第27話

漁村での激戦から数刻後。高天原の日嗣(ひつぎ)の宮は、重苦しい静寂に包まれていた。朱雀すざく青龍せいりゅうは一足先に帰還し、日織ひおり月読命つくよみ玄武げんぶと共に、桔梗ききょうの帰りを待っていた。

朱雀すざくは、未だ顔色が悪く、心身の疲労が隠せない。青龍せいりゅうは、彼女の傍らに寄り添い、静かに自らの気を分けていた。


​広間の隅、桜花おうかは、白虎びゃっこの膝の上で、いつもよりそわそわとしていた。幼い手のひらを何度も握ったり開いたりしている。


​「むずむずする……なんか、お腹の奥がむずむずするの」

桜花おうかが口元に手を当て、不思議そうに言うと、白虎びゃっこは穏やかな笑顔を向けた。

​「ふふ。それはね、桜花おうかちゃん。ききょうちゃんの神威かむいをいっぱい浴びたからだよ。ききょうちゃんはね、とっても強いんだ」

白虎びゃっこは、桜花おうかの頭を撫でながら、ふと違和感を覚えた。


​(あれ?なんだか、この子の……体が小さくなったみたい?)

白虎びゃっこは首を傾げ、桜花おうかの身長と自分の膝の位置を確認したが、すぐに頭を振った。

​「ううん。あれ?逆だ。なんだか、少し大きくなっちゃったみたい……??うーん、しろ、わかんなーい」

白虎びゃっこは、瘴気しょうきの後遺症による認識の揺らぎだろうと気にしなかったが、桜花おうかの身体が、激戦を経た桔梗ききょう神威かむいによって何らかの影響を受けていることは確かだった。


​その時、宮に緊張が走った。桔梗ききょうが、高天原の鳥居をくぐって姿を現したのだ。彼女は、厳重に包まれた赤子の亡骸と、黒い粘液状の淀みを神具に収め、その手に携えていた。


​「皆、待たせたな。これが、かの異形の守りし生命の雛形と、その残照だ」

日織ひおりは、その物々しい荷を前に、表情を引き締めた。


​「桔梗ききょう。よくやってくれた。八咫烏やたがらす月読命つくよみの月の神殿へ、最大限の警戒をもって、これを移せ」

月読命つくよみの司る月の神殿は、高天原の中でも最も清涼せいりょうな気に満ちた場所の一つであり、邪な穢れを中和する力を持っていた。

​移された赤子の亡骸と淀みは、神殿の清浄な祭壇に丁重に安置された。日織ひおり月読命つくよみ、そして桔梗ききょうが、その調査に臨む。


​「この淀み、我々が知るいかなる穢れとも異なる。まず、私が天照あまてらす神威かむいをもって、その魂の根源を探る」

日織ひおりは、決意を込めた金色の瞳を輝かせ、手をかざした。神威かむいは、生命の根源へ直接干渉する力を持つ。日織ひおりは、赤子の亡骸に触れぬよう、わずかな神威かむいを淀みへと流し込んだ。

​その瞬間、祭壇の上の淀みが、まるで生きているかのように激しく痙攣し、日織ひおり神威かむいを弾き返した。


​「くっ……!」

日織ひおりは、強烈な拒絶反応にたたらを踏む。弾かれた神威かむいは、光の破片となって、清浄な神殿に散った。


​「日織ひおり様!」

玄武げんぶが声を上げる。


​「儂に代われ、日織ひおり。その淀みは、お主の神威かむいを喰らおうとする」

桔梗ききょうは、浄化、天照あまてらす天叢雲剣あまのむらくものつるぎ権能けんのうをもって、淀みの「存在の根源」を解析しようと、淀みに触れた。

桔梗ききょうが淀みに接触した、まさにその時だった。


​高天原の広間で待機していた桜花おうかの全身から、桔梗ききょうと同じ黄金の神威かむいが突如として溢れ出した。桜花おうかの体は、まるで熱を持ったかのように光り輝き、その光は、遠く離れた月の神殿の淀みと、権能けんのうを通じて共鳴した。

桜花おうかの幼い脳裏に、怒涛の如く、おぞましい負の感情の奔流が流れ込んだ。それは、憎悪や悲しみ、恨み辛み妬み嫉み、ありとあらゆる負の感情の集合体だった。

桔梗ききょうもまた、同じものを経験し、感じていた。


​(これは……! 数多の魂の集合体だと!? しかも、この感情は……この世界のものではない?!)

