第8話

高天原たかまがはらへと続く道は、各地にある鳥居を門として、幾重いくえにも張り巡らされた神聖な結界によって護られていた。それは、いかなるけがれも、邪悪な意思も寄せ付けぬ、絶対的な守りの障壁である。しかし、白虎びゃっこは、その厳重な結界を、まるで存在しないかのようにすり抜け、音もなく日嗣ひつぎの宮へと足を踏み入れた。


日嗣ひつぎの宮――天照大御神あまてらすおおみかみまつりごとを司る、高天原たかまがはら中枢ちゅうすう白虎びゃっこが降り立った広間は、見るも無残に破壊されていた。砕け散った巨大な柱は、かつての威容いようを失い、ひび割れた床には、激しい衝撃の痕が生々しく刻まれている。空中に漂う霊気の渦が、つい先刻までここで激しい争いがあったことを物語っていた。

白虎びゃっこは、その破壊の痕跡こんせきに、一瞬だけ鋭い視線を向けた。


(……この破壊の跡。九尾の力に加え、かの瘴気しょうきの暴走によるものか。これほどの惨状さんじょうを、わずかな時間で引き起こしたとすれば、あの瘴気しょうきは、予想以上に厄介やっかいな代物……)


高天原たかまがはらの神々は、先の騒動で混乱しているのか、あるいは事態の終息を待っているのか、誰一人として白虎びゃっこの前に姿を現さない。


(さて、当事者たちは、いずこに身を寄せているや)


やがて、一つの和室のふすまから、微かな人の気配と、桔梗ききょうの妖気、そして、あの不安定で異質な妖気が漏れているのを察知した。その気配は、破壊された広間から離れた、比較的無事な一角からだった。

白虎びゃっこは警戒を解かぬまま、襖を静かに開け、室内へと足を踏み入れた。


「……此処は、見慣れぬ光景であるな、日織ひおり様よ」

「……白虎びゃっこ……!? まさか、お主がこの高天原たかまがはらに……」


日織ひおりは、滅多に姿を見せぬ白虎びゃっこの出現に、動揺を隠せない。かつての四神柱ししんちゅうの一角。しかし、八岐大蛇やまたのおろちに敗れて以来、表舞台からは遠ざかっていた存在。そして桔梗ききょうもまた、その冷徹な瞳を細め、白虎びゃっこの幼い姿をじっと見つめていた。その表情には、驚きと共に、わずかに探るような色が浮かんでいる。


「……ほう。西の白虎びゃっこか。随分と、姿を変えたものよな。そして、何ゆえ、今更このような場所に姿を現したのだ?」


桔梗ききょうの言葉には、皮肉と、わずかな警戒が滲んでいた。高天原たかまがはらに姿を見せぬことを貫いてきた白虎びゃっこが、この時この場所に現れた意図を探るように。

白虎びゃっこは、桔梗ききょうの問いには答えず、ただ鋭い眼光がんこうで、こたつの傍らに眠る少女(桜花おうか)へと視線を向けた。その瞳は、怒っているわけではない。ただ、その存在の「ことわり」を測るかのように、深く、静かに見つめていた。まるで、言葉を介さずとも、その少女の奥底にある真実を見抜こうとしているかのようだった。


「……かの乙女おとめは、いかなる者であるか?」


白虎びゃっこは、日織ひおり桔梗ききょうに、簡潔に問いかけた。その声は、無機質でありながらも、問いかけられた神々の心を揺さぶる力を持っていた。

日織ひおりは、その問いに、小さく息を吐いた。隠しても意味がないと判断したのだろう。神としての誠実さが、彼女に真実を語らせた。


「……この子は、瘴気しょうきに侵され、魂が消滅寸前であった人子なのだ。桔梗ききょうが、自らの権能けんのうをもって、その命を救った……だが、その代償として、人ならざるものへと変貌したのだ」


日織ひおりは、包み隠さず、この場の状況を説明した。その言葉の端々には、少女への深い憐憫れんびんと、桔梗ききょうの行動を許容した自身の責任が滲んでいた。

白虎びゃっこは、日織ひおりの言葉を静かに聞き終えると、再び少女へと視線を戻した。その白銀の髪、獣の耳、そして体から漂う、桔梗ききょうと酷似した妖気。そして、その奥底に潜む、不安定ながらも強大な力の片鱗へんりん。全てが、日織ひおりの言葉を裏付けていた。


