞬で茶黒く染まり、一匹の龍の姿を彷彿とさせる。その自然の猛威を前に、どんな障害も意味をなさない。

 まっしぐらに迫る口なき口に、私は一瞬にして飲み込まれ、勢いを増した激流に掴まれるように、深い水底へと引きずり込まれた、

 濁った視界。全身を揉む荒々しい奔流。

 運動神経の良い私でも、自然の猛威の前にどうすることもできない。

 だけど全身が水に浸かっせいか、自分でも驚くぐらい冷静になれた。


『アア…ソンナ。私ノセイデ…貴方ノ命ガ終ワッテシマウ…』


 翔楼は嘘をついたことがなかった。

 元々口数が少ないっていう理由もあるけど、少なくとも私の前で嘘をついたことはない。

 嫌な事は素直に嫌と言うし、言いたくない事は口にしない。

 それに翔楼は顔に出やすいからすぐに分かる。

 翔楼は結構単純なのだ。

 

 私は思った。

「僕と別れてほしい」

 最後にそう告げた時の翔楼の表情…今思えば、私よりも辛そうで今にも泣き出しそうだった。

 思ったんだ。

 あの時の翔楼は嘘をついてたのでは?…と。

 あるいは、翔楼がもっとも口にしたくない言葉だったんじゃないかと、そんな考えが今更になって頭をよぎった。


『ゴメンナサイ。貴方ハ…モウ』

 

 確信があった。

 自惚れだと思われても構わない。

 まだやり残した事がある。

 やり遂げなきゃ…。


『アア。貴方ハマダ、コノ世界二未練ガアルノデスネ…』


 そうだ。

 私には未練がある。

 翔楼に会いたい。会って話がしたい。

 私は…真実が知りたいんだ。


『ワカリマシタ。セメテモノ償イ二、ソノ願イ…叶エルオ手伝イヲサセテ下サイ』


 待ってろよ翔楼。

 絶対に見つけ出して、私の気の済むまで顔にキツイのお見舞いしてやるからなぁ。

 私の執念舐めるなよ!


『多少窮屈カト思ワレマスガ、コレシカ方法ガナイノデス。何卒、コレデ我慢シテ下サイ』


 ところで…

 頭の中で語りかけてくるこの声…

 貴方はいったい、誰なの?


 ー 


 ゆっくりと目を覚ます。

 ムクリと起き上がって周囲を見渡した。どうやら先程と同じ河川敷のようだ。多少は流されたみたいだけど、私の命は助かったらしい。

 雨はポツポツとみ始め、周囲には人集ひとだかりができていた。

 川に飛び込んでから、多少の時間が経過しているようだ。

 そして、なにやらザワザワと騒がしい。


     なんだろう?… ??」


 少し違和感を感じつつ、人混みの奥へと進んでいく。そこには制服を着た救命士が、一人の女性の処置に当たっていた。

 どうやら私の他に、川で溺れた人がいたらしい。だけど救命士の到着も虚しく、彼女は少し前に息を引き取ったみたいだ。周囲の人達も含め、救命士の表情から悲しみの色がうかがえる。


 …女の人も気の毒に…。


 私はフッと顔を上げて、女の人の顔を見た。

 その姿に、見覚えがあった。

 私と同じ背丈…

 私と同じ格好…

 そして私と同じ顔…


「……………ニャッ(なっ)…」


 思考がフリーズし、それからハッと我に返る。

 困惑しつつ、地面にできた薄い水溜みずたまりを恐る恐る覗き込んだ。


「ニャッ(なっ…!)」


 水面に映り込んだのは、ほっそりとした華奢な顔。スラッと尖った獣耳。小さいながらも迫力のある眼光。そして極めつけは四足の可愛らしい足に、ビシャビシャに濡れた漆黒の毛並み。

 

「ニャ…ニャ(ね…こ?)」


 ようやく現状を理解する。


「ニャ(どど)…ニャッニャー(どうなってるのーー!)」


 私は死んで…

 私は猫になっていた…。

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