第8話 『吊り橋効果』とかいう罠(前編)
『――あれ〜? わっ、氷野川さんだ〜! 偶然だね〜‼︎』
イヤホンから、うっすらと花の声が聞こえてきた気がする。
そろそろ席に戻ろうかと思い始めていた矢先、想定外のアクシデントに驚いて、私はその場で硬直してしまった。
どうして花がここにいる?
事務所の誰かが情報を流して私のサポートに向かわせた?
そんなわけない。私は今日のことを誰にも漏らしていないし、そもそも今の状況で花がここに来れば、現場は混迷を極めてしまう。
せっかく『秘密の共有』という最強の武器を手に入れたのに、花がいたら氷野川さんは、『自分と月城先輩が付き合っている』という事実を花にまで打ち明けてしまうかもしれない。
私に明かしたその直後に、同じクラスメイトである花には伝えないというのは、氷野川さんの中で一貫性を欠いた行為である可能性があるからだ。
まあ花は二人が付き合ってることなんて当然知ってるんだけど、それはそれとして。
『自ら打ち明けた唯一の相手として、水瀬雫を選んだ』という事実が、氷野川さんの中に刻まれていることが重要なのだ。
くっそ、何でここにいるんだ、花のやつ。
ただの偶然か? だとしたら本当に間が悪い。
唇を噛み締めて今後の行動を考えていると、イヤホンからカツン、カツンと硬い音が二回聞こえてきた。
月城先輩が、自身のスマホの画面を爪で叩いた音だろう。
お手洗いを長時間占有してお店の迷惑にならないよう、他のお客さんが入ってきたら合図を送ってほしい言っておいたので、きっとその役目を律儀に全うしてくれたのだ。
……とにかく、花と氷野川さんを必要以上に近付けるわけにはいかない。
あいつがいると、本人にその気は無くても、私の氷野川さん攻略が横取りされてしまう危険がある。
あの恋愛ハンターは、恋の気配を感じ取れば涎を垂らして食いついていく生粋の肉食獣なのだから。
急いでイヤホンを外し、私はお手洗いから飛び出していった。
*
それから一時間ほど経過した昼下がり。
私たちは何故だか――四人で遊園地にやって来ていた。
喫茶店でテーブルを囲み、「町でたまたま会った知り合い同士でお茶していた」と説明したところ、花が「それならせっかくだし、みんなで一緒に遊ばない?」などと距離感のバグったことを言い出した。
表立って言われたわけではないにしても、花は二人が付き合っていることを知っているだろうに。いや、例え知らなくたって、何らかの空気を察してその場を後にするくらいの配慮は見せてもいい気がする。
……きっと私へ向けた、花なりの援護射撃なのだろう。一緒に出掛ければ仲を深められると信じている、花の恋愛力の高さが垣間見える行動だった。
だけど確かに、氷野川さんと一歩踏み込んだ関係を築くには良いタイミングかもしれない。
月城先輩が頑張って私を褒めてくれたおかげで、氷野川さんの中では今、私の株が上がっているはずだ。この機会に友達と呼べる距離まで仲を深めるというのも、充分に現実的なプランに思えた。
幸い、デート中だった二人が前向きに話に乗ってきてくれたこともあって、四人での外出は存外すんなりと決まってしまった。
行き先についてあれこれ案を出し合い、これまた花が「行きたい!」と強く言い出したのが、この遊園地――通称〝はなぞのランド〟だった。
四人でゲートを潜り、入ってすぐの広場で一度立ち止まる。
地図を広げる氷野川さんたちを横目に、私はその場で深く息を吸った。
この遊園地で、氷野川さんと親密な関係を築いてみせる――そう決意して、私の遊園地デートプロジェクトは幕を開けたのだった。
*
――専属の運転手に迎えを頼み、我が家の車に三人を乗せ、高速を走ること一時間あまり。
お昼時を少し過ぎた頃、私たちは遊園地に到着した。
雫さんは最初乗り気ではなさそうだったけれど、チケット代は私が全て払うと伝えると、面白いほどあっさり手のひらを返してついてきた。やっぱり人のアキレス腱は的確に把握しておくに限る。
本当にお金や〝無料〟という言葉に弱いらしい。
そんなところさえ何だか可愛く見えてしまうのだから、恋というのは恐ろしいものだ。
恋は盲目――なんて言葉があるが、本当にその通りだなと最近つくづく実感してしまう。
そしてそんな変化が、舌を溶かし、脳を侵すほどに甘いから怖いのだ。この官能的な甘さから抜け出すことなど、きっと私には永遠にできない。
そろそろ私も、雫さんと一歩進んだ関係になりたかった。
