第2章

第19話

日織ひおり桜花おうかの記憶消去という大業を成し遂げてから、早くも一年近い月日が流れた。高天原は、西の龍脈りゅうみゃくの完全な浄化、そして八百万の神々が桜花おうかの育成に総力を挙げるという新たな誓いの元、以前にも増して活気と清浄せいじょうな気に満ちている。


日織ひおりの部屋から、障子越しに漏れ出る、朝日に煌めくような銀色の影が揺れる。和室の温かい日差しの中、白虎びゃっこは膝の上に桜花おうかを乗せ、柔らかな笑顔で見つめていた。桜花おうかは一年とはいえ、まだ小さい幼子だ。その小さな体は、生命の輝きに満ち溢れ、健やかな寝息を立てている。顔立ちは幼いながらも愛らしい少女のそれだが、身体の成長は常人の比ではないため、既に一歳にしては目覚ましい発育を遂げていた。


白虎びゃっこは、桜花おうかの小さな頭をそっと撫でた。白い狩衣の袖から覗くその手つきは、どこかたどたどしい。


​「桜花おうかちゃん。あのね……ちょっと、お話したいことがあるの」


桜花おうかがうとうとしながら目を開け、きらきらと瞳を輝かせる。


​「うーん……しーろ、お話?」

​「うん。しろはね、あの時、桔梗ききょうちゃんを助けに行った時、瘴気しょうきのすごい場所に行ったでしょ?」


白虎びゃっこは、以前の威厳ある話し方とはかけ離れた、どこか幼い口調で続けた。


​「あの時はね、全然なんともなかったんだ。桔梗ききょうちゃんも、ゆきちゃんも、大蛇オロチ君も。そして桜花おうかちゃんも無事で、本当に嬉しかったから。でもね、日織ひおり様が言うにはね、しろはもう神様じゃないから。あの時の瘴気しょうきの影響をね、すごく受けちゃってたみたい。それがね、最近になってね、体に現れ始めたの」


白虎びゃっこは困ったように首を傾げる。

​「突然ね、自分がどこにいるか、わからなくなっちゃうの。さっきまで神殿の入り口にいたのに、気がついたらね、森の奥の泉のそばに立ってるの。それからね、力がぜんぜん出なくなっちゃって。ふわーって、普通の女の子になっちゃったんだよー」

「しーろ、変だよー」

桜花おうかは、白虎びゃっこの言葉の意味は理解できないながらも、その様子を見て笑った。


​「変だよねー。日織ひおり様にはね、無理しすぎだって、すごく怒られたよ。それでね、白虎びゃっこはね、しばらくはね、桜花おうかちゃんのそばで、一緒に療養することになったの。桜花おうかちゃんがね、近くにいるとね、気持ちが落ち着くんだって」


白虎びゃっこは、桜花おうかを抱きしめる。その温もりが、白虎びゃっこ自身の混乱を鎮めるかのように。

​その時、障子が静かに開かれ、日織ひおりが入ってきた。日織ひおりは、白虎びゃっこの言葉を全て聞いていたのだろう。


​「ふふ、白虎びゃっこ、朝餉の前に、あまり桜花おうかを困らせるような話をするでないぞ」

日織ひおりは、微笑みながら二人の傍らに座った。


​「うむ。桜花おうか、今日の朝餉あさげは、月読命つくよみ殿が作ってくださった甘露煮だぞ」

日織ひおりが優しく語りかけると、桜花おうかは「あんま!」と声を上げ、小さな手をパタパタと動かした。


​間もなく、桔梗ききょうが、両手に湯気を立てる朝餉の膳を持って入ってきた。白虎とは違い、瘴気の後遺症もない。九尾の神としての威厳と、桜花おうかを慈しむ母性溢れる表情を湛えている。


