墜ちる音ー安ホテルの理由ー

月見里清流

音の正体は……

 ボンッ――。

 ドスン――。

 まただよ。

 また音がする。

 決まって夕方なんだ。

 もう聞きたくない。なのにいつも聞こえてくる。



 安ホテルの一室で微睡んでいると、聞き慣れない音が何処いづくともなしに聞こえてくる。金属のこすれる音や花火のような音ではない。もっとこう湿っぽく、耳障りな生々しい音だ。

 くぐもった破裂音――とでも言えばいいのだろうか?

 濡れたタオルを力一杯、両手で引っ張ったような音だ。我ながら良い喩えだ。

 時計の針は17時を廻っているから、風呂上がりに誰かが派手にタオルの水切りでもしているのだろう。


 その直後。

 何かが落ちる音がする。

 重めの――これまた生々しい重い音だ。こっちは良い喩えが見つからない。

 上か下か、右か左かも分からない。

 しかも毎日、だ。

 逢魔が時の僅かに手前、宵闇迫る窓辺にて。くたくたに疲れて微睡んでいると、必ず聞こえてくる。せっかく安くて良い宿に連泊して休んでいるというのに、これでは全く気が休まらない。



 旅行で訪れた京都にて――。

 私はある安ホテルに連泊していた。元々アルバイトで貯めた金で旅行に出るのが趣味だった。スマホの課金で溶かしてしまうなんて勿体ない。一期一会の旅を、経験を、刺激を――! それこそが人生を豊かにすると、若い頃から斜に構えてよく旅に出た。

 金なんてある訳ない。

 素泊まりは当たり前。漫画喫茶でも良いが、旅館やホテルの方がちゃんと休める。どんなボロ旅館だろうと狭かろうと汚かろうと、安ければそれに越したことはない。

 今日は市内の散策から早めに帰ってきた。

 見所の多い京の街。足が棒になるまで歩くのは良いが、翌日に疲れを引き摺るのは勘弁だ。



「……はぁ、何かが落ちる音、ですか」

 皺深く刻まれた、白髪交じりのおっさんホテルマンが疲れた表情かおで対応した。私の本気の訴えに辟易するように、彼は肩を竦めている。

「生憎と……、他のお客様からはそういった苦情は聞いておりませんのでねぇ」

 標準語で飄々と私の苦情をさらりと躱す。だが事実は事実なのだ。

「だから言ったとおりですって。何かこう、水っぽい破裂音がしたかと思うと、ゴトン――って大きな音が鳴るんですよ。1回だけなら全然良いんですけど、何回も連続する時があるんですよ」

「えー、何度も申し上げて大変恐縮でございますが。他のお部屋ではそういう音を立てているお客様はいらっしゃらないのです……」

「……こんなにしょっちゅう聞こえてくるのに? ホテル側で何か作業でもしてるんですか?」

「いいえぇ。何も」

 酷く倦んだ言いに腹が立った。

「でもねぇ、音がするのは確かなんですよ! どこの部屋か分からないけど、注意してください!」

「いや、だからねぇ、……あぁ、分かりましたよ」

 ホテルマンは観念したように「他のお客様に注意喚起をしておきます」とボソリと呟いた。陰湿な応対に眉を顰めるが、対応してくれるならそれで良い。

 そうとなったらロビーでたむろしている必要なんてない。

 部屋に戻りスマホで明日の予定を調べよう。

 ボロホテルだが安いだけあって人が多く泊まっている。だから絶対、壁の薄さが原因なんだ。誰かが変な音を立ててるに違いないんだ。


 フン――と息を漏らしながら、せんべい布団に雪崩れ込む。

 これで音もなくなるだろう。

 そう思うと溜飲が下がった。きっちり眠って良い気分のまま、また京都散策に出よう。

 ……安堵に胸を撫で下ろすと一緒に瞼も落ちてくる。

 余りに自然と襲ってくる睡魔に勝てる奴なんていない。

 そっと寝返りをうった感覚が最後の意識だった。



 ――それからのことだ。

 私は夢を見ていた。

 自分でもおかしいのは分かっている。

 夢を夢と自覚できる明晰夢――というのだろう。そんなことなんて人生でもほとんどなかった。

 なのに――今、夢の中にいることを分かった上で、私は汚らしい茣蓙ござの上に正座していた。

 薄い茣蓙の下は河原の石だろう。尖ってはいないが、脛がギリギリと傷む。

 一方で、視界に映る夕空は果てしなく澄み渡っている。その清らかな空気に触れれば何処までも走って行けそうなくらいに、空いっぱいにグラデーションがかったオレンジ色の輝きが、幾層にもキラキラと輝いている。



 しかし、どうしたことか。

 今、私が座っているこの地べたの左右。

 男が二人、ビンと張り詰めた様子で仁王像のようにそそり立っている。

 その姿は――、醜く薄汚い。

 最初は派手な和服だなぁ、と呑気に思っていたが、どうやら違う。


 赤い。

 白と黒の和服にポツポツと、しがみ付くような赤黒い色が裾を染め上げている。

 飛び散った液体がかかったような染みは、あぁ――、子どもでも分かる。

 よく見ると、男の足下も僅かばかりの赤い水たまりが散らばっている。


 男の手には――白い刀。 

 夕映えを浴びて日の光を受けてキラリと輝く刀は、とてもとても美しい。あまりの美しさに見蕩れていると――ゆらりと切っ先が動く。突然乱暴に背中をどんと押され、前屈みに視線が転がる。目の前は真っ暗な穴が広がっている。直径数メートルはあろうかという巨大な穴だ。焦げ茶色の土壁が、煤けた土塊が目の前に広がる。

 穴の奥は真っ暗で何も見えない。だが漂う饐えた臭いに、鉄が濁ったような刺激臭が混じり合っている。「うぇ」と声が漏れて鼻がもげる。



 臭い。

 痛いくらいに臭い。

 息が詰まって吐き気を催す。肺腑を劈く生臭さ――言葉にしなければ理性を保てないほどだ。


 何の臭いだ――?