いきなり恋人になって愛してくれなどとは言わないから、せめて普通にお喋りをして、顔を見たら笑顔で挨拶を交わすくらいには、彼女の内側に入れてもらいたかった。
だから、こっそりと月城先輩に耳打ちする。
「どこかで隙を見て、私と雫さんを二人にしてもらえませんか――?」と。
月城先輩は何も言わず、ただ引き攣った作り笑いを浮かべて頷いていた。内心では「何でこんな面倒なことに」とか「話が違う」とか「早く帰りたい」なんて思っているに違いない。
まあでも、普通に夜まで付き合ってもらうけれど。既に延長料金は払っているわけなので。
渦巻く欲望と利己的な思惑を胸の奥に隠し、私たちは遊園地へと足を踏み入れていった。
*
園内のレストランで昼食を摂った私たちは、花に腕を引っ張られながら、空いているアトラクションを順番に巡っていった。
〝はなぞのランド〟はその名の通り、そこかしこに季節ごとの花が咲き乱れていて、ただ園内を歩いているだけでも私たちの目を楽しませてくれる。
来るまではどこかぎこちなかった四人の関係も、一緒に遊園地を巡れば自然と笑顔が増え、気付けば心からこの状況を楽しめるくらいには余裕が生まれていた。
そうして園内にあるアトラクションの半分ほどを、四人で満喫したところで。
氷野川さんと二人きりになる機会は、想像よりも早く訪れた。
「次は絶叫系に乗ってみたいな〜。すっごく怖いジェットコースターがあるんだって〜」
花がパンフレットを読み込みながら、そんなことを言い出す。
彼女の手元を一緒に覗き込んでみると、確かに運営から推されるような形でジェットコースターの写真がでかでかと掲載されていた。
「ジェットコースターですか。ごめんなさい、あまり激しいものは得意ではなくて……」
「私も酔っちゃうかもなぁ。結構ぐるぐる系のやつみたいだし」
「――あ、じゃあうちが花ちゃんと一緒に乗ってくるよ! その間待っててもらうのもアレだし、二人は別のところ回ってきたら?」
私と氷野川さんが難色を示したところに、月城先輩がすかさず口を挟んできた。
おそらく先輩のアドリブで、別れさせ屋である私をアシストしてくれたのだろう。
花とは今日が初対面だろうに、何とも有難いことだ……と思っていると、花が寂しそうに口を尖らせた。
「えぇ〜? みぃちゃん来ないの〜?」
「まあまあ、うちが付き合ってあげるからさ! 何だぁ? うちだけじゃ不満かぁ?」
「そんなことないですけど〜」
先輩はそう言いながら、ちらりと氷野川さんへ視線を飛ばしていた。
これは間違いなく、今のうちに氷野川さんと仲を深めておけという私への合図だろう。
小さく頷いて、彼女からのパスを受け取る。
「それじゃ、しばらく別行動にします? 絶叫系のアトラクションっていくつかあるし、この際まとめて乗って来ちゃったらどうですか? 私たちもその間に別の場所を回ってくるので」
「そだね! したら後で合流しよっか。落ち着いたら連絡すんね。あ、二人はそれで大丈夫そ?」
間を置かず、月城先輩が同意の方向で話を進めてくれる。本当に頼りになる人だ。
それに比べて花、お前ときたら……一応は私の同僚だろうに。
「私は平気ですよ。水瀬さん、よろしくお願いします」
「うん、こちらこそ。じゃあ二人とも、また後で」
これ以上花が駄々をこねる前に、二人に手を振って歩き出す。
花も流石に力づくで引き留めて来ようとまではせず、月城先輩とのデートを楽しむ方向に切り替えていた。
二人になったところで、隣を歩く氷野川さんに尋ねる。
「さて。ちょっと時間ができたけど、どうしよっか。氷野川さんはどこか行きたいところはある?」
「いえ、なにぶん初めてなもので。水瀬さんにお任せいたします」
「そう? んー、じゃあ、どうしよっかな」
そもそも他にどんなアトラクションがあっただろうか。その場で立ち止まって、園内の地図を確認する。
氷野川さんはそんな私の隣に慎ましく並び、ニコニコと笑顔で待ってくれていた。
「えーっと。そうだな……」
お淑やかで思慮深い、この天使の笑顔を歪ませることができる場所。
氷野川さんを堕とすのに相応しい場所といえば――やはり、あそこだろうか。
「あのさ、氷野川さん……ホラーって興味ある?」
――言わずと知れた恋愛テクニック、〝吊り橋効果〟。
恐怖によるドキドキを恋のドキドキだと錯覚してしまう、恋愛市場における心理効果の代表格とも言えるこの吊り橋効果だが、これをそのまま鵜呑みにするのは実は相当な危険があった。
