第7話

意識の底で、重くよどんだ水の中に沈んでいるかのようだった。目を開けようとしても、まぶたは鉛のように重く、わずかな光さえ届かない。耳の奥では、遠くでざわめくような音が響き渡り、やがて、それが幾重いくえもの声となって、桜花おうかの耳元で囁きかける。


「……お前が、やったのだろう……」

「……化け物ばけものめ……」


それは、瘴気しょうきに侵される直前に、町の人々が父に向けた罵声ばせいと、父が母に向けた怒号。そして、両親が互いを責め合う、悲痛な声の断片だった。脳裏に、あの日の悪夢が鮮やかによみがえる。

湯気の向こうで笑っていたはずの両親の顔が、黒い霞にゆがみ、互いを指差してののしり合う。その手が、ゆっくりと、しかし確かな悪意を持って、桜花おうかへと伸びてくる。


「……来るな……」

「……近寄らないで……」


父と母の声が、同時に響く。しかし、その声は桜花おうかを拒絶するかのようだった。両親の姿は、黒い霧の中に溶けるように、遠ざかっていく。伸ばした手は、空を掴むばかり。


「お父さん! お母さん!」


叫ぼうとするが、声は出ない。桜花おうかの小さな体は、どこからか伸びてきた黒い瘴気しょうきの鎖に、がんじがらめに拘束こうそくされていく。身動きがれない。黒い鎖は、桜花おうかの肉体を締め付け、皮膚を食い破り、内側から体をむしばんでいく。熱い。苦しい。

そして、体が、徐々に変容していく。 指先が、鋭い爪へと変化する。歯は尖り、皮膚は鱗(うろこ)のように硬質化していく。全身の毛穴から、いまわしい黒い毛が、ぞわりと生え始める。鏡などなくとも分かる。獣へと、変わり果てていく自分の姿。


「あああぁぁぁああああっ!!」


魂の奥底から絞り出される、純粋な悲鳴。それは、人間としての自分が、完全に失われることへの、絶望的な叫びだった。 やがて、桜花おうかの悲鳴は、獣の咆哮(ほうこう)へと変わっていく。 もう、自分は人間ではない。 醜い、いまわしい、化け物ばけもの……。


「……はぁ……はぁ……」


その時、急速な息切れと共に、桜花おうかの意識が、深い闇の底から浮上した。 目覚め。 激しい悪夢から覚めたものの、体は依然として鉛のように重い。視界はぼやけて、まだはっきりと状況を捉えられない。脳裏に残る悪夢の残滓ざんしが、恐怖と混乱を呼び起こす。

ゆっくりと、まぶたを開く。 まず目に入ったのは、見慣れない天井だった。木のぬくもりが感じられる、質素ながらも清潔な、和風の天井。そこには、実家の団子屋のような、庶民的な雰囲気はない。かといって、神社の社務所のような清らかな空気でもない。


体は硬すぎず柔らかすぎない布団の上に横たわっていた。全身を襲う倦怠感けんたいかんと、どこか痺れるような感覚。 ぼんやりとした頭で、自分が置かれた状況を、ゆっくりと理解しようとつとめる。


(どこ……ここ……?)


かすれた意識の中で、必死に記憶を辿たどる。 町の崩壊、瘴気しょうき、両親の変貌、そして、あの金色の瞳の妖狐。


(私……死んだはず、じゃ……?)


起き上がろうと、わずかに上半身を起こす。だが、腕から、ずきりと鈍い痛みが走った。 視線を腕へと向ける。 そこに広がっていた光景に、桜花おうかの意識は、初めて現実と悪夢の境界を曖昧にする。

腕には、真っ白い布が、ぐるぐると巻かれていた。包帯だ。その包帯の隙間から、わずかに覗く皮膚は、以前よりも白く、滑らかに見える。しかし、その手は――。


その指先には、以前の丸みのある爪ではなく、かすかに鋭く伸びた、まるで猫のような爪が、生えていた。

桜花おうかは、ゆっくりと、その手を開いたり閉じたりしてみる。違和感はあるが、痛みはない。


(ゆび……?)


悪夢の残滓が、再び脳裏をよぎる。体が、獣に変わっていく夢。 まさか……。

全身を触ってみる。 頭、顔、首、そして腕……。 どこもかしこも包帯が巻かれている。そして、体のどこからか、微かにふわふわとした感触がある。


(これは……なに……?)


