桜花狐鳴~幼子からチート級の狐の幼神へ。理を上書きして人生神からやり直し?!~
ましゅまろぽてち
第1章
第1話
はるか昔、この
山河に微かな異変が見られ、人々の心にも、拭いきれない不安が広がり始めていた。 だが、その原因を知る者はまだ誰もいない。 そんな、神代の残り香がほのかに漂う、移ろいゆく時代の小さな片隅で —。
その少女の名は
町の小さな団子屋「さくら」。それが、彼女の家であり、全てだった。
「お父さん、お団子、まだ焼けないの?」
「ははは、もうちいと待ちな、桜花。一番美味い焼き加減ってもんがあるんだ」
実直な父と、太陽のように笑う母。
艶やかな
桜花にとって、湯気の向こうに見える両親の笑顔と、団子を頬張る客の幸せそうな顔が世界の全て。この温かくて優しい時間が、永遠に続くと信じていた。
その日もまた、春のうららかな陽光が降り注ぐ、穏やかな一日だった。「さくら」の店先は、焼きたての胡麻団子を求める客で賑わっている。
桜花は、父が作った団子を串に刺し、母が淹れた温かいお茶と共に、客へと差し出す。
「はい、どうぞ!」
桜花の屈託のない笑顔に、客たちもまた、顔をほころばせる。
その時だった。 ざわつく店の客の視線が、一人の男に集まった。 それは、どこからともなく現れた見知らぬ通行人。 男は、顔色の悪い痩せ細った体つきで、ぼろぼろの
「……う、うわっ、なんだ、この匂いは!?」
「くっ、くさい......! 吐き気が……」
客たちが、一斉に顔を覆い、後ずさり始める。 男は、人々の反応に構うことなく、ただ虚ろな目で、ふらふらと町の中心部へと歩いていく。 その足取りは、まるで死者のようだった。
そして彼が通った後には、黒い霞が、まるで地面に染み込むかのようにべったりと残っていく。
それはたちまちのうちに、町の空気を重く、そして
「お父さん、あれ……」
桜花もまた、その異様な光景に思わず父の着物の裾を掴んだ。 父は、
「大丈夫だ、桜花。……すぐに、追い払ってやる」
そう言って父は、客を守るように前に出ようとした。だが、遅かった。 男が歩き出した瞬間から、急速に拡散していった黒い霞は、既に町全体を覆い始めていたのだ。
それは、人々を
「ぎゃあああああ!!」
「だ、誰だ!? おい、俺に触るな! 化け物!!」
「ああぁッ!!お前がやったんだろう?!そうに違いないッ!!!」
悲鳴、怒号、罵声。 町は、一瞬にして地獄絵図と化していった。
桜花もまた、瘴気を吸い込んでいた。 脳が、灼けるように熱い。視界が歪み、吐き気がこみ上げる。 呼吸が、苦しい。 体中に、言いようのない悪寒が走り、手足の力が抜けていく。
「……お、父……さん……、お、母……さ……ん……」
意識が、遠のいていく。 桜花は最後に、目の前で互いに罵り合い、掴みかかろうとする両親の姿を見た。 その光景に、絶望にも似た衝撃を受け、彼女の意識はぷつりと途切れた。
桜花は、そのまま地面に崩れ落ちた。 彼女の体はゆっくりと、しかし確実に、瘴気によって汚染されていく。 その小さな胸の奥で、まだ幼い魂が、苦しそうに、きしみ続けていた。
—どれほどの時間が経ったのだろうか。桜花は、ゆっくりと意識を取り戻した。 しかし、その体は鉛のように重い。視界は、ひどく霞んで、まるで薄い膜がかかっているかのようだった。
喉が焼け付くように乾き、全身がぞわりと
「っ……お、とうさん……? おかあ、さん……?」
掠れた声で、両親を呼ぶ。しかし、返事はない。かろうじて動く体を起こし、周囲を見渡した桜花の目に映ったのは、変わり果てた故郷の姿だった。かつて活気に満ちていた町並みは、まるで巨大な墨汁をぶちまけたかのように、黒く澱んでいた。
空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、太陽の光は一切届かない。地面は黒く染まり、道端に生えていたはずの草花は、全て枯れ果て朽ちていた。町を彩っていたはずの色彩は、全てが失われ、そこには、ただ黒と灰色の、死んだような風景が広がっている。
そして、人の気配も全くなかった。
喧騒に満ちていたはずの通りは、ひどく静まり返っている。団子屋「さくら」の
桜花は、恐怖に震えながらもふらふらと立ち上がった。狭い視界の中、わずかながらに残る記憶を頼りに、両親を探す。
「おとうさん! おかあさっ⋯ゲホッけほっ」
