桜花狐鳴~幼子からチート級の狐の幼神へ。理を上書きして人生神からやり直し?!~

ましゅまろぽてち

第1章

第1話

はるか昔、この日ノ本ひのもとには、八百万やおよろずの神々が息づいていた。 人も、あやかしも、それぞれが異なることわりを持ちながら、互いに干渉し、時に争い、しかし、大いなる調和の中で生きていた。 古の時代から続く、その当たり前の風景は、しかし、近年どこか淀み始めている。


山河に微かな異変が見られ、人々の心にも、拭いきれない不安が広がり始めていた。 だが、その原因を知る者はまだ誰もいない。 そんな、神代の残り香がほのかに漂う、移ろいゆく時代の小さな片隅で —。


その少女の名は桜花おうか。 彼女の世界は、いつだって、甘く、そして香ばしい匂いに満ちていた。

町の小さな団子屋「さくら」。それが、彼女の家であり、全てだった。


「お父さん、お団子、まだ焼けないの?」

「ははは、もうちいと待ちな、桜花。一番美味い焼き加減ってもんがあるんだ」


実直な父と、太陽のように笑う母。

艶やかな濡羽色ぬればいろの髪を持つ桜花が、はにかむように微笑む。三人が作る、特に自慢の胡麻団子は、町一番の評判だった。

桜花にとって、湯気の向こうに見える両親の笑顔と、団子を頬張る客の幸せそうな顔が世界の全て。この温かくて優しい時間が、永遠に続くと信じていた。


その日もまた、春のうららかな陽光が降り注ぐ、穏やかな一日だった。「さくら」の店先は、焼きたての胡麻団子を求める客で賑わっている。

 桜花は、父が作った団子を串に刺し、母が淹れた温かいお茶と共に、客へと差し出す。


「はい、どうぞ!」


桜花の屈託のない笑顔に、客たちもまた、顔をほころばせる。

その時だった。 ざわつく店の客の視線が、一人の男に集まった。 それは、どこからともなく現れた見知らぬ通行人。 男は、顔色の悪い痩せ細った体つきで、ぼろぼろの旅装束たびしょうぞくを身に着けていた。 しかし、人々が彼に視線を向ける理由はその身なりではなかった。 男の体から、目に見えるほどの黒く澱んだ霞よどんだかすみが、ゆらゆらと立ち上っていたのだ。 それは、この世のものとは思えない形容しがたい不快な匂いを、あたり一面に撒き散らしていた。


「……う、うわっ、なんだ、この匂いは!?」

「くっ、くさい......! 吐き気が……」


客たちが、一斉に顔を覆い、後ずさり始める。 男は、人々の反応に構うことなく、ただ虚ろな目で、ふらふらと町の中心部へと歩いていく。 その足取りは、まるで死者のようだった。


そして彼が通った後には、黒い霞が、まるで地面に染み込むかのようにべったりと残っていく。

それはたちまちのうちに、町の空気を重く、そして禍々しいまがまがしいものへと変えていった。


「お父さん、あれ……」


桜花もまた、その異様な光景に思わず父の着物の裾を掴んだ。 父は、眉根まゆねを寄せ、その男の背中を、険しい表情で見つめている。


「大丈夫だ、桜花。……すぐに、追い払ってやる」

そう言って父は、客を守るように前に出ようとした。だが、遅かった。 男が歩き出した瞬間から、急速に拡散していった黒い霞は、既に町全体を覆い始めていたのだ。


それは、人々を蝕む瘴気むしばむしょうき。 空は鉛色なまりいろに変色し、陽光は遮られ、辺り一帯が、闇に包まれたかのようになった。 人々は、瘴気を吸い込んだ途端、突如として、錯乱し始める。


「ぎゃあああああ!!」

「だ、誰だ!? おい、俺に触るな! 化け物!!」

「ああぁッ!!お前がやったんだろう?!そうに違いないッ!!!」


悲鳴、怒号、罵声。 町は、一瞬にして地獄絵図と化していった。

桜花もまた、瘴気を吸い込んでいた。 脳が、灼けるように熱い。視界が歪み、吐き気がこみ上げる。 呼吸が、苦しい。 体中に、言いようのない悪寒が走り、手足の力が抜けていく。


「……お、父……さん……、お、母……さ……ん……」


意識が、遠のいていく。 桜花は最後に、目の前で互いに罵り合い、掴みかかろうとする両親の姿を見た。 その光景に、絶望にも似た衝撃を受け、彼女の意識はぷつりと途切れた。


桜花は、そのまま地面に崩れ落ちた。 彼女の体はゆっくりと、しかし確実に、瘴気によって汚染されていく。 その小さな胸の奥で、まだ幼い魂が、苦しそうに、きしみ続けていた。

 

—どれほどの時間が経ったのだろうか。桜花は、ゆっくりと意識を取り戻した。 しかし、その体は鉛のように重い。視界は、ひどく霞んで、まるで薄い膜がかかっているかのようだった。

喉が焼け付くように乾き、全身がぞわりと粟立つあわだつ


「っ……お、とうさん……? おかあ、さん……?」


掠れた声で、両親を呼ぶ。しかし、返事はない。かろうじて動く体を起こし、周囲を見渡した桜花の目に映ったのは、変わり果てた故郷の姿だった。​かつて活気に満ちていた町並みは、まるで巨大な墨汁をぶちまけたかのように、黒く澱んでいた。

 空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、太陽の光は一切届かない。地面は黒く染まり、道端に生えていたはずの草花は、全て枯れ果て朽ちていた。町を彩っていたはずの色彩は、全てが失われ、そこには、ただ黒と灰色の、死んだような風景が広がっている。