「……さもあらん。九尾め、己が権能けんのうの全てを、この稚児ちごに授けしものか」


白虎びゃっこの声には、驚きと、そして、どこか呆れにも似た響きがあった。桔梗ききょうが、自らの権能けんのうを、人間の少女へと与えるという、神々のことわりから逸脱した行為に及んだことへの、静かな驚き。


「神々のことわりを、此処(ここ)まで弄ぶとは。貴様の気儘きままさは、相も変わらぬものであるな、桔梗ききょう


白虎びゃっこの言葉は、桔梗ききょうを非難するものではなかった。ただ、その行動が世界のことわりに与える影響の大きさを、厳然と指摘しているだけであった。それは、ことわりを重んじる白虎びゃっこなりの、桔梗ききょうへの問いかけだった。

桔梗ききょうは、白虎びゃっこの言葉に動じることなく、冷徹な表情で応じた。彼女の金色の瞳は、揺らぐことなく白虎びゃっこを見つめていた。


「儂が何をしたとて、そなたには関係ないであろう。それに、儂の行動を気儘きままと申すか。それは、そなたが、西の主としての責務を放棄し、世界の惨状さんじょうから目を背けてきたことへの、言い訳にも聞こえるが?」


桔梗ききょうの問いは、白虎びゃっこの最も触れられたくない、過去の傷を抉るものだった。

白虎びゃっこ眼光がんこうが、一瞬だけ鋭さを増す。しかし、その感情を表情には出さなかった。


「……このよどみが、世界の根幹を揺るがすものであることは、我も知っておる。故に、密かに活動し、その対処に当たっておったのだ」


白虎びゃっこは、そう前置きすると、日織ひおりへと視線を向けた。その瞳には、ある種の期待と、そして諦めが混じり合っていた。


日織ひおり様よ。この瘴気しょうきの根本は、いまだ不明であると聞き及ぶ。しかるに、この異常事態に対し、東西南北の四神柱ししんちゅうが、いまだ動きを見せざるとは……。彼らは、真に世界の守護者たる名を、名乗るに値する存在であるか?」


白虎びゃっこの問いは、直接的で、日織ひおりの心の奥底にある苦悩を、容赦なくえぐり出した。それは、白虎びゃっこ自身が、八岐大蛇やまたのおろちとの戦いに敗れて以来、ずっと抱き続けてきた問いでもあった。


日織ひおりは、その問いに、目を閉じた。彼女の心中には、白虎びゃっこと同じく、現在の四神柱ししんちゅうたちの無為むいへの不満と、神としての責任を果たすことの難しさが、重くのしかかっていた。神々が世界を統べるという「ことわり」が、今、揺らいでいる。そして、その原因たる「外のことわり」を前に、高天原たかまがはら全体が機能不全に陥っている。


「……申し訳ない……白虎びゃっこ


日織ひおりは、ゆっくりと目を開き、力なく答えた。


「そなたの言葉は、ごもっともである。しかし、我とて、この事態を静観しておるわけではない。ただ……高天原たかまがはらの神々を動かすには、あまりにも多くの「ことわり」と「制約」が伴うのだ。それに、現在の四神柱ししんちゅうたちは、それぞれが自身の領域を護ることに特化し、互いに協力し合うという意識が、希薄きはくであると言わざるを得ない」


日織ひおりは、深くため息をついた。その表情には、最高神としての重圧が色濃く現れていた。


「彼らは、それぞれの「ことわり」に従い、自身の責務を果たそうとしている。だが、世界の均衡きんこうが崩れ始めた今、その個々の「ことわり」が、かえって協調を阻んでいるのが現状なのだ」


日織ひおりは、そう言って、苦渋に満ちた表情で白虎びゃっこを見つめた。

白虎びゃっこは、日織ひおりの言葉を静かに聞いていた。その瞳の奥には、日織ひおりの苦悩への理解と、そして、変わらぬ高天原たかまがはらの体制への失望が混じり合っていた。


「……やはり、そうであるか。かつて、我とて同じ苦悩を抱え、そして、打ち砕かれた。あの時と何ら変わっておらぬ。この世界の行く末を、彼らに託すことなどできぬ」


白虎びゃっこの口元に、自嘲じちょうにも似た冷笑が浮かんだ。


「我は、自身の「ことわり」を貫くため、この高天原たかまがはらに参じた。そして、この「外のことわり」がもたらすであろう混沌を、この目で確かめる。……だが、同時に、この状況に抗う者がいるとすれば、その力を見極めねばなるまい」


白虎びゃっこは、そう言って、再び桔梗ききょうへと視線を向けた。桔梗ききょうの異質な力と、ことわりから逸脱した行動への、複雑な感情が渦巻いていた。



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