声は、喉の奥にへばりついて、うまく出ない。 何度も、何度も、よろめきながら、歩き続ける。 通り過ぎる家々は、戸が開け放たれ、まるでもぬけの殻となっていた。
人々は、一体どこへ消えたのか。
やがて、町の外れ、普段は子供たちが遊んでいた広場の奥で、桜花の足が止まった。そこに、ふらふらと、しかし、何かを求めるように歩く、一人の女の姿があった。
見間違えるはずがない。
それは、桜花の母だった。
「お、お母さん……!」
桜花は、残る力を振り絞り、駆け寄った。しかし、母の姿は、以前とは全く違っていた。
その顔は、土気色にやつれ、目は虚ろに濁り、髪は乱れ、着物は破れている。瘴気によって、
「お母さん、大丈夫!? 私よ、桜花よ!」
桜花が、その小さな手で、母の腕を掴む。母の瞳が、ゆっくりと、桜花へと向けられた。 その奥に、一瞬だけ、微かな光が宿る。
「……お、うか……? ああ……。桜花……」
母は、桜花の名を、かろうじて口にした。
その声は、ひどく掠れて、もはや、昔の太陽のように明るい母の声ではなかった。
母は、桜花を認識している。だが、その意識は、まさに
瘴気に侵され、意識を失いかけていることが、痛いほど伝わってきた。
「……あ、の……だんご……や……。ごま……」
母は、壊れた人形のように、意味のない言葉を呟く。桜花は、母の変わり果てた姿に絶望した。
自分をかろうじて認識してくれる母。だが、その瞳の奥には、以前のような、温かい光は、もう、どこにもなかった。
全てを奪われた。
何もかもが、壊されてしまった。
その時桜花は、母が大事に手に持っている小さなものを発見した。それは、桜花が父にプレゼントし、肌身離さず身につけていた、お守り。
父の姿は、どこにもない。それが何を意味するのか。桜花は痛いほど理解できてしまった。
その瞬間、母の虚ろだった瞳に、わずかながら意識の光が戻った。
瘴気によって、ほとんど正気を失っていたはずの母が、その小さな手で、桜花の頬をそっと包み込む。 その目から、一筋、温かい涙が流れ落ちた。
「……ごめん……ね……」
絞り出すような、ひどくかすれた声だった。 母は桜花を、まるで大切な宝物のように力なく、しかし全身の愛情を込めて抱きしめた。
その腕の温もりは、桜花がずっと求めていた、昔と変わらぬ母の温もりだった。 だが、それもほんの一瞬。母の腕から急速に力が抜けていく。
桜花は、抱きしめた母の体が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。
「お母さん!? お母さん!」
桜花の必死の呼びかけも虚しく、母は、桜花の腕の中で、そのまま、ゆっくりと地面に倒れてしまった。 その瞳はもう、桜花を見つめることはない。 二度と、あの太陽のような笑顔を見ることはできない。 声にならない絶望が、桜花の小さな胸を深くえぐった。
狭く歪んだ視界の先。
それは、桜花の父だった。
「お父さん……!」
しかし父は、以前の面影をほとんど残していなかった。 その目は、瘴気によって赤く濁り、正気を失い、まるで飢えた獣のように、獲物を探すかのような眼差しで、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。 手には、どこから拾ったのか、
そして、その異様な視線が、正確に、桜花を捉えた。
「……あ、らゥえ……ォ…う、か…に、ギェ」
父の最後の言葉は、もはや制御の効かない意味の無い言葉として絞り出されると、ゆっくりと、その錆びた棒を桜花へと振り上げた。
桜花は、目の前で起きている現実を理解することができない。
なぜお父さんが? なぜ、私を? 脳裏をよぎるのは、瘴気に当たる前に見た、両親が互いを罵り合う、あの地獄のような光景。 これが父の、あんなに優しかった父の末路なのか。
恐怖と絶望、そして困惑が、桜花の心を支配する。 桜花は、死んだ母を抱きしめたまま、その場から1歩も動くことができなかった。迫り来る、変わり果てた父の凶器。桜花が諦めかけた、その時だった。
「――間に合った、か」
冷徹な、しかしどこか気品を帯びた声が響く。
妖艶な絶世の美女が、その少女を守るように、音もなく目の前に突然現れ、桜花の前へと立ち塞がった。
目の前でしなやかに揺れる1本の尾。その背後には大きく揺らめく9本の尾。
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