第5話

その言葉に、広間に沈黙が走った。月読命つくよみは息を呑み、八咫烏やたがらすは肩で小さく身を震わせた。日織ひおりの顔から、血の気が引いていく。


桔梗ききょうの「全ての権能の種けんのうのしゅ」とは、すなわち、彼女が持つ万象の礎ばんしょうのいしづえに根差す、八つの強大な権能けんのう、その全てを指す。天叢雲剣あまのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま八咫鏡やたのかがみ神威かむい不知火しらぬい天沼矛あまのぬぼこ、浄化、そして天照あまてらす。世界のことわりを操作し得る究極の力の種。


それを、今しがた人の身から変質したばかりの、未熟な魂に与えたというのだ。

月読命つくよみが、感情をあらわにして叫んだ。


「馬鹿な……! 桔梗ききょう、貴様、正気か!? そのような強大な力を、人のことわりから外れたばかりの存在に与えるなど……世界の秩序が、根底から崩壊しかねぬ!」


彼の声には、憤怒と恐怖が混じっていた。

日織ひおりもまた、顔を青ざめさせながら、震える声で桔梗ききょうに問いかけた。


桔梗ききょう……なぜ……なぜ、そこまで……。それは、あまりにも危険すぎる……。もしその娘が力を制御できず、暴走すれば……」


日織ひおりの懸念は、もっともだった。桔梗ききょうの力は、神々をも凌駕りょうがする。その力の種が、不安定な少女の魂に宿ったとしたら、それは世界にとって、新たな、そして最も危険な因子となり得る。


「ふん。そうだろうな。お主がそう危惧きぐするのも無理はない。儂とて、人の身であったものを、ここまで妖に染め上げ、全ての力を授けたことは一度たりともない」


桔梗ききょうは、冷ややかに応じた。


「しかし、この子を救うには、これしかなかったのじゃ。これらの力は、それぞれがこの子の不安定な体の根底を支え、いずれ芽吹くであろう。その時、この子は己の意思で、その力を振るうことが出来るようになるはず」


桔梗ききょうは、そう説明しながら、再び少女(桜花おうか)の頭を優しく撫でた。その指先から、微かな妖気が少女の体へと流れ込んでいく。それは、桔梗ききょう自身の力が、少女の新たな肉体と魂に馴染むよう、調整しているかのようだった。

その時だった。


「……う、ん……」


少女の小さな唇から、微かな声が漏れた。 ゆっくりと、その瞳がひらかれる。 琥珀色(こはくいろ)の瞳。それは、瘴気しょうきを吸い込む前の、かつての少女の瞳とは、異なる輝きを宿していた。

少女は、開かれた瞳で、虚空(こくう)をぼんやりと見つめていた。しかし、その瞳には、まだ何も映っていないかのようだった。 そして、その小さな体が、ピクリと痙攣けいれんする。


「……ッ!?」


その瞬間、少女の体から、強大な妖気が、無秩序に噴出した。 高天原たかまがはらの、清浄で神聖な気が満ちた空間。その清浄な結界と、少女の体内に残る微かな瘴気しょうき、そして桔梗ききょうが与えた妖力が、激しく反発し合ったのだ。 広間の空気が、ビリビリと震え始める。


「な、なんだと!?」


月読命つくよみが、驚愕きょうがくの声を上げた。日織ひおりの顔も、蒼白そうはくに染まる。

少女は、まだ意識が覚醒しきらないまま、無意識のうちに暴れ始めた。 その小さな手から、青白い妖気がほとばしり、宮殿の柱を砕き、床にひびを入れる。天井の装飾が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる。 彼女の体内で暴走する桔梗ききょうの力は、まだコントロールされず、ただ純粋な破壊衝動となって、周囲へと拡散していた。


「落ち着くのだ! 儂の声が聞こえるか!?」


桔梗ききょうは、暴れ狂う少女を、力強く抱きしめた。その身を盾にするように、溢れ出る妖気を受け止める。 少女の小さな体から放たれる力は、凄まじい。桔梗ききょうとて、容易に抑え込めるものではなかった。しかし、桔梗ききょうは決して怯まない。 彼女は、秋人あきひとを失った過去の悔恨(かいこん)を、決して繰り返すまいと誓っていた。この目の前の命を、今度こそ、必ず守り抜く。


