第25話

朱雀すざくは、最後の神威かむいを絞り出し、結界の周りに炎の壁を構築していた。蛾の異形が撒き散らす鱗粉りんぷんは霊力を腐敗させる力があまりにも強大で、朱雀すざくの炎は、その壁を維持するだけで限界に達していた。


​(この炎の壁が破られたら、次は結界、そして村人が……!)

​蛾の異形は、朱雀すざくの疲弊を見透かすように、奇妙な歓喜の羽音を立てながら、一気に距離を詰めてきた。巨大な人間の腕が振り上げられ、朱雀すざくの頭上めがけて振り下ろされる。


​「くっ……!」

朱雀すざくは、もはや避けることも、炎の壁を補強することもできない。彼女に残された唯一の行動は、四神守護刀・朱雀ししんしゅごとう・ すざくを盾にして、炎の壁の内側で耐えることだけだった。

​その瞬間、夜の闇を切り裂き、青白い閃光が奔った。


​「ことわりを乱す淀みよどみよ、凍てつき消えよ!」

​声と共に、朱雀すざくと蛾の異形の間に、巨大な氷の壁が瞬時に生成された。振り下ろされた蛾の異形の腕は、その壁に激突し、激しい音を立てる。

​その衝撃が収まると同時に、壁の上から、凛とした蒼の装束を纏った長身の男性が、軽やかに舞い降りてきた。長く流れる青色の髪が、潮風になびく。彼の右手に握られていたのは、長身の四神守護槍・青龍ししんしゅごそう・ せいりゅうだった。


​「朱雀すざく。貴様の判断は正しかった。救援と避難を優先するその姿勢、見事だ」

青龍せいりゅうは、朱雀すざくの疲弊した姿を一瞥いちべつし、冷静に状況を把握した。青龍せいりゅう神威かむいは、夜の漁村を覆う瘴気しょうきを一時的に凍てつかせ、よどんだ空気の流れを変えるほどの力を発していた。

朱雀すざくは、安堵と驚愕が混じった表情で、青龍せいりゅうを見上げる。


​「青龍せいりゅう殿! い、いつの間に……」

​「俺は、新たに日織ひおり様より高天原の鳥居の管理を任されている。貴様たちの降臨後、すぐに白虎びゃっこ殿を蝕んだ瘴気しょうきの波が、さらに強まるのを感知した。居ても立ってもいられず、急ぎ援軍に参った」


青龍せいりゅうは、朱雀すざくの危機と、瘴気しょうきの増大という二つの理由から、東の領域から急遽駆けつけてくれた。

​蛾の異形は、突如現れた新たな強敵に警戒心をき出しにし、再び鱗粉りんぷんを撒き散らし始めた。

青龍せいりゅうは、涼やかな表情のまま、巨大な蛾の異形に向かって一歩踏み出す。


​「朱雀すざく。結界の維持に|専念しろ。貴様が守り続けた命を、俺が守る。このけがれた鱗粉りんぷんは、水と氷の力で水底に沈めようぞ」

朱雀すざくは、深く頷き、再び結界の維持に全霊を注いだ。

青龍せいりゅうの戦闘方法は、槍を構えながら、水と氷の神威かむいを自在に操るものだった。

青龍せいりゅうは、四神守護槍・青龍ししんしゅごそう・ せいりゅうを右手で構えたまま、左手を広げる。すると、海面から巨大な水のうずが巻き上がり、青龍せいりゅうの周囲を護るように流動りゅうどうし始めた。

​蛾の異形が撒き散らす霊力を腐敗させる鱗粉りんぷんは、水のうずに触れた瞬間に溶かされ、無力化される。


​蛾の異形は、水を恐れることなく、俊敏な動きで青龍せいりゅうへと突進する。四本の人間のような腕を振り回し、青龍せいりゅう肉弾にくだんで仕留めようとした。

青龍せいりゅうは、その突進に対し、動かない。ただ、左右への軽い足捌きだけで、異形の攻撃をかわしていく。異形が腕を振り回すたびに、水のうずが異形の動きに合わせて形を変え、攻撃をわずかに遅らせる。


​「ほう。霊力を腐敗させる鱗粉りんぷん。厄介ではあるが、水の流れを乱すほどではない。貴様の動きは、確かに素早い。だが、俺の水と氷は、ことわりの壁だ」

青龍せいりゅうは、構えたままの槍を動かすことなく、水と氷の動きだけで異形を翻弄ほんろうし続けた。水は瞬時に氷となり、異形の足元を凍らせ、再び溶けてしなやかな水のくさりとなり、その自由を奪っていく。