髪に触れようと、そっと手を伸ばす。 指先が、頭のてっぺんに触れた瞬間、明らかに今までとは違う、硬く、それでいて柔らかい、奇妙な感触が伝わってきた。 そこには、自分のものではなかったはずの、ぴくりと動く獣の耳が、生えていたのだ。 そして、その感触を辿たどって後頭部に手を回すと、背後には、まるで猫の尻尾のようなものが、ひそかに揺れているのを感じた。


悪夢が、現実になった。 濡羽色(ぬればいろ)だったはずの髪は、その色を失い、まるで雪のように真っ白な、白銀の髪へと変貌している。 その髪は、以前よりも長く、まるで絹糸のように、しなやかに背中に流れていた。

本来なら、この状況に、桜花おうかは悲鳴を上げ、パニックに陥ってもおかしくなかった。 しかし、彼女は、ただぼんやりと、その状況を受け止めていた。 まるで、他人事のように。


(あ……。ゆめ、じゃなかった……)


感情が、うまくいてこない。恐怖も、悲しみも、混乱も、全てが遠い感覚だった。 ただ、目の前の現実を、静かに俯瞰ふかんしているかのようだった。


「……目が覚めたようだな」


その時、部屋の襖(ふすま)が、音もなく開かれた。 そこに立っていたのは、私を助けてくれた、狐?の女の人だった。 黒と金を基調きちょうとした豪華な着物に、艶やかな九本の尾。妖艶な美しさ。


桔梗ききょうは、少女(桜花おうか)の様子をじっと見つめると、ゆっくりと部屋へと入ってきた。 その瞳は、冷徹な中にも、どこか安堵の色を帯びているように見えた。

「儂の名は桔梗ききょう。意識は、はっきりしておるか?」

桔梗ききょうは、少女の傍らに座り込むと、その額にそっと手を置いた。ひやりとした、それでいて温かい感触。

桜花おうかは、桔梗ききょうと名乗った女性の瞳を、じっと見つめ返した。言葉は出てこない。


(この人が……あの時の……)


記憶の断片が、ゆっくりと繋がり始める。自分を救い、父を手にかけた妖狐。


「まあ、そうだろうな。急激な変容を遂げたばかりだ。体が馴染むまでには、まだ時間がかかる」


桔梗ききょうは、そう呟くと、淡々と状況を説明し始めた。


「お前は、瘴気しょうきによって魂が消滅寸前であった。あのままでは、確実に命を落としていた。儂は、お前を救うため、己の力の一部を分け与えた。故に、お前は、人ならざるものへと変貌した」


桔梗ききょうの言葉は、簡潔で、一切の感情を挟まないものだった。 しかし、その言葉の裏に込められた、桔梗ききょうの決意と、この事態の重大さは、桜花おうかにも理解できた。


(私……化け物ばけものになったの……?)


悪夢が、本当に現実になってしまった。 だが、やはり悲鳴は出ない。ただ、受け止めるしかないという、不思議な感覚がそこにあった。


「ここは、神々が住まう高天原たかまがはらの一室。人の世のけがれとは無縁の場所。お前の体が完全に安定するまで、ここで過ごすことになる」


桔梗ききょうは、そう説明しながら、少女(桜花おうか)の頭を優しく撫でた。その手つきは、どこか不器用ながらも、温かさを感じさせた。


「体が馴染めば、元の意識もはっきりするだろう。その時に、改めて話をしよう。今は名乗らなくてもよい」


桔梗ききょうが、そう言い終えた、その時だった。 襖が再び開かれた。

そこに立っていたのは、金色の髪を持つ、美しい女性だった。 神々しいまでの光を放つその姿は、一目でこの場所の主と分かる。 彼女は、純白の着物の上に、素朴な割烹着(かっぽうぎ)を纏っていた。そして、その手には、湯気の立つ甘味の乗った盆を携えている。

天照大御神あまてらすおおみかみ日織ひおり。 その慈愛じあいに満ちた笑顔は、高天原たかまがはらの太陽そのものだった。


「おお、桔梗ききょう丁度ちょうど良かった。その子も目が覚めたようだな」


日織ひおりは、桔梗ききょう少女おうかに、優しく微笑みかけた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る