第2話:聖域の酒場

新宿の路地裏。赤提灯が揺れる焼き鳥屋『文壇』。 ここは俺にとって、Wi-Fiの電波も届かない(実際には届くが、あえて接続しない)最後の聖域だ。 脂と煙の匂いが染み付いた壁紙は、クラウド上のどこにもバックアップされていない、アナログな歴史そのものだ。


「……で、松島の野郎、俺に引導を渡しやがった」


ハイボールのジョッキを叩きつけるように置く。氷がカランと、情けない音を立てた。


「時代は変わったんだよ、健」


対面の男、佐伯涼介さえき りょうすけが、煮込みをつつきながら淡々と言う。 同期デビューの作家。だが、俺とは違い、彼の著作は書店の平積みを維持している。 彼はスマートウォッチの通知を指先で弾きながら、憐れむような目を向けた。


「AIは重機だ。俺たちはオペレーターになればいい。お前はまだ、スコップで穴を掘ってる土木作業員気取りか?」


「スコップだからこそ、土の手触りがわかるんだよ」


俺は反論しようとして、胸ポケットを探る。 電子タバコを取り出す。吸い込む。 ……反応がない。 赤ランプが点滅している。またバッテリー切れだ。


「チッ……」


俺はテーブルの上にモバイルバッテリーを出し、ケーブルを接続する。 この機種は急速充電に対応していない。満充電まで4分。 俺はこの4分間を愛している。強制的な「待ち時間」だけが、情報を遮断し、思考を熟成させるからだ。


「見ろ、佐伯。この充電待ちの4分間。これが人間だ」


俺は充電中のスティックを指差して力説する。


「AIにはこの『待つ』という概念がない。奴らは0.1秒で答えを出す。だがな、文学ってのは『答えが出ない時間』に宿るんだ。もどかしさ、苛立ち、空白。それが欠落した文章なんて、ただのテキストデータだ」


酔いが回っているせいか、口が滑らかになる。


「俺はこの4分間で、次の展開を考える。紫煙の代わりに、脳内のメモリをデフラグするんだ。これこそが『不便の美学』だ」


佐伯は冷めた焼き鳥を口に運び、ため息をついた。


「それを世間では『機会損失』って言うんだよ。お前の脳内サーバー、レイテンシ(遅延)が酷すぎるぞ」


佐伯の正論が、アルコールで緩んだ頭に刺さる。 だが、俺は視線を横に向けた。そこにはもう一人、静かに座っている男がいる。


牧野悠人まきの ゆうと。俺のアシスタントであり、弟子だ。 今どきの若者にしては珍しく、俺の説教臭い作家論を嫌な顔ひとつせず聞いている。


「牧野、お前ならわかるだろ? この『間』の重要性が」


牧野はハッとしたように顔を上げ、人の良さそうな笑みを浮かべた。


「はい、先生。すごく……興味深いです。その『不便を正当化するロジック』、最高にエモいです」


「だろう? エモい、か。まあ、悪くない表現だ」


俺は満足して、充電が終わり緑ランプが点灯した電子タバコを手に取る。 牧野はテーブルの下でスマホを弄っていた。メモでも取っているのだろう。熱心なやつだ。


「先生のその、時代に抗う姿勢。まるでエラーを吐き続ける旧式OSみたいで……本当に勉強になります」


「おい、褒めてるのかそれは」


「褒めてますよ。希少価値レアリティが高いです」


牧野はニコニコと笑っている。 その瞳の奥に、感情の色がまったく見えないことに、俺は気づかなかった。


宴がお開きになり、店を出る。 夜風が冷たい。 佐伯はタクシーアプリで配車を済ませ、スマートに去っていった。 俺は千鳥足で駅へ向かう。


「先生、大丈夫ですか?」


牧野が支えてくれる。 その時、彼の手にあるスマホの画面が、ふと目に入った。


ボイスレコーダーアプリが起動していた。 録音時間は2時間15分。 今の飲み会の最初から最後まで、すべて録音されていた。


「……お前、録音してたのか?」


俺が聞くと、牧野は悪びれもせず、スマホをポケットにしまった。


「ええ。先生の言葉は、一言一句が『貴重なサンプル』ですから」


「サンプル?」


「あ、いえ。金言、です。忘れないように」


牧野は深々と頭を下げた。街灯の逆光で、彼の表情は影になって見えない。


「お疲れ様でした、先生。……次の作品、楽しみにしていますね。先生の『その思考』が、どう出力されるのか」


牧野は踵を返し、闇の中へ消えていった。 俺は一人、路地裏に残される。


ポケットの中で、電子タバコを握りしめる。 なぜだろう。 満充電のはずなのに、ひどく寒気がした。


俺はまだ知らない。 今夜の俺の酔っ払った戯言が、数日後、ネットの海で「別の形」をして泳ぎ出すことを。 そして、俺の愛する「人間的な空白」が、最も効率的に埋め立てられようとしていることを。

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