 好奇心が僅かに屈ませる。

 小さな小さな暗い穴。墨を流したような色無き無明の先に――。



「うわッ――」



 眼、鼻、口。胡乱に定まらぬ視線、半開きの口。

 あぁ、いくつも、いくつもある。

 腐臭、鉄のような臭い。

 穴の壁は赤黒くこびり付いた――血。



 仄暗い穴が満々と湛えているのは、大量の首と血だ。

 血肉や骨片が陰湿に放つ臭気が鼻腔を突き刺す。

 左右の男は夕映えと返り血を浴びて仁王立つ。



 ここは断頭の――。

 そう思った途端、ハッキリと。

 右側の男が鈍く光る刀を、勢いよく一閃に振り下ろすのが見えた。



 ――見えたんだ。

 見えないはずなのに、見えたんだ。

 白刃が私に向かって……。



 ガクッ――と首が。



「うはぁっ――!」

 ゴロリと落ちる感覚が全身に走った勢いで、私は声を上げて飛び起きた。

 しゃっくりするように身体が痙攣し、一瞬で意識が覚醒する。

 安ホテル、せんべい布団、脂汗がしたたる白いシャツ。何もかもが現実だ。

 なのに――自分の首がガクッと切り離された、あぁ、衝撃が脳髄に染み渡る。それだけは僅かばかりの痛みを伴って、確かにあったのだ。


 夢。これは夢。

 ここはホテル。京都のホテルだ。

 自分に何度も言い聞かせながら首をなぞる。

 指先が違和感を感じると共に、ピリピリとした痛みが走る。


「……首」

 慌てて古ぼけた卓上の鏡を掴み見ると、首筋にはミミズ腫れにも似た赤い筋が走っていた。


「昨日は大変でしたね」

 翌朝のこと。

 よく眠れる訳もなく、壁にもたれながら眠れぬ夜を過ごした私は、狭いロビーで深い溜息をついていた。皺深いホテルマンが頬をなぞりながら声を掛けてきた。

「眠れましたか?」

「……いいえ」

「でしょうねぇ」

 ホテルマンが誘導するように視線を流す。それにつられて見ると、狭いロビーには2、3組の宿泊客が項垂れたりソファーに身体を横たえたりしている光景が広がっていた。どう見てもグロッキーの限りだ。

「皆あんな感じですよ。はしたんですけどねぇ――」


 もう10時を過ぎている。

 旅先のホテルでチェックアウトする時間にしては遅く感じる。


「もう朝五時に飛び起きてチェックアウトされたお客様も何組かおりました。それ以外の方は、皆寝不足のようですねぇ」

 飄々と――計り知れぬ感情を秘めた言い方に、背筋がぞろぞろと寒くなる。

 私の見た限りだが、昨日のチェックインや夕食時にロビーで寛いでいた血色のいい客も――今ここにいるのは皆、げっそりと頬痩けている客が多い。目の下の隈も、脂汗にじっとりとへばり付いているシャツを見ると、夢の出来事が三度脳髄を痺れさせる。

「まぁ朝食も口に入りません。入ってもちゃんと胃まで落ちるか分かりませんからねぇ」


 ――何を。

 ――何を言っている。



「今日はですから」

「め、命日……?」

「豊臣秀次公の眷属、妻妾や公達が悉く処刑された日ですよ」



 にべもなくホテルマンは言う。

 旧暦の9月5日――今も謎を残す豊臣秀吉による秀次の粛正。本人の切腹後、首が三条河原に据えられた。

 彼の首が見下ろす中、三十数名の近しい者達が殺された。

 ほんの小さな子どもから乳母に至るまで。

 何時間もかけて、一人一人首を刎ねていったという。


「このホテル、別に三条河原に近い訳じゃないんですけどねぇ。何でかよくがあるんですよ。だから安くでもしないと人が来ませんのでネェ」


 ……私は後悔した。

 安さに釣られて心霊現象なんて気にもとめてなかった。

 吐き気を我慢しながら首筋をなぞる。ヒリヒリとした痛みと首の堕ちる衝撃が脳裏を駆け巡る。

 あぁ、もう嫌だ。

 こんな宿に泊まる気なんて起きない。

 私は即、チェックアウトを申し出た。

「そうそう、お客さん気をつけてね」

 バタバタと手荷物を掻き集めフロントで手続きをする所で、ホテルマンが眉を顰めながら声を掛けてきた。

「……なんですか」

「一度そういう目にあった人ってね、結構引き摺られちゃうらしいんですよ。何処かでお祓いした方がいいよ。……お祓いが効けば、の話ですが」



 ――それからというもの。

 私は怯え続けている。

 ホテルマンに紹介してもらい、即日近くの神社でお祓いを受けた。

 しかし宿を変えても、――東京のアパートに戻っても尚、

 自分が斬られる様を見ることが出来る人間なんていない。

 私が見たのは――だったのかも知れない。

 目の前で一人一人、首を刎ねられては斃れていく。

 その数は正確に分からない。


 だけど、分かる。


 あぁ、今日モ聞こえる。


 また一つ、堕ちる。

 


 次の首は――誰だ?

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