​そして、人の気配も全くなかった。


喧騒に満ちていたはずの通りは、ひどく静まり返っている。団子屋「さくら」の暖簾のれんは、風に虚しく揺れているだけ。開け放たれた店の奥を覗いても、人の姿はどこにも見当たらない。


桜花は、恐怖に震えながらもふらふらと立ち上がった。狭い視界の中、わずかながらに残る記憶を頼りに、両親を探す。


「おとうさん! おかあさっ⋯ゲホッけほっ」


声は、喉の奥にへばりついて、うまく出ない。 何度も、何度も、よろめきながら、歩き続ける。 通り過ぎる家々は、戸が開け放たれ、まるでもぬけの殻となっていた。

人々は、一体どこへ消えたのか。

やがて、町の外れ、普段は子供たちが遊んでいた広場の奥で、桜花の足が止まった。そこに、ふらふらと、しかし、何かを求めるように歩く、一人の女の姿があった。

見間違えるはずがない。

それは、桜花の母だった。


​「お、お母さん……!」


桜花は、残る力を振り絞り、駆け寄った。しかし、母の姿は、以前とは全く違っていた。

その顔は、土気色にやつれ、目は虚ろに濁り、髪は乱れ、着物は破れている。瘴気によって、深くふかく、深く、蝕まれているむしばまれているのが、一目見て分かった。


「お母さん、大丈夫!? 私よ、桜花よ!」


桜花が、その小さな手で、母の腕を掴む。母の瞳が、ゆっくりと、桜花へと向けられた。 その奥に、一瞬だけ、微かな光が宿る。


「……お、うか……? ああ……。桜花……」


母は、桜花の名を、かろうじて口にした。

その声は、ひどく掠れて、もはや、昔の太陽のように明るい母の声ではなかった。

母は、桜花を認識している。だが、その意識は、まさに風前の灯火ふうぜんのともしび

瘴気に侵され、意識を失いかけていることが、痛いほど伝わってきた。


​「……あ、の……だんご……や……。ごま……」


母は、壊れた人形のように、意味のない言葉を呟く。桜花は、母の変わり果てた姿に絶望した。

自分をかろうじて認識してくれる母。だが、その瞳の奥には、以前のような、温かい光は、もう、どこにもなかった。


全てを奪われた。

何もかもが、壊されてしまった。

その時桜花は、母が大事に手に持っている小さなものを発見した。それは、桜花が父にプレゼントし、肌身離さず身につけていた、お守り。

父の姿は、どこにもない。それが何を意味するのか。桜花は痛いほど理解できてしまった。

その瞬間、母の虚ろだった瞳に、わずかながら意識の光が戻った。


瘴気によって、ほとんど正気を失っていたはずの母が、その小さな手で、桜花の頬をそっと包み込む。 その目から、一筋、温かい涙が流れ落ちた。


「……ごめん……ね……」


絞り出すような、ひどくかすれた声だった。 母は桜花を、まるで大切な宝物のように力なく、しかし全身の愛情を込めて抱きしめた。

その腕の温もりは、桜花がずっと求めていた、昔と変わらぬ母の温もりだった。 だが、それもほんの一瞬。母の腕から急速に力が抜けていく。

桜花は、抱きしめた母の体が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。


「お母さん!? お母さん!」


桜花の必死の呼びかけも虚しく、母は、桜花の腕の中で、そのまま、ゆっくりと地面に倒れてしまった。 その瞳はもう、桜花を見つめることはない。 二度と、あの太陽のような笑顔を見ることはできない。 声にならない絶望が、桜花の小さな胸を深くえぐった。

朦朧もうろうとした意識の中、桜花は母を抱きしめたまま、ただ呆然と、顔を上げた。

狭く歪んだ視界の先。 瓦礫がれきと化した町の奥から、ゆらりと、一体の人影が姿を現した。

それは、桜花の父だった。


「お父さん……!」


しかし父は、以前の面影をほとんど残していなかった。 その目は、瘴気によって赤く濁り、正気を失い、まるで飢えた獣のように、獲物を探すかのような眼差しで、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。 手には、どこから拾ったのか、錆び付いたさびついた鉄の棒を握りしめている。

そして、その異様な視線が、正確に、桜花を捉えた。


「……あ、らゥえ……ォ…う、か…に、ギェ」


父の最後の言葉は、もはや制御の効かない意味の無い言葉として絞り出されると、ゆっくりと、その錆びた棒を桜花へと振り上げた。

桜花は、目の前で起きている現実を理解することができない。

なぜお父さんが? なぜ、私を? 脳裏をよぎるのは、瘴気に当たる前に見た、両親が互いを罵り合う、あの地獄のような光景。 これが父の、あんなに優しかった父の末路なのか。


恐怖と絶望、そして困惑が、桜花の心を支配する。 桜花は、死んだ母を抱きしめたまま、その場から1歩も動くことができなかった。迫り来る、変わり果てた父の凶器。桜花が諦めかけた、その時だった。


​「――間に合った、か」


冷徹な、しかしどこか気品を帯びた声が響く。

妖艶な絶世の美女が、その少女を守るように、音もなく目の前に突然現れ、桜花の前へと立ち塞がった。


目の前でしなやかに揺れる1本の尾。その背後には大きく揺らめく9本の尾。


纏っているまとっている着物は、黒と金を基調とした豪華なものだが、その裾は動きやすいように大胆に短く仕立てられていた。


九尾くび妖狐ようこ。これが、世界を変える少女と妖狐の運命の出会いであった。

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