​「待たせたな、日織ひおり白虎びゃっこ桜花おうか。さあ、温かいうちにいただこうか」

桔梗ききょうは、手際よく膳を並べ、桜花おうかの前に置かれた小さな椀に甘露煮をよそった。

桜花おうかは、甘露煮を一口食べると、顔いっぱいに笑顔を広げた。


​「ききょ、美味しい!」

​「ふふ、それは良かった。たくさん食べるがいい」


桔梗ききょうは、桜花おうかの頭を優しく撫でた。この小さな命が、無邪気に名前を呼んでくれることが、何よりも嬉しかった。

桜花おうかの成長は、目覚ましかった。言葉を覚えるのはもちろん、身体的な成長も常人の比ではない。妖力を蓄えるたびに、身長が伸び、手足がしなやかに、顔立ちはさらに幼い少女らしく変化していった。

​そして、その成長と共に、八つの権能けんのうが、まるで遊びの延長のように発現し始めた。


​ある日の昼下がり、高天原の庭で、桔梗ききょう白虎びゃっこ桜花おうかと遊んでいた。


​「桜花おうか、今度はかくれんぼをしようか」

桔梗ききょうが優しく提案した。

​「かくれんぼ! 桜花おうか、隠れます!」


桜花おうかは元気いっぱいに返事をした。その瞬間、桜花おうかの瞳が淡く輝き、彼女と白虎びゃっこの体が庭の景色を鏡のように反射し始めた。瞬く間に、二人の姿は庭の風景に溶け込み、どこにいるのか全く分からなくなった。


​「では、儂が数えている間、隠れていろ。白虎びゃっこも、桜花おうかと一緒に隠れるのだぞ」


桔梗ききょうがそう言うと、白虎びゃっこは「はーい!」と間延びした声で答え、桜花おうかの手を引いて庭の奥へと消えた。


桔梗ききょうが「もういいかい?」と声をかけると、桜花おうかの元気な声が返ってきた。

​「もういいよー!」


桔梗ききょうはゆっくりと歩みを進める。庭の木々の陰、岩陰、池のほとりを探す。しかし、桜花おうかの姿はどこにもない。白虎びゃっこの姿も見当たらない。


​「桜花おうか白虎びゃっこ、どこに隠れておるのか?」

桔梗ききょうが首を傾げた、その時だった。

桔梗ききょうの鋭い視線が、庭の一角に留まった。そこには、わずかな空間の淀みがあった。まるで、水面に石を投げ入れたかのように、空間の境界が微かに歪んでいる。


​「見つけたぞ、桜花おうか

桔梗ききょうがその淀みに手を伸ばすと、突然、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。


​「あれ……? 桔梗ききょうちゃん、ここ、どこー?」

白虎びゃっこが間延びした声で、不安そうに周囲を見回した。庭の景色は消え去り、二人の目の前には、見慣れない山奥の、苔むした岩が並ぶ谷間が広がっていた。


​「な、なな、なんと!? 桜花おうか、何をした!?」

​「えへへー、桜花おうか、もっと隠れるの、上手になったよー!」


桜花おうかは、にこにこと無邪気に笑っている。

​「これは……八咫鏡の力で、姿を隠すだけでなく、周囲の空間そのものを歪めて転移させてしまったのか!」


桔梗ききょうは額の汗を拭った。全て感覚のままに、無意識にしてしまったのだ。


​「も、戻さぬと! 白虎びゃっこ、このままでは後遺症がさらに……」

桔梗ききょうが慌てて桜花おうかに駆け寄った。白虎びゃっこが、その不安定な状態から、さらに悪化してしまうことを案じていた。


​「ご、ごめんなさい! 白虎びゃっこ、平気だよ!」

桜花おうかが焦って白虎びゃっこの手を握ると、白虎びゃっこの体から淡い光が放たれ、一瞬にして周囲の空間が元の高天原の庭へと戻った。


​「ふう……助かった。空間のことわりを歪めるだけでなく、元に戻す力まで……」

桔梗ききょうは、安堵のため息をついた。


​「桜花おうか、その力はとても危険なものだ。どういうふうに使えば良いか、皆で考えていこう」

桔梗ききょうが優しく諭すと、桜花おうかは「ごめんなさい……」と、しゅんと肩を落とした。


​その日以来、高天原の神々は、桜花おうか権能けんのうの暴走を鎮めるために、より一層警戒を強めることになった。しかし、桜花おうかは、その度に新しい権能けんのうを発現させては、神々を驚かせ、そして面白おかしく翻弄していく。

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