「大丈夫……。恐れることはない……。儂が、儂がそばにおるぞ……」


桔梗ききょうは、少女の耳元で、優しく、しかし力強い声で囁きかけた。 その声には、母のような深い慈愛じあいが込められていた。 彼女は、まるで赤子あかごをあやすように、ひたすらに少女をなだめ、沈めようとした。 少女の小さな体に、自分の妖気をゆっくりと流し込み、その暴走する力を、優しく包み込む。


宮殿の広間は、少女の暴走する力によって、見るも無残な姿へと変わり果てていく。 その時、一本の太い石柱が、桔梗ききょうと少女の頭上へと、大きく傾き、崩れ落ちてきた。


桔梗ききょうッ! 危ないッ!」


月読命つくよみが、瞬時にその身を投げ出そうと、神速で駆け寄る。

だが、それよりも早く、日織ひおりの金色の瞳が、鋭く光を放った。


神威かむい解放……天照あまてらす


日織ひおりの口から、静かながらも絶対的な権能けんのうの名が紡がれた。 その瞬間、崩れ落ちてくる石柱が、ピタリと、空中で静止した。まるで、時の流れから切り離されたかのように、その重力は失われ、ただそこに存在している。 日織ひおりは、その瞳を、桔梗ききょうと少女から決して離さなかった。


(……我も、出来ることなら、秋人あきひとを救いたかったのだ……)


日織ひおりは、桔梗ききょう秋人あきひとの件で負った深い傷と、今、目の前の命を救おうとする彼女の揺るぎない決意を、痛いほど理解していた。この一時の混乱が、桔梗ききょうと、そして新たな存在となったこの娘にとって、必要な試練であると。


宮殿の広間は、少女の暴走する力によって、見るも無残な姿へと変わり果てていく。 しかし、桔梗ききょうはただひたすらに、少女を抱きしめ、その力を受け止め続けた。 彼女の献身的な保護、そして深い母性。 日織ひおり月読命つくよみは、その光景を目の当たりにし、息を呑んだ。 神々しいはずの宮殿の中で、一人の妖狐が、自らが作り出した新たな存在を、必死に守り抜こうとする姿。


彼らは、桔梗ききょうの持つ強大な力だけでなく、彼女の心の奥底に宿る深い愛情と、揺るぎない覚悟を初めて目の当たりにしたかのようだった。

月読命つくよみが、声を震わせた。


桔梗ききょう……」


日織ひおりは、ただ黙ってその光景を見守っていた。 少女の体から放たれる力は、未だ収まる気配を見せない。このままでは、高天原たかまがはらの結界そのものが危うくなるだろう。しかし、日織ひおり桔梗ききょうを止めることができなかった。


目の前の桔梗ききょうの姿が、かつて、秋人あきひとの命を救えなかった自分自身への、痛烈な反駁はんばくのように感じられたからだ。 少女の体が、この神聖な高天原たかまがはらに馴染めば、あるいは順応できるはず。だが、今はまだ、瘴気しょうきはらんでいる。このまま人の世に返すこともできない。


やがて、桔梗ききょうの妖気が、少女の暴走する力を完全に包み込み、ゆっくりと収束させていく。 少女の体から噴出していた妖気は、徐々に勢いを失い、やがて、ぴたりと止まった。 宮殿の震動も、崩れ落ちる音も、全てが止む。 広間には、破壊された柱と、砕けた床、そして、静かに抱き合う桔梗ききょうと少女の姿だけが残された。


桔梗ききょうは、少女を優しく、しかし力強く抱きしめながら、少女が完全に静まるまで待った。 少女の琥珀色(こはくいろ)の瞳は、再び閉じられ、深い眠りへと落ちていた。 その体から漂う妖気は、以前よりも安定し、高天原たかまがはらの清浄な気とも、わずかに調和を取り始めているかのようだった。

桔梗ききょうは、腕の中の少女を見つめ、静かに呟いた。


「……大丈夫。儂が、お前を守る。今度こそ、必ず……」


亡き秋人あきひとに重ねたとも思えるその声は、広間の静寂の中に、決意と共に深く響き渡った。



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