第5話

「ちょ、ちょっと一旦ここで止めようか。……少し、休憩にしましょう」


 木下は、動揺を隠しきれなかった。

 

(信じられない……。朝比奈って子、4オクターブ以上出せるみたい。それも、裏声じゃない。張りと艶を保ったままの、胸声で……)

 

 彼女の知る限り、それほどの高音域を自在に操れる男性歌手は、プロの世界にすら存在しなかった。目の前にいるのは、世間の常識からかけ離れた、規格外の才能だった。


「朝比奈君、ちょっといいかな……?」


 休憩中、一人壁際に佇む優を、木下は呼び止めた。


「今日は、どこのパートで歌ってみようか? シンジ君はテノールで歌って欲しくて君を連れてきたみたいだけど……歌っていて気持ち良かったのは、もっと高い音域だったんじゃない?」


 その通りだった。他の男子部員と歌う音域は、優にとって窮屈でしかなかった。


「合唱のパートはね、必ずしも男だから男声パート、て訳じゃないの。高い声を出せる男性が女声パートを歌うことは、決して変なことじゃないから」


 木下は、優の不安を見透かすように、優しい声で続ける。


「……どうかな? テノールとソプラノ、両方で歌ってみて、君が本当に歌いたいと思う方を選んでみたら?」


 優は、木下の提案通りにした。パート練習の前半はテノールへ、後半はソプラノへ参加することになった。


 コピーされた楽譜を受け取り、優はテノールパートの輪に加わる。慎二をはじめ、部員たちは優を快く迎え入れてくれた。しかし、彼らが歌うメロディをなぞっても、あの翼を得たような感覚は訪れなかった。むしろ、日常生活の延長だった。声を低く押し殺し、「地声の高い男性」を演じる。あの、声が檻となって自分を閉じ込めるような感覚が、まとわりついて離れない。


 後半、優はソプラノのパート練習へと移動した。優がその輪に加わった途端、女子部員たちの間に、微かな戸惑いが流れた。女だけで過ごす気安い空気が、わずかに緊張したようだった。皆、どこか無口になった。

 女子部員たちと声を合わせて歌おうとした、その瞬間。優の声帯は、まるで鉛を飲み込んだかのように強張った。伸び伸びと歌える音域のはずだった。それなのに、女子部員たちと共に、女声パートを歌うのだと意識した途端、どうしても声が出なかった。


 優の脳裏には、かつて悩まされた「夢」が蘇っていた。それが原因だった。


 それは、中学生の優が夜毎うなされ続けた悪夢。周りの男子の背が伸び、声が低くなり、がっしりとした体つきに変わっていく中、自分だけは逆の方向へと変化していく夢。背は伸びず、体つきは丸みを帯び、やがて胸が膨らんでゆく。陰茎は萎縮し、有るか無いか判らなくなる。胸元が苦しくなり、見かねた母が買ってきた女性用の下着をつけ始める。担任の先生から、明日から女子用の制服を着るようにと命じられる。セーラー服を着て登校すると、男子生徒たちの見る目が変わったことに気づく。膨らんだ胸元に、粘りつくような視線が注がれる……。


 女子部員と共に女性パートを歌うことは、優にとって、かつての悪夢の追体験だった。先程の発声練習とは別人のように萎縮する優の姿に、ソプラノのパートリーダーも、どう接すればいいのか分からない様子だった。


 結局、その後の全体練習には加わらずに見学させてもらうことにした。


 アルトのパートリーダーを務める真由美は、音叉を鳴らした。それを耳元に当てて音程を確認すると、軽く唇を閉じたままハミングを始める。


「hmm....」


 真由美のハミングに合わせ、アルトの女子たちがハミングに加わる。そのアルトの音程に合わせ、他のパートもハミングに加わり、和音を形成してゆく。やがて音楽室は立体的に形作られた美しい和音で満たされた。


 その和音を確認すると、木下は指揮棒を振り始めた。指揮棒の動きに合わせ、部員たちの歌声が躍動する。その歌声は優の耳には美しく聴こえていたが、木下は妥協を許さない。適時演奏を止めて、矢継ぎ早に指摘し、修正を加えてゆく。


「――今のテノールの主旋律、ちょっと走り過ぎだよ!もっとゆっくりと、一音一音を大事にして!」

「――ここの和音、ベースのピッチが下がっていて、ちゃんとハモってなかった。パートリーダーの山口君の音程が一番正確だから、彼に合わせてピッチを保って!」

「――今のフォルティッシモ、ソプラノが前に出過ぎ!他のパートが聴こえなかった。気持ちは分かるけど、もっと抑えて、他のパートを聴く余裕を持って!」


 部員たちは木下の声に耳を傾け、その指示を楽譜に書き込んでいく。その指示と指揮により、部員たちの四十の声は、着実に1つにまとまってゆく。部員たちはそれぞれ違う声質を持っているはずなのに、互いの声に耳を澄ませて補い合い、支え合い、一個の生命体の様に躍動していく。


 1日の練習の仕上げに、木下はその一曲を通して演奏させた。その均整のとれた生命体の躍動は、まるで一頭の逞しい野生馬が、草原を駆け抜ける様を観るかのようだった。

 

 優はその迫力に圧倒されながら、同時に、どうしようもない疎外感に襲われていた。合唱とは、こんなにも濃密で、繊細な周囲との協調が必要なのか。テノールやソプラノのパートの中ですら満足に歌えなかった自分。この四十の声と共には歌えない。自分の居場所は、ここには無い。


 練習が終わり、部員たちが片付けを始める中、木下は再び優を呼び止めた。


「今日の練習はどうだったかな?……もしかしたら、君には合唱は合わないのかもしれないね」


 その言葉は、優が感じていたことを、そのまま代弁していた。


「……でも」


 木下は続けた。


「君のその声は『贈り物』だと思う。それは、普通の人がいくら望んでも、決して手に入らないもの。神様に選ばれた人が、生まれつきにしか手にできない、特別なもの。私は、そう思うんだ」


 ――贈り物?呪わしいとさえ思っていた、この声が?


「もし合唱が気に入らなかったとしても、別の形でその声を磨いて、歌で自分を表現してみたらいいんじゃないかな。合唱部に入っても入らなくても、私はいつでも力になるから。気軽に声をかけてね」


 音楽室を後にして、優は慎二に、合唱部には入れない、と告げた。がっかりする慎二に何度も頭を下げて、一人、帰路につく。

 木下の言葉が、頭の中で何度も反響していた。「贈り物」という言葉が、心の奥深くで、小さな灯火のように揺らめいていた。合唱では歌えない。でも、歌いたい。あの解放感を、もう一度味わいたい。


 自宅の玄関を開けると、父の作る夕食の匂いがした。優はリビングを通り過ぎ、キッチンで鍋をかき混ぜる父の背中に、静かに、しかしはっきりとした声で告げた。


「父さん。――これからは毎日食器洗いするから。僕に、歌を教えてほしい」

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