桔梗ききょうは、無理やり淀みから手を離した。その顔は、痛みと戦慄で歪んでいる。


​その時、桜花おうかが、月の神殿へ走ってきた。桔梗ききょうの隣に着くと、その瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出ている。

​「ききょう!」


桔梗ききょうは、桜花おうかの姿を見て、驚愕に目を見開いた。

​「桜花おうか、おぬし……!」

桔梗ききょうが少し背が伸びて成長している桜花おうかに驚き、言葉を失う中で、桜花おうかは淀みを見つめたまま、絞り出すように言った。


​「……この人は、辛く、悲しい思いを、してきたんだね……」

桔梗ききょうは、その言葉に息を呑んだ。自分が感じた並行世界の悲劇と憎悪の重みを、記憶を失ったはずのこの幼子が、全て理解し、共感している。


​(しまった……! 権能けんのうを通じて、今の出来事が流れ込んだのか……!)

桔梗ききょうが与えた八つの権能けんのうは、彼女自身の神威かむい桜花おうかの魂を根源的に繋いでいた。淀みへの干渉という途方もない負荷が、権能けんのうを触媒として、二人の間に情報の奔流を生み出してしまったのだ。


​「桜花おうか、駄目だッ下がるのだ!」

桔梗ききょうが声を張り上げるのも聞かず、桜花おうかの体から溢れる黄金の神威かむいは、さらに強まっていく。


桜花おうかは、全身から桔梗ききょうと同じ黄金の神威かむいを放出しながら、5、6歳ほどの背丈から、一気に10歳ほどの少女の姿へと急激に成長した。


​「な、なんだと……!」

​(儂が神威かむいを行使する度、権能けんのうによって神威かむいが流れ込み、成長を促していたというのか!?)

桔梗ききょうは、ようやくその因果に気づいた。度重なる戦闘と神威かむいの行使が、桜花おうかの成長を強制的に早めていたのだ。

​成長した桜花おうかは、涙を拭い、迷うことなく赤子の亡骸に触れた。


​「悲しい気持ち、わかるよ……」

​彼女の小さな手から、淀みとは比べ物にならないほど暖かく、優しく、純粋な金色の神威かむいが溢れ出し、赤子の亡骸へと流れ込んだ。

桔梗ききょうたち神々が流し込んだ神威かむいは淀みに拒絶されたが、桜花おうか神威かむいは、拒否されることなく赤子の魂の残照に触れていく。

​すると、赤子の亡骸から、微かな生命の光が揺らめいた。その光は、憎悪や悲しみを洗い流すように、淀みを清涼せいりょうな気に変えていく。


​『……ああ、貴女様は……』


​浄化された魂の集合体から、女の子の澄んだ声が響いた。


​『この子は、暖かくて、とても強い子だね……』


​魂は、桜花おうかへの感謝を述べた後、深い悲哀を込めて続けた。


​『我々は、神として産まれなかったから、こんな所まで行き着いてしまった。望まれぬまま、あやつに体良く利用されてしまった……。申し訳なく思う、正しき世界の神達よ』


​それは、世界のことわりから弾かれた魂の、偽りのない告白だった。

​光は、日織ひおりへと優しく向けられた。


​『日織ひおり様……あちらの世界ではあなたの兄弟としては産まれることが出来なかったが、一目会えてよかった……。そろそろ行くね、お姉ちゃん……』


​魂は、日織ひおりに最期の別れを告げた。その光は、徐々に弱まり、霧散していく。本来、この世界の輪廻には組み込まれない存在だったため、浄化されたことで、完全に消滅してしまったのだ。

日織ひおりは、その場で全身を震わせた。「お姉ちゃん」という呼称。それは、母を失っている日織ひおりの心の奥底を、容赦なく抉った。

日織ひおりは、最高神としての威厳をかなぐり捨て、口元を覆った。その金色の瞳から、大粒の涙が流れ落ちる。


​「……お姉、ちゃん……」

日織ひおりの、神としての重圧と、一人の女性としての悲しみが混じり合った、震える呟きが、清涼せいりょうな月の神殿に響き渡った。

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