第一話・祇園花街・化粧を落とせない舞妓(六)

 術を使うときの疲れは、後からじわじわとやってくる。


 鏡枠から符を剥がすと、紙の上の線はすでに色を失っており、ただの紙切れに戻っていた。彼はそれを折りたたんで袖に戻し、指先を一度だけ握って開く。筋が少し突っ張る感覚に、自分の力も少なからず削られたことを、自覚する。


「今日はここまでや」


 彼は、小春に向かって言う。


「今夜は、もう鏡見んほうがええ」


 小春は、赤い目のまま、こくりとうなずいた。


「……ありがとうございました」


 掠れた声で言う。


「劉さん」


「礼なら、綾女に言え」


 彼は軽く首を振り、立ち上がった。


「一番心配してたんは、あの人や」


 暖簾が上がり、綾女が姿を見せる。


 中に入るなり、素顔の小春の目元を見て、ほっと息をついた。


「よかった」


 そっと肩を抱き寄せ、耳元でささやく。


「今夜は、二階で寝ぇ。化粧道具は、全部ここに置いて行きや。部屋には持って上がらんこと」


「はい」


 小春は、涙を拭きながら笑った。


 綾女は顔を上げ、劉立澄を見る。


「先生」


 今度は、女将としてではなく、一人の女として笑う。


「やっぱり、夜食ぐらいじゃ足りひんお礼やな」


 真夜中を過ぎていたが、西木屋の厨房には、再び灯りがともった。


 宴席のときの賑やかさはない。


 ここにいるのは、綾女と劉立澄、ふたりだけ。


 台の上には、冷や飯と海苔、味噌、洗ったばかりの浅利が、簡素に並んでいる。


 綾女は袖をまくり、手を水で流してから、手早く飯を握った。掌で軽く形を整え、刷毛で醤油を塗り、鉄板の上に並べる。醤油が熱で焦げ、じゅうっと音を立てる。煙とともに、香ばしい匂いが、狭い厨房いっぱいに広がった。


 焼き上がった飯団子の表面は、少しだけ焦げ、きつね色の部分と白い部分がまだらに混ざっている。取り上げた瞬間、米と醤油が触れあう辺りから、かすかな音がした。海苔で包めば、熱で柔らかくなった海の香りが、炭火の匂いと一緒に鼻を抜ける。


 隣の小鍋では、水が沸き、小さな浅利が殻を開き始めていた。浮いたアクをすくい、味噌を溶き入れる。味噌の香りがふわりと立ち上がり、貝の旨味と混ざって、胃の底まで温めてくれそうな匂いになる。


「どうぞ」


 綾女は、焼きおにぎりを二つ載せた小皿と、浅利の味噌汁の椀を、彼の前に置いた。


「今度は、お代、取らはる?」


 彼が、片眉を上げる。


「もちろん」


 綾女は、いたずらっぽく笑う。


「――これからも、ちゃんと来てくれるって約束で、ツケにしとく」


 劉立澄は、焼きおにぎりを一つ手に取った。


 指先に伝わるざらつきと、微かな固さ。


 噛めば、外側の米と醤油のところがカリッと音を立て、中の柔らかな米が、ゆっくりと甘みを放つ。


 味噌汁は、もっとストレートだった。


 浅利の身は小さいが、噛めばちゃんとした弾力がある。味噌の塩気は強すぎず、わずかな発酵の香りが、食道から胃へと温かく落ちていく。さっき術で削られた部分に、じんわりと血が戻ってくる感覚があった。


