空の海~渤海の果て~

国香

女(一)

 文官、武官、貴族や武人達の邸宅が建ち並ぶ、煌びやかな都。その片隅に、賤民達の住まう町があった。


 そこの貧しい民達は、日々の糧を手に入れるのさえ至難であり、雨風を防ぐ家など、持っている者の方が少なかった。


 その町の中の一軒家。周囲の家同様、狭く汚く古い襤褸だが、そこには珍しく門が建っている。


 狐狸の住処かと思えるほどに荒れているが、家の中からは煙が立ち上っている。家主が暖をとっているか、煮炊きでもしているのであろう。確かに人が住んでいるらしい。


 その小さな門前に、一人の女が立っていた。


 それはあまりに場違いな女であった。


 美しい白の正絹の衣に銀の耳飾り。翡翠と真珠の簪を麗しく挿している。貴族の女であることは一目瞭然だった。しかも、彼女はとても美しい。そして、若く、瑞々しく。


 その紅をほどこした唇から、頼りない溜め息が一つ、ほろりと零れた。物思いに耽ったような顔の表情。何とも憂わしげにその家を眺めていた。


 彼女はもう一つ溜め息をつくと、天を仰いで微かに首を横に振った。瞼を閉じ、やがて決意したように、そこを立ち去る。


 なよやかな歩み。身のこなしも優雅で、気品に満ちている。やや進んだ所で、一人の青年とすれ違ったが、彼女はその存在に気付くこともなく、愁眉のまま去って行った。


 しかし、青年の方は驚いて振り返っていた。ゆっくり遠ざかっていく美女の背中を、そのまま暫く見送っていた。


 一瞬すれ違っただけだが、彼女の姿は、青年の目にはっきり焼き付けられていた。それくらい、彼女はここには似つかわしくなかったのだ。


 まるで皇女か后妃のような。気品があって楚々として。こんなに美しい人は見たことがない。


 青年はそう思っていた。だが、やがて青年は現に戻って前を向き、荷物を抱え直して歩き出した。


 すぐ目の前の目的地までやってくると、立ち止まる。そこは、先程の美女が佇んでいた家であった。


 青年はその襤褸門から、中の様子を伺い、


「先生、いらっしゃいますか?」


と、声をかけた。


 中からの反応はない。


「おかしいな。留守かな?」


 立ちのぼる煙を見ながら、首を傾げた。そして、もう一度声をかける。


「先生!宇成です。先生!いないんですか?野菜持ってきたんですよ」


 しかし、やはり反応はない。


「しょうがないなあ」


 彼は門中に入って、家の戸の前まで進んでくると、抱えていた荷物の袋を下ろした。


 彼の言う通り、袋の中には野菜が幾つか入っている。それと、この家の主の今夜の食事も入っていた。宇成と名乗った彼の、その母親が、この家の主のために作ったものだ。


 宇成は荷物を置くと、すぐに門を出て帰って行った。


 やがて帰宅した家主は、家の前の食糧に驚くだろうが、こんな親切を示してくれるのは宇成くらいしかいないので、すぐに彼が持って来たものと気づくだろう。


 宇成はやがて賤民街を抜け、自分の居住地に去って行った。


 宇成は庶民である。裕福であるとは言えない。しかし、家もあれば仕事もある。日々の暮らしに困ってはいなかった。


 しかし、最初からそうだったわけではない。もともとは、どちらかと言えば貧しい方だった。それが今のようになれたのは、彼が先生と呼ぶ男のおかげである。


 彼が何故、あの家の主を先生と呼ぶのか。それは、あの家の主が、読み書きのできない宇成に、勉強を教えたからである。


 あの家主は無一文で、賤民街に住んでいるのに、かなり博学だった。


 ひょんなことから出会った宇成に、簡単な読み書き、算術を教えた。そして、たった半年で、宇成をそれなりに通用する人物に育て上げてしまった。さらに、経済にも通じる家主は、そのしくみ、商売のやり方、果ては海の彼方の異国との交易までをも教えた。


 それで、宇成はその身に付いた知識で商売を始めたのである。


 商売を始めてまだ二ヶ月。しかし、面白い程うまく行って、短期間で今のような暮らしができるようになっている。すぐに軌道に乗って、あっという間に大金持ちになってしまうかもしれない。


 宇成はあの家の主から様々なことを教えられた。だから、彼は家主を先生と呼ぶのである。


 先生は教えるのがうまい。宇成の尻を叩いたことはなかった。そんなに怒らなくても、宇成はすぐに理解できた。宇成が利発だからというのではない。先生の説明の仕方が絶妙だったからである。


 宇成は勿論、その母親も先生には感謝しているし、尊敬もしている。


 それで、無一文で食べることにさえ困っている先生のために、宇成も母親も、食糧や衣類等を時々差し入れていたのだ。


 それにしても、先生は何故無一文なのか。宇成はいつも不思議に思っている。あれほど博学で、教え方もうまいのだから、塾でも開けばよいのに。そう思われて仕方がない。


 しかし、先生には先生なりの思いがある。それは、庶民にはわからない。宇成にも、誰にも、先生の心の中などわかる筈がないのだ。





 宇成が自分の家に着いた頃、先生もまた帰ってきていた。案の定、玄関先の差し入れに驚き、そして、すぐにそれを宇成の好意と察した。彼は有り難く思い、野菜に手を合わせると、それを抱え上げて、家の中に入った。