​異形は完全に青龍せいりゅうのペースに巻き込まれていた。そして、青龍せいりゅうは、異形の動きが最大に拘束された瞬間を見逃さなかった。


​「今だ、朱雀すざく!」

青龍せいりゅうは、機を逃さなかった。朱雀すざくの疲弊ははなはだしいが、この千載一遇せんざいいちぐうの好機を逃すわけにはいかない。

朱雀すざくは、青龍せいりゅうの指示にすぐさま反応した。残る神威かむい全てを、一撃に集中させる。


青龍せいりゅうは、四神守護槍・青龍ししんしゅごそう・せいりゅうを両手で強く握りしめ、水と氷の神威かむいを限界まで集中させる。朱雀すざくは、紅蓮の翼を大きく広げ、刀身に炎と風の神威かむいを集中させた。


​​二柱の神威かむい交錯こうさくし、水氷と炎風、蒼と朱の二色の霊力が混ざり合い、凄まじい勢いで螺旋らせんを描き始めた。

​まず、青龍せいりゅうがその権能けんのうを解放した。


​「吹き荒れろ激流! 」

​海面から絶えたえ供給きょうきゅうされる膨大な水が、巨大な異形の周囲の瘴気しょうきを瞬時に凝集ぎょうしゅうさせ、嵐の層を形成する。そこに、朱雀すざくが放った風の霊力が、嵐の層を外側から捉えとらえた。

​ゴオォッ!


​風は水と一体化し、凄まじい加速度かそくどをもって螺旋状らせんじょうに回転し、高密度の水滴の散弾さんだんと化して異形を襲った。その攻撃は広範囲を容赦ようしゃなくぎ払い、異形の体表に張り付いた未消化の村人の体や、瘴気しょうきの粘液を皮膚を抉るえぐるように切り裂き、一切の回避を許さない。

散弾さんだんされた水飛沫みずしぶきは、その高速移動による断熱膨張だんねつぼうちょうと、青龍せいりゅう極低温きょくていおんの霊力によって、異形の体表に着弾した瞬間に無数の極小きょくしょうの氷の粒へと変化した。

​バリ、バリバリッ!


​無数の氷の粒は、さらに鋭利なつららへと結晶化し、体表を抉っえぐった傷口から異形の奥深くへとめり込み、貫通していく。異形の巨体は内部を氷結させられ、動きを完全に封じられた。


​「今ですわ、青龍せいりゅう殿!」


​「心得た!」



青龍せいりゅうが繰り出す蒼い神威かむい氷龍槍ひょうりゅうそうと、朱雀すざくが放つ朱い神威かむい炎斬撃えんざんげきが、凍りついた異形めがけて放たれた。

​蒼い霊力は、雄々しいおおしい氷の龍の姿をかたどり、凍結した異形の体の中央めがけて咆哮を上げながら突き進む。その氷龍槍ひょうりゅうそう先陣せんじんを斬るかのように、朱雀すざく炎斬撃えんざんげき螺旋状らせんじょうの炎の刃となって射出しゃしゅつされた。


朱雀すざく炎斬撃えんざんげきは、凍結でもろくなった異形の体表を、回転しながらさらに奥深く、内部の霊核れいかくまで切り開ききりひらきた。蒼い氷龍槍ひょうりゅうそうは、その切り開かれた異形の中枢を完全に貫通した。

​氷と炎の連撃は、凄まじい熱と冷の破壊力を生み出した。


​異形の体は、外側から水と風によって拘束こうそく氷結ひょうけつされ、内側から炎と氷によって貫通かんつう焼灼しょうしゃくされるという、二重の責め苦せめくを受ける。


​巨大な蛾の異形は、苦痛の金切り声を上げる暇もなく、黒い瘴気しょうきと、溶けた水蒸気を大量に吹き出しながら、その表面を氷龍槍ひょうりゅうそう極低温きょくていおんの霊力によって瞬時に冷やされ、凍結とうけつさせられた。しかし、炎斬撃えんざんげきがもたらした内部の超高熱ちょうこうねつが逃げ場を失い、硬化た体内で急激に膨張する。

​パァァァン!!


​表面が冷やされ硬くなった異形の巨体は、内側から発生した爆発的な熱の圧力に耐えきれず、内部から粉砕され、凄まじい轟音と共に砕け散った。その残骸は、瞬く間に清浄な水蒸気と光の粒子へと変わり、夜空に消えていった。


​​朱雀すざくは、その場で刀を支えに膝をついた。神威かむいはほぼ空だ。

​「やりましたわ……青龍せいりゅう殿」


青龍せいりゅうは、朱雀すざくの傍に駆け寄り、その肩を支える。

​「貴様の炎のおかげだ。よく持ちこたえた」

​一方、製塩所せいえんじょ跡地では、巨大な異形の怪物が、桔梗ききょうに向けて突進していた。

桔梗ききょうは、手元に顕現けんげんさせた天叢雲剣あまのむらくものつるぎを構えたまま、微動だにしない。剣の刀身は、夜の闇の中で青白く輝き、神代かみよことわりを宿している。


​(この異形は、ことわりを無視して複数の霊核れいかくを繋ぎ合わせたいびつな存在。普通の浄化では、分離する前に、瘴気しょうきが核を再結合させる。故に、必要なのは存在の因果いんがそのものを断ち斬ること)


