第18話

日織ひおり桜花おうかの記憶を消去し、魂が赤子へと回帰してから、およそ半年の月日が流れた。 高天原は、西の龍脈りゅうみゃくの浄化、そして四神柱の決意によって、以前にも増して清浄な気を湛え、八百万の神々の活気に満ちていた。そして、その中心には、皆の希望の光である桜花おうかの存在があった。


桜花おうかは、神々からの惜しみない寵愛を受け、すくすくと成長していた。 その成長は、単なる肉体的なものに留まらない。驚くべきことに、言葉を覚えるのが、体の成長を待つよりも遥かに早かった。 まだ、たどたどしい言葉ではあったが、桜花おうかは周囲の神々の言葉を瞬く間に吸収し、その幼い瞳には、好奇心と知性が宿り始めていた。


​高天原の一室には、いつも桜花おうかを中心に、数柱の神々が集まっていた。 特に、桔梗ききょうは、日織ひおりからの指示と、自らの覚悟の元、片時も桜花おうかから離れず、熱心に世話を焼いていた。 ミルクを与え、おむつを替え、あやし、寝かしつけ、そして優しく語りかける。それは、かつて秋人を失った九尾の神が、初めて抱く、純粋な母性だった。


​「さあ、桜花おうか。良い子だから、しっかり食べような」 桔梗ききょうは、手作りの離乳食を、桜花おうかの小さな口元へと運んだ。 桜花おうかは、きらきらとした瞳で桔梗ききょうを見つめ、にっこりと微笑んだ。そして、小さな口を開け、もぐもぐと離乳食を咀嚼する。


​その様子を、日織ひおり月読命つくよみは穏やかな表情で見守っていた。 白虎びゃっこは、部屋の入り口で警備に当たりながらも、時折、桜花おうかの様子に視線を送り、その成長を喜んでいる。


桜花おうかは、離乳食を食べ終えると、満足げに手をパタパタと動かした。 そして、小さな視線を、まっすぐに桔梗ききょうへと向けた。


「……き、きょ……」


桔梗ききょうは、その言葉に耳を傾ける。まさか、と、心の臓が跳ね上がった。

桜花おうかは、さらに、はっきりと、その言葉を口にした。


​「まんま!」


桔梗ききょうは、その瞬間に、全身に電撃が走ったかのような衝撃を受けた。

「ま、まんま……!? 儂を……」


桔梗ききょうの瞳が、みるみるうちに潤んでいく。胸の奥から、温かい、しかし激しい感情が込み上げてきた。

​その場にいた全員が、その言葉に感極まった。 日織ひおりは、顔を覆い、静かに涙を流した。月読命つくよみも、桜花おうかの成長に、優しく微笑んでいる。 警備に当たっていた白虎びゃっこも、思わず障子の陰から顔を覗かせ、その小さな背中を震わせた。


桜花おうか殿……初めて、言葉を……!」


桔梗ききょうは、込み上げてくる涙を拭うことなく、桜花おうかを優しく抱きしめた。


「……ああ、桜花おうか。よくぞ、呼んでくれた……儂を、まんまと……!」


​それは、言葉を失い、魂が赤子へと回帰した幼子が、初めて発した、希望の言葉だった。そして、桔梗ききょうにとっては、長きにわたる孤独な九尾の生において、何よりも温かい、家族の証であった。


​その時、部屋の外から、再び大きな気配が近づいてきた。


「ごめんくださいませ、日織ひおり様」

控えめだが、朗々とした声が響く。

​障子の向こうに立っていたのは、すっかり回復し、以前にも増して精悍な表情を取り戻した大蛇オロチと、その隣に寄り添うゆきだった。


​「おや、大蛇オロチ殿。ゆき殿。よくぞ参られた」 日織ひおりが、にこやかに二人を迎える。

大蛇オロチは、高天原の清涼せいりょうな気と、ゆきの献身的な看病により、瘴気しょうきを完全に払い去り、本来の力強さを取り戻していた。その人型の姿は、以前よりも一層、威厳に満ちている。


​「この度は、日織ひおり様、そして桔梗ききょう様、白虎びゃっこ様には、大変なご迷惑とご心配をおかけいたしました。そして、何より……」


大蛇オロチは、桜花おうかを抱きしめる桔梗ききょうに深く頭を垂れた。

桜花おうか殿。貴女の命懸けの献身に、心より感謝申し上げます。我(われ)も、神々から分岐した龍神の血筋を受け継いでいるはずが、何たる体たらくか……。西の守護神としての面目もございませぬ」


ゆきもまた、大蛇オロチの隣で深く頭を下げた。 「桜花おうか様のおかげで、大蛇オロチ様は命を繋ぐことができました。言葉では言い尽くせないほど、感謝しております」 ゆきの瞳は、安堵と、桜花おうかへの慈愛に満ちていた。


