第17話

日織ひおり桜花おうかの記憶消去という、極限の神威かむいの行使を終えてから、数日が経過した。高天原の主神が自室に籠った数日間、世界は張り詰めた緊張の中にあったが、その結果として訪れたのは、奇跡のような静寂だった。

​西の龍脈りゅうみゃくの完全な浄化以降、日ノ本の各地で感じられていた瘴気しょうきの気配は、まるで嘘のように消失した。地を這うような重く淀んだ空気は消え去り、空は澄み渡り、大地は清涼せいりょうな生気に満ちている。


​高天原の一室。日織ひおりが籠っていた部屋の障子が、ついに開かれた。 疲労の色は隠せないものの、日織ひおりの瞳は、これまでの苦悩を乗り越えた清々しい光を宿している。

日織ひおりの腕の中には、布に包まれた、赤子同然の桜花おうかが抱かれていた。 その小さな体は、生命の輝きに満ち溢れ、健やかな寝息を立てている。顔立ちは、以前の幼子と変わらないが、その魂は、世界の真ことわりを知る観測者としての記憶を完全に失い、無垢な誕生の瞬間へと回帰していた。


​部屋の外で待機していた桔梗ききょう白虎びゃっこ月読命つくよみ、そしてゆきは、その光景を見て、安堵と、複雑な感情がないまぜになった息を漏らした。


​「……日織ひおりよ……」

月読命つくよみが、感極まった様子で言葉を絞り出す。

日織ひおりは、穏やかな表情で頷いた。


「見事に、成功した。観測者の言葉通り、桜花おうかの魂は、命の灯火を繋ぎ、赤子へと回帰した。八つの権能けんのうの根源は、その魂の奥底に、静かに眠っておる」


桔梗ききょうは、一歩前に進み出た。

「儂に……抱かせてくれ、日織ひおり

日織ひおりは、桜花おうかを優しく桔梗ききょうの腕の中に渡す。 桔梗ききょうは、恐る恐るその小さな命を抱きしめた。温かく、柔らかい。そして、何の憂いもない、安らかな匂いがする。


​「……これが……桜花おうかか……」

桔梗ききょうの瞳が、僅かに潤んだ。かつて、本人の意思も聞けずに人ならざるものへと変えてしまった後悔と、秋人を重ねた意地が、今、純粋な愛着と使命感へと変わる瞬間だった。


​「観測者の申した通り、この子の命を繋ぐには、我々が親代わりとなり、その力を正しく導かねばならぬ」

日織ひおりは、最高神として、改めてその決意を表明した。


​時を同じくして、日ノ本の三方さんほうから、神威かむいが渦巻く巨大な霊場へと、それぞれ東の青龍、南の朱雀、北の玄武が集結していた。最高神日織ひおりからの命を受け、緊急の三神柱会議が召集されたのだ。


​「……玄武、朱雀。久方ぶりだな。まさか、このような状況になろうとはな」

威厳ある青龍が、古風な口調で口火を切った。その視線は、既に集まっている他の二柱の神に向けられている。


​「まさか、西の大蛇オロチ瘴気しょうきに侵され、そして、わたくし達が動けぬ間に全てが終わるとはね。不甲斐ない話だわ」

朱雀が、女性的な口調で、静かに悔しさを滲ませる。


​最後に現れた玄武は、重々しい足取りで中心へと進み出た。 「……さて、本題に入ろうか。八咫烏よ。日織ひおり様からの報告を、全て述べよ」 玄武の言葉は、会議の開始を告げる厳粛な響きを持っていた。


​一羽の八咫烏が、三神柱の前に舞い降り、恭しく頭を垂れた。 「はっ! 日織ひおり様よりご報告に参りました。西の龍脈りゅうみゃくの浄化、桜花おうかという幼子の献身、そして彼女が辿った運命の全てを、余すところなくお伝えいたします」


​八咫烏は、西の洞窟での大蛇オロチとの激戦、桔梗ききょうの天照の神威かむい行使、そして、桜花おうかが天照の力を解放し、自らの神威かむい龍脈りゅうみゃくを浄化し、その代償として観測者が現れ、桜花おうかの記憶が消去され、赤子へと回帰したこと。さらに、日織ひおりが禁忌を破り、桜花おうかの命を繋ぐためにその記憶を消去し、八百万の神々で育て上げるという決断を下したことまで、一言一句漏らさず、詳細に報告した。

​八咫烏の報告が終わり、再び深い静寂が訪れる。三神柱は、それぞれの表情で、その重い事実を受け止めていた。


​「……最高神日織ひおり様が、神の禁忌を破り、人の魂に手を出したか。そして、その原因が、我ら神々の不作為であると……」

玄武が、重々しい声で呟いた。その言葉には、深い責任と自省の色がにじみ出ている。


​「まさか、一人の幼子が、この世界の命運を背負い、そして、赤子にまで戻るとはな。日織ひおり様も、苦渋の決断であったろう」

青龍が、眉をひそめて応じる。今回の騒動は、神々の存在意義そのものを問うものだった。


​「ただ見ているしかできなかった我らの不甲斐なさ。朱雀の名が廃るというものよ。神であるからと、おごりがあったと、認めざるを得ないわ」

朱雀は、自らの無力さに、唇を噛み締める。今回の経験は、朱雀の心に、深い悔恨と、そして新たな決意を燃え上がらせていた。


三柱みはしらの神々の間には、重い沈黙が流れる。しかし、その沈黙は、単なる諦めや無力感ではなかった。それぞれが、神としての在り方を深く問い直し、未来への道を探っていたのだ。


​やがて、玄武が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っている。

「……結果として、日ノ本は救われた。だが、それは我らの功にあらず。一人の幼子が、その代償として全てを失った。この責任は、我ら神々が負うべきものだ」


​玄武は、周囲を見回す。青龍も朱雀も、真剣な眼差しで玄武の言葉に耳を傾けている。

​「我らは、人間たちの危機に、遠くから見ているだけしかできなかった。それでは、何のための神か。龍脈りゅうみゃくの守護は、世界を守るための手段であって、目的ではない」


玄武は、今回の事件を、神々への強烈な戒めと受け取った。

​「故に、今後は、自負の念を込め、積極的に人間たちと関わろう。彼らの危機に、遅れることなく立ち上がろうではないか。日織ひおり様が、桜花おうかという幼子の育成を我らに託された意味も、そこにある」

​玄武の言葉は、会議室に力強く響き渡った。青龍と朱雀は、その言葉に、深く頷いた。

「うむ。玄武の申す通り。もはや、我らは昔ながらの古典的な風習に囚われておる場合ではない」 青龍が、賛同する。


​「ええ、その通りよ。この不甲斐ない過去は、わたくし達の心に深く刻み込まねばならないわ」

朱雀もまた、玄武の意見を支持した。


​「ならば、日織ひおり様に伝えよ、八咫烏よ」

玄武は、厳かに告げた。

桜花おうかという幼子の育成に、日ノ本全ての八百万(やおよろず)の神々が、総力を挙げて取り組むと。そして、二度と、この日ノ本がこのような危機に瀕さぬよう、我らは変わる。この幼子を、立派に育て上げると。それが、日織ひおり様への、我ら四神柱からの誓いであると」


​八咫烏は、その言葉を胸に刻み、再び高天原へと飛び立っていった。 神々の決意は、新たな時代の幕開けを象徴していた。

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