​巨大な怪物が、桔梗ききょうにその巨体を叩きつけようと、腕を振り下ろした、その瞬間。

桔梗ききょうの体が、残像のように消えた。

​そして、巨大な怪物の足元から頭部にかけて、天叢雲剣あまのむらくものつるぎが閃く一筋の白い軌跡が描かれた。

​静かに剣を納める。その動作は、まるで剣術の舞を見ているかのように優雅で、全く神威かむいを消費していないかのように見えた。

​次の瞬間、巨大な異形の怪物全体に、微かな振動が走った。


​「グゥ、ア……ア……」

​怪物は、苦悶の声を上げながら、その巨大な肉塊を維持できなくなり、急速に崩壊を始めた。霊核れいかくを繋いでいた瘴気しょうきが、天叢雲剣あまのむらくものつるぎの力によって「結合しているという因果いんが」そのものを断ち切られたのだ。瘴気しょうきは動力源を失い、複数の霊核れいかくは反発し合いながら、元の悪意の欠片となって散っていく。


​その崩壊の様は、先ほどまでの悍ましさおぞましさとは違い、どこか寂しく、哀れなものだった。異形を構成していた「人間の魂の残滓ざんし」が、浄化されていくのが、桔梗ききょうの九尾の眼には見えた。


桔梗ききょうは、周囲を見渡し、青龍せいりゅう神威かむいが村の奥で輝いているのを確認し、安堵のため息をついた。


​「朱雀すざくが無事で何よりだ。しかし……」

桔梗ききょうは、崩壊した異形の中心部に目を留めた。黒い瘴気しょうきの残骸と溶けた粘液が広がるその瓦礫がれきの中、異形の巨大な肉塊が、中央だけを空洞にして残されていたのだ。


​それは、まるで巨大な生物の「ゆりかご」のようであり、その内部には、微かな霊力の淀みよどみが揺れていた。

桔梗ききょうは警戒しながらゆりかごに近づく。そして、その目に映ったものに、桔梗ききょうの金色の瞳が大きく見開かれた。


瘴気しょうきの残骸に守られるように横たわっていたのは、一体の赤子だった。しかしその体躯たいくは、桜花おうかよりわずかに小さい程度の幼女の姿をしている。その成長速度は常軌じょうきいっしていたが、腹部から伸びている、瘴気しょうきの粘液でできたへそののようなものは、既にゆりかごから|無残に切断され、干からびていた。


​この「へその」こそが、この子が紛れもなく生命の雛形ひながたであり、つい先刻まで成長の途上にあったことを示していた。だが、その体からは温もりが失われ、霊力の光も完全に消えていた。


​赤子は、死んでいた。


​その髪は、黒と白が混ざり合った、まるで黒髪が瘴気しょうきによって薄められ、白くなったかのような異質な色をしていた。


​「な……ッ、何を……!」

桔梗ききょうは、自身の理解がおよばない事態に直面し、ただ戦慄する。


​「あの異形は、この小さな命を守るために、村人をらい、我々と戦っていたというのか……? 異形の目的が、破壊や汚染だけではなく、生命の育成だと……!?」

​赤子から発せられる霊力は、死してなお、瘴気しょうき纏いまといながらも、高天原の神威かむいと酷似した、根源的な力を放っていた。その矛盾むじゅんした存在そのものが、桔梗ききょうの知る世界のことわりを真っ向から否定していた。


​「この子は、一体、何者だ……誰が、何のために、これほどのことわりを歪めた生命を、この淀みよどみの中で育てたのか……!」

桔梗ききょうの脳裏に、以前、日織ひおりから聞いた、理解不能な言葉が閃光せんこうのように蘇った。


日織ひおり:「我々神々よりも高位こうい次元じげんが存在するのは承知している。この世界を、混沌の時代から創造してきた我々でさえ、作られた命であることもな」


観測者かんそくしゃ:「あまり多くを語る訳にはいかないのです。日ノ本の最高神、天照大御神御身あまてらすおおみかみおんみであってもです」

​「ただ一つ……知っていただきたいのは、世界は一つではない、とだけ」


​「世界は一つではない……? まさか、あの淀みよどみは、我々の世界の法則の外側と繋がっていた……!?」

桔梗ききょうは、その黒い粘液を九尾の霊力で細心の注意を払って回収し、着物のふところに収めた。その粘液に残留ざんりゅうする異質な波動は、彼女の知る神々の知恵では、対処のしようがない事態が進行していることを、冷たく告げていた。


​この粘液こそが、白虎びゃっこ蝕みむしばみ、世界のことわりを変えようとする、未知の敵を追うための、唯一の鍵だった。

桔梗ききょうは、死んだ赤子の顔に、自らの袖をそっとかぶせた。


​夜風が、戦闘の終わりと、新たな戦いの始まりを告げるように、静かに吹いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る