​「なに、気にするな、大蛇オロチ殿。そなたも、龍脈りゅうみゃくに囚われ、苦しんでいたのだ。それよりも、ゆき殿と、再び高天原で顔を合わせることができ、我も喜ばしい限りだ」


日織ひおりは、二人の無事を心から喜んだ。

大蛇オロチは、手に持っていた大きな風呂敷包みを日織ひおりへと差し出した。


「これは、我の好物であるゴマ団子を、全国各地から取り寄せたものでございます。感謝の印に、皆で召し上がっていただければ」

風呂敷の中からは、香ばしいゴマの香りが漂い、見るからに美味しそうなゴマ団子が、たんまりと詰め込まれていた。


​「おお、これは美味そうだな! 大蛇オロチ殿の好物とは、期待できるぞ!」

白虎びゃっこが、目を輝かせながら近寄ってくる。


​「さすがの白虎びゃっこ殿も、甘いものには目がないな」 月読命つくよみも、微笑みながらゴマ団子を受け取った。

大蛇オロチゆきは、しばらくの間、高天原で神々との再会を喜び合った。 そして、大蛇オロチは、改めて桜花おうかという幼子の育成に、全力で協力することを誓った。自らの不甲斐なさを乗り越え、日ノ本を守る守護神としての新たな覚悟を胸に刻んだのだ。



大蛇オロチゆきが訪れて以来、高天原は以前にも増して賑やかになった。 桜花おうかが、日ノ本全ての八百万の神々で育て上げられるという玄武の総括が、各地の神々の間で共有されたのだ。


​「桜花おうか様のご成長を、この目で拝見せねばなるまい!」

「まさか、赤子に戻られたとは! ぜひ、この目でその可愛らしいお姿を拝ませていただきたい!」

「神々の未来を担う巫女の育成に、我々も力を貸さねば!」


​日ノ本全国各地から、桜花おうかを訪ねようと、様々な八百万の神々が高天原へと集い始めた。 古くから続く高天原の秩序を重んじる神々だけでなく、各地の郷土神や、自然神、さらには人間に近い姿を持つ半神たちまで、その種類は多岐にわたる。

日織ひおりの部屋の前には、桜花おうかを一目見ようとする神々が行列を作り、高天原は、まるで祭りのように賑やかになってしまった。


桔梗ききょうは、当初、その賑やかさに戸惑いを隠せなかったが、桜花おうかが様々な神々と触れ合うことで、その言葉の習得や、情緒の成長が著しいことに気づき、次第に受け入れるようになった。


白虎びゃっこは、警備の任務に加えて、押し寄せる神々の整理に追われる日々を送っていた。


「こら、そこの山の神! 勝手に桜花おうか殿の髪を触るな! 日織ひおり様が、まだ神威かむいを学ぶまでは、刺激を与えるなと申しておるだろう!」

賑やかな高天原は、白虎びゃっこにとって、これまでの静かな警備とは全く異なる、新たな試練の場となっていた。


月読命つくよみは、訪れる神々に対し、桜花おうかの現状と、八つの権能けんのうを再び覚醒させるための注意点を丁寧に説明していた。 「桜花おうか殿の魂は、世界の真理を観測した結果、一度赤子に戻られました。ゆえに、神威かむいを扱うための知識も経験もございません。焦らず、ゆっくりと、愛情を持って接していただきたいのです」


​八百万の神々もまた、桜花おうかの存在を通して、多くを学んでいた。 日織ひおりが禁忌を破り、桜花おうかの命を繋いだこと。そして、四神柱が自らの不甲斐なさを認め、人間との新たな共存の道を模索し始めたこと。これらは全て、神々の世界に、新たな変革の波を巻き起こしていた。

​高天原は、桜花おうかという小さな命を中心に、新しい時代の息吹に満ちている。 この幼い神子の成長と共に、日ノ本の未来は、大きく、そして明るく開かれていくことだろう。



​しかし、世界の平穏は、あくまで一時的なものであった。

​西の龍脈りゅうみゃく瘴気しょうきは、確かに消え去った。しかし、それは、桜花おうかの浄化のことわりの限界を超えた因果律への介入によって、瘴気しょうきの大元である古戦場跡地、そこから滲み出ていた瘴気しょうきの入口が、完全に焼き切るかのように空間に蓋をされていたからに他ならない。


​目に見えぬその空間の蓋は、瘴気しょうきが世界へと溢れ出すのを防いでいたが、その奥深く、ことわりから外れた異空間の中で、何かが蠢いている気配があった。 瘴気しょうきそのものは鎮静しているものの、その根源は、未だ完全に滅び去ったわけではないのだ。 古戦場跡地の地下深く、世界のことわりから切り離された空間の歪みの中で、新たな脅威が、静かに、しかし確実に、その時を待っていた。

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