そもそも吊り橋効果とは、カナダの心理学者・ダットンとアロンが行った実験により、広く知られるようになった理論である。
その実験は、遠くバンクーバーを流れるキャピラノ川で行われた。
内容はこうだ。
まず安定した木製の橋と、揺れる吊り橋という二通りのロケーションを用意する。
それぞれの橋の中央にサクラの女性を配置して、渡ってきた十八歳〜三十五歳の男性八十五名に声を掛け、簡単なアンケート調査を行う。
アンケートの回答後、男性に「調査について詳しく知りたければ説明するので、後で連絡してきてくれ」と言って連絡先と名前が書かれた紙を渡す。
木製の安定した橋の場合、連絡先を受け取った人の数が十六人、その内実際に電話をかけて来たのが二人。割合でいえば十二・五%になる。
それに対し、揺れる吊り橋で連絡先を受け取った人数は十八人、その内実際に電話をかけて来たのが九人と、実に五十%もの男性が女性へのアクションを起こす結果となったのだ。
もちろん、これは実験の一部の結果を平易に抜き出しただけの数字であって、実際には他にも様々な内容の検証が行われている。サクラに男性を用いたり、同じ吊り橋で声を掛けるタイミングだけを変えてみたりとか。
だがしかし、如実に数字として現れたこの結果を無視することもできない。揺れる吊り橋を渡った男性の多くが、実際に連絡を寄越してきているのだから。
吊り橋を渡ったことによるドキドキは、男性たちの認知や行動に現実的な影響を及ぼしたのだ。
時に心拍数の上昇といった生理的変化と、人が抱く感情について、アメリカの心理学者スタンレー・シャクターは〝情動の二要因理論〟というものを唱えている。
これは『〝情動〟は、生理反応とその認知的な解釈の相互作用により生じる』と述べているものだ。
吊り橋の話に当て嵌めれば、『心拍数の上昇』という生理反応があった時、それを本人が『吊り橋を渡ったからだ』と捉えるか、『目の前の女性の影響だ』と捉えるかによって、その後生じる情動の性質に変化が生まれるという論を結ぶことができる。
このように自身の生理反応に認知的な解釈を挟み、『これは〇〇だからだ』とレッテルを貼る行為を〝ラベリング〟と呼び、また、誤ったラベリングで本来の要因とは異なるものに認知が帰属することを〝錯誤帰属〟と呼ぶ。
長々と語ってきたが、つまり何が言いたいのかといえば、〝吊り橋効果〟とは単にドキドキさせれば自動的に恋心へ切り替わるなどという便利なものではないということだ。
ドキドキとは、あくまで着火剤でしかない。
その後『このドキドキは恋心のせいだ』とラベリングさせ、氷野川さんに錯誤帰属を起こさせる必要がある。
もしも対応を誤れば、そのドキドキは『水瀬雫と一緒にいるストレスのせいだ』などのマイナスのラベリングをされ、むしろ嫌われる要因となってしまう。
その辺りの機微を正確にコントロールできて初めて、吊り橋効果は実用的な恋愛テクニックとして意味を持つのである。
必要なのは氷野川さんの心拍数の上昇と、興奮を促す継続的な仕掛け。
そこに私がフォローを入れることで、ストレスを軽減させるためのセロトニンやβ-エンドルフィンといった幸せホルモンの分泌を促し、その瞬間の私への依存度を一気に引き上げる。
そこでしっかり好感度を稼いでおけば、氷野川さんは錯誤帰属を起こして、私に恋心という名のラベルを貼ってくれるだろう。
そして、この一連の作戦に最も適した舞台が――私たちの目の前に聳え立つ、超巨大なお化け屋敷だった。
「氷野川さん。もし怖かったら無理しないで教えてね。私がいくらでも盾になるし、何なら途中でギブアップしたって大丈夫だからね」
ニコリと微笑んで、この後の攻略に向けて仕込みを済ませておく。
氷野川さんは負けじと天使のような笑顔を見せながら、「はい」と頷いていた。
洋館風の廃墟めいたお屋敷からは、おどろおどろしい気配が漂ってきている。
ここで少しでもビビったら負けだ。常に余裕を見せて、氷野川さんを華麗にエスコートしなければならない。
強く唇を噛み、覚悟を決めて――私は氷野川さんと共に、お化け屋敷の中へと踏み込んでいった。
恋する天使の裏の顔 〜恋愛アンチが嘘つき天使を堕とすまで〜 io @io1027
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