「どない?」


 綾女は、頬杖をついて、じっと彼の顔を覗き込む。


「うちの『夜食退魔コース』は」


「さっきの席より、ずっとええ」


 彼は、正直な感想を返した。


「さっきの料理は、小春の『看板』のためのもんやった。――今のは、ちゃんと俺に食わせるためのもんや」


「さっきのは、小春の顔に食わせてたんやろね」


 綾女は、ふっと笑う。


「アンタ、よう見てるわ」


 それから、少し真面目な顔になった。


「……これから先、小春は、前ほど完璧やなくなるかもしれん」


「それでええ」


 彼は、即答する。


「完璧なもんから先に、壊れていく」


「じゃあ、先生は?」


 綾女は、わざと軽い調子で聞いた。


「先生自身は、完璧?」


 夜食には似つかわしくない、少し重い問い。


 劉立澄は、すぐには答えなかった。


 焼きおにぎりを最後の一口まで食べてから、味噌汁を飲み干し、椀を静かに置く。


「完璧やったら、とうに死んでる」


 ぽつりと言う。


「欠けてるから、まだここにおる」


 綾女は、彼をじっと見つめ、それからゆっくり笑った。


「……それ聞いて、安心したわ」


「なんでや」


「いつか先生まで、鏡の中の連中みたいになったら困るやん」


 店の戸口まで送っていくと、花見小路は、ほとんど灯りを失っていた。


 ところどころに、ぽつんと残った提灯の灯だけが、暗闇の中で揺れている。


 石畳の水気は、夜風に乾きつつあり、溝のあたりだけ、わずかに光を残していた。


「今日は、ほんまにありがとう」


 綾女は、薄いショールを肩に掛けて、少し身をすくめる。


「東山まで戻るんやろ。あっちは、ここと違う寒さやで。気ぃつけて」


「それ、みんなに言うてるのか」


「ハイヒール履いて、寒いふりしてる客には言わん」


 綾女は、口元に笑みを浮かべた。


「アンタみたいに、見てるだけで寒そうな人にだけや」


 彼は小さく頷き、背を向ける。


 深夜の花見小路は、昼間とは別の町のようだった。


 観光客も、カメラも、団体客の旗もない。


 時折、路地の奥から猫が姿を見せ、どこかの窓から、遅くまで灯りが漏れている。それだけが、「ここはまだ生きている」と告げていた。


 劉立澄は、石畳を踏みしめながら歩く。


 一歩、一歩。


 靴底と石の摩擦音が、静かな夜気の中で、はっきりと響く。


 通りの真ん中あたりで、彼はふと足を止めた。


 顔を上げて通りの端を見る。


 次に、足元を見る。


 彼の目には、世界が少し違って見えていた。


 平らに見える石畳のあいだに、肉眼ではほとんど捉えられない細い線が走っている。通りの端から端まで、じわりと伸びる、暗い青灰色の光の筋。雨の跡とも、単なる石の隙間とも違う。


 土地の内側に、誰かが刃物で傷を刻み、そこに何かを流し込んだような――そんな線。


 龍脈に走った、細い裂け目。


 さっきの「完璧な舞妓の残形」は、その裂け目から漏れ出した、泡の一つに過ぎない。


「……やっぱりか」


 心の中で呟く。


 京都には、この手の線が、一本や二本ではない。


 彼はしばらくその場に立ち止まり、やがて、その線をまたぐように一歩踏み出した。


 遠くで風が吹き、どこかの提灯が、かすかに揺れる。


 その瞬間、通り全体の影が、一瞬だけ、ほんの僅か、方向を間違えた。


 気づく者など、ほとんどいない、微かなずれ。


 劉立澄は振り返らず、歩き続けた。


 東山の小さな借家が、彼を待っている。


 辿り着いた頃には、もう夜明け前の時刻になっていた。


 小さな紅葉の木が一本立つ庭先で、石灯籠はとっくに火を落としている。家の中からは、薄い光だけが漏れていた。


 靴を脱ぎ、顔を洗い、花見小路の夜の匂いを水に流す。


 卓に座り、急須に湯を注ぎ、淡い茶を淹れる。


 茶が冷めないうちに、引き出しの中から一冊の小さなノートを取り出した。


 表紙には、何のタイトルもない。


 ただ、紙だけは、中国から持ってきた上質なものだった。


 ペンを取り、最初のページに、ゆっくりと書き込む。


 「第一件:祇園花街・化粧を落とせない舞妓。」


 句点まで書き終えたところで、ペン先を止める。


 窓の外を見ると、東の空が、わずかに白んできていた。


 京都の夜は、まだ長い。


 ――残形の記録は、今、始まったばかりだ。

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