 家の中は暖かい。火もまた温かな光を発していた。


「少し不用心だったか……」


 彼はそう呟いて、薄い髭の中の唇を、ややゆるめる。


「──すぐだから。ちょっとの時間だから」


 そう言われて、訪ねて来た男に引っ張られるまま、家を後にしていた。しかし、いくらすぐに終わる用事だからとて、火も消さずに出掛けたのは、危なかった。


「一人暮らしなのだ。気をつけねば」


 火事にでもなったら大変だ。彼は己の用心の足りなさに自嘲しながら、野菜を台所まで運んだ。


 それを台に置いて、手がとても熱いことに気づく。彼は両手を擦り合わせた。汗で手のひらは濡れている。


 部屋の中が暖かいと感じるのも、もしかしたら、高揚しているからではないのか。


 先程訪ねて来た毛皮を着た男は、彼を強引に連れ出した男は、確かに、彼の運命を変える福の使者であるに違いない。


「私はもうこんな所にくすぶってなどいられない。私の運命は動き出した!」


 彼は毛皮の男に連れて行かれた場所で会った人物を、思い出していた。この止まぬ高揚感は、その人物のせいに違いなく──。


 彼は未来に、大きな夢と希望を持った。


もうこんな屈辱的な生き方とは決別しよう。


 彼は合掌していた手をいつの間にか強く握り合わせていた。天を見る。


 視界に映るのは天井の筈なのに、彼には大海に似た大空が見えていた。


 その脳裏には、


「心海よ、その才能をこのまま埋もれさせていてよいのか?悔しくはないのか?」


という、先程の人物の言葉が響いていた。まるで、天啓のように、朗々たる韻で、彼の魂を震えさせる。


──訪ねて来て彼を連れ出した毛皮の男は、彼の数少ない知人の一人で、官吏の述作郎だった。その述作郎は、昔から彼の才能を高く評価していて、彼を何とか再び世に引っ張り出したいと思っていた。


 彼──心海は、もとは官吏だったのだ。希望と夢に燃える、若き官吏。しかし、彼は半年前に失脚した。上役達の政変に巻き込まれて。


 この国は、政変、反乱が絶えない。常に外敵に脅かされ、戦々恐々としていた。だから、外交一つにしても様々な考えがあり、内輪もめも絶えなかったのだ。


 建国から、およそ四十年。まだ四十年と考えるか、もう四十年と考えるか。


 この国は、亡国の復興運動の中から生まれた弱小国家である。


 亡国──渤海は周辺の強国に攻め滅ぼされてしまった。王族も貴族も皆、散り散りばらばらになり、ある者は隣国に亡命し、ある者は地の果てまで逃げ、ある者は祖国を滅ぼした敵の支配下に身を置いた。


 しかし、中には不屈の精神で、国の再興運動を続けた者もいたのである。


 彼等は各地で敵に反抗し、隙あらば復国させようと狙っていた。反抗する度に攻撃され、潰された。しかし、彼等は決して諦めなかった。


 しかし、何度国を再興しても、すぐに滅ぼされ、何れも数年で終わっていた。そのような国が、各地で幾つも興っては、次々に消えていた。そうした中で、この国は生まれたのだった。


 しかし、この国の王は、亡国・渤海の王族・大氏ではない。その臣下であった者だ。


 亡国復興運動に集った人々は、亡国の王族を担ぎ上げていた。その旗の下に集結していたのだ。


 しかし、その集団の中から独立した一派が出た。それがこの国、この国の王・烈万華である。


 王は亡国の臣下でありながら、独立して自身が王となる程、強大な力を持っていた。その指導力は圧倒的であった。だからこそ、この国を建国できたのだし、亡国の遺臣達も民も従ったのである。


 そして、この国は四十年続いた。


 四十年も続いた理由は色々ある。亡国を滅ぼした強国・契丹が、内紛していること、この国が独立する前に存在していた集合体が、甚大な自然被害に遭って弱体化していることなどがあった。


 とは言え、常に外敵に脅かされ続けた四十年だったのである。そして、最近、契丹は再び強大になってきていた。


 亡国復興と唱えながら、王が亡国の臣下というこの国。貴族達の思いも様々だろう。王に対して、複雑な思いがある者も少なくない筈である。


 また、この国は単独でやって行くには弱すぎる。どこかと手を組まねば、すぐに攻撃され、滅ぼされてしまうだろう。では、どの国と結べばよいのか。


 それも、人によって考えは様々だ。


 様々な考えを持った人々が、喧々囂々、常に意見をぶつけ合っていた。


 やがて、同じような考えの人々が寄り集まって派閥を形成し、派閥と派閥の争いが絶えない国となってしまった。これも、国を思えばこそではあるが、果たしてこの争いが、国を永の繁栄へと導く吉と出るやら。凶となるやら。

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