第26話

海沿いうみぞい製塩所せいえんじょ跡地。激しい戦闘の痕跡こんせきと、禍々しいまがまがしい瘴気しょうき残骸ざんがいが潮風にさらされていた。

朱雀すざくは、瓦礫がれきの山を背に、顔面を蒼白そうはくにしながら荒い息を繰り返していた。神威かむい極限きょくげんまで消耗しょうもうした疲労もあるが、それだけではない。彼女は、口元を片手で覆い、わずかな霊力の乱れと共に、込み上げてくる吐き気を必死に堪えこらえていた。


朱雀すざくの視線は、遠くで桔梗ききょうが浄化作業を終え、丁重に安置あんちしている赤子の亡骸なきがらに向けられていた。桔梗ききょうは、神威かむいを帯びた神聖な白布で赤子の亡骸なきがら幾重いくえにも包み、傍らかたわらの清浄な岩盤の上にそっと|横たえ、まるで生きているかのように大切に扱っていた。


​(あの、異形の怪物……あれが、この生命の雛形ひながたを守っていた、ゆりかごだった……)

朱雀すざくの脳裏には、自分が破壊したのは、単なることわりを乱した妖怪ではなく、「生まれるはずだった命の守り手」だったかもしれないという戦慄の事実に、精神的な動揺を禁じ得なかった。


​「朱雀すざく、大丈夫か」

青龍せいりゅうが心配そうに声をかける。


朱雀すざくは、震える声で答える。

「ええ……大丈夫。ただ……瘴気しょうきにやられただけですわ」

青龍せいりゅうは、朱雀すざくの動揺の理由を察し、静かに彼女の傍らかたわらに立った。


​「朱雀すざく。気にするな」

青龍せいりゅうは、静かで強い声で言った。

「俺たちは、救える命を救うために来た。村人たち、そして、そなたが無事であること。その事実だけで、俺は充分だ」

青龍せいりゅうは、朱雀すざくの肩に力強く手を置いた。


​「これ以上の捜索は、残った八咫烏やたがらすに任せよう。そなたは、ひどく消耗している。高天原に通じる近くの鳥居に向かおう。少し休んでいるといい」

青龍せいりゅうは、そう言って、朱雀すざくへの深い気遣いきづかいを見せ、清々しいすがすがしい表情で鳥居へと向かい始めた。


桔梗ききょうは、最後に残った瘴気しょうき残照ざんしょうを、自身の神威かむいで完全に焼き払い、浄化を終えた。今回の淀みよどみは、通常の瘴気しょうきとは異なりことなり、粘液のような黒い思念の痕跡こんせきを残していた。桔梗ききょうは、赤子の亡骸なきがらを包んだ白布と共に、その粘液の残骸ざんがいも、厳重げんじゅう神具しんぐに収めた。


​(この淀みよどみ……我々の神威かむい喰らうくらう。あの赤子の亡骸なきがらも、我々の世界のことわりから外れていた。この事態……この九尾の神威かむいと知識を持ってしても、皆目見当かいもくけんとうがつかぬ)


桔梗ききょうは、頭痛を覚えおぼえて、額に手を当てた。それは、自身の知る世界のことわりが崩壊し始めていることへの、根源的こんげんてきな恐怖と焦燥だった。

​彼女は、天照大御神の使者である八咫烏やたがらすを心中で呼びかけた。


​(八咫烏やたがらす。至急、この場へ)

桔梗ききょうの呼びかけに応じ、間もなく、八咫烏やたがらすが高天原に通じる鳥居をくぐって神速で駆けつけた。その使命ゆえに、常に桔梗ききょうの呼び出しに応じられるよう、待機していたのだ。


八咫烏やたがらすは、桔梗ききょうが示す赤子の亡骸なきがらと、粘液の残骸ざんがいを見て、その場で顔面蒼白そうはくになった。

​「な、なんと……! このようなことが……!? 」

​「儂は、この赤子の亡骸なきがら淀みよどみ高天原たかまがはらへ持ち帰る。八咫烏やたがらす、そなたは、先行して報告に向かえ」


八咫烏やたがらすは、一刻いっこくを争う事態であると悟りさとり、天へと急いで飛び立っていった。

桔梗ききょうは、浄化を終えた製塩所せいえんじょ跡地を見つめ、静かに呟いつぶやいた。


​(日織ひおり……そなたは、あの時から、この世界の裏側うらがわを、この因果律いんがりつの崩壊を、少し察していたかのように思える。そうでなければ、儂は、この事態にどう対処していか、皆目見当かいもくけんとうもつかぬ……)

ことわりを捻じ曲げた代償が、桔梗ききょうの心に重くのしかかっていた。


高天原たかまがはら日嗣ひつぎみや。最高神である日織ひおりは、月読命つくよみ、そして会議のために招集された玄武げんぶと共に、八咫烏やたがらすからの報告を受けていた。


​「異形の怪物が、生まれるはずだった赤子を守っていた……?」

日織ひおりの声は、普段の穏やかおだやかさを失い、張り詰めていた。

八咫烏やたがらすは、脂汗あぶらあせを流しながら報告を終えた。


「はっ……桔梗ききょう殿は、間もなく、その赤子の亡骸なきがらと、残照ざんしょう淀みよどみを持ち帰るかと……」


玄武げんぶが、神妙な面持ちで口を開いた。

日織ひおり様。事態は、我々が当初考えていた『瘴気しょうき蔓延まんえん』というレベルを超えておりますゆえ。これは、世界の存在の根幹こんかんに関わる事態やもしれません」


日織ひおりは、強く結んでいた唇をゆっくりと開いた。

「西のぬしたる大蛇おろちには、今回、西の龍脈りゅうみゃくの守護に専念してもらっている。この場は、我々で対処する」

​最高神としての責務を胸に刻み、毅然とした態度で決断を告げた。


​「八咫烏やたがらす桔梗ききょうが戻り次第、直ちに赤子の亡骸なきがらと、残照ざんしょう淀みよどみをここへ。我々、高天原たかまがはらの神々の神威かむいをもって、これを調べる必要がある」

日織ひおりは、拳を強く握りしめた。


​「どのような結果であれ、赤子に罪は無いと思いたい。我々は、神として、この子の魂に何が起こったのか、その真相を究明せねばならぬ」


日織ひおりの金色の瞳に、強い決意と、わずかな人間的な感情が混じり合う。彼女は、この未曽有みぞうの事態が、過去の因果から生じた世界の歪みゆがみであり、桜花おうかという存在、そして彼女を依代として現れた観測者かんそくしゃが、その鍵を握っていることを、既に本能的に察知していた。

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