第一話・祇園花街・化粧を落とせない舞妓(五)

 小春の指先が、凍りついたように冷たくなる。


 この数日、自分の疲れを「感じる暇」がなかったことに、ようやく気づいた。


 舞台、稽古、接客――すべてを終えて布団に入ると、体はまだ固いままなのに、意識だけが、どこか別の場所へ引っ張られていく。


 「お前は、ただ、あいつを後ろへ押し込めたいだけやろう」


 劉立澄は、淡々と言う。


 「表に立つのは、お前一人のほうが、効率ええからな」


 「それの、どこが悪いのでしょう」


 残形の舞妓は、首をかしげる。


 「わたしは失敗しません。取り乱しません。誰かを本気で好きになって、自分を壊したりもしません。悩み過ぎて、稽古をサボったりもしない。祇園が求めているのは、そういう舞妓でしょう? 涙をこらえて笑っている子供なんかじゃない」


 その目が、小春のほうを向く。


 「ねえ、もう疲れたでしょう?」


 ひどく優しい声だった。


 「だったら、鏡の向こうに隠れていればいいの。あとは、わたしがやっておくから」


 喉の奥で、嗚咽のようなものがせり上がる。


 「……確かに、理屈としては、合ってる」


 劉立澄が口を開いた。


 小春は、驚いて彼をふり仰ぐ。


 残形の舞妓は、勝ち誇ったように目を細める。


 「ただ、一つだけ確かめたいことがある」


 彼は、一歩前に出て、鏡の正面に立った。


 「……お前、自分の足を持ってるか?」


 「……何ですって?」


 残形が、一瞬言葉を失う。


 「誰も見てへん朝」


 劉立澄の声は、淡々としたままだった。


 「化粧も帯もつけてない。普通の服と下駄で、あの石畳をひとりで歩いた記憶。どこの家の洗濯物とも知らん布を見上げて、隣の店から味噌汁の匂いがしてきて、『今日も怒られへんように頑張らな』って、ひとりで歯ぁ食いしばっとった、あの足の記憶」


 祇園の早朝。


 まだ誰もいない花見小路を、急ぐ足音。


 自分の影だけが、長く伸びる。


 それは、間違いなく、自分自身の足で踏みしめてきた道だった。


 鏡の中の舞妓は、沈黙した。


 ゆっくりと視線を落とす。


 そこに映る自分の足は、輪郭がぼやけている。


 ふわふわと浮いていて、畳に重さを預けていない。


 「わたしには、観てくれる目があれば、それでいいわ」


 彼女は、笑みを貼り付けたまま言う。


 「歩く必要なんて、ないでしょう」


 「ほな、お前は、ただの『見世物』や」


 劉立澄は、静かに断じた。


 「小春とは、別もんや」


 彼は手を伸ばした。


 指先に、一本の細い剣が吸い寄せられるように現れる。


 澄心の剣。


 派手な意匠も、きらびやかな装飾もない。細く、まっすぐで、ただそこにあるだけのような刃。そのくせ、目を離そうとすると、どこか後ろ髪を引かれるような存在感がある。


 小春は息を呑んだ。


 彼がどこからその剣を取り出したのか、見て取ることはできなかった。ただ、「最初から、彼の背後の空気のなかに待っていた」としか思えないほど自然に、その剣は彼の手に馴染んでいた。


 「怖がらんでええ」


 彼は、小春のほうを見ずに言った。


 「人は斬らん」


 そのまま、剣先をすっと持ち上げる。


 力任せに突き立てるのではない。


 鏡を割るためでもない。


 ほんの軽く、鏡の中の残形の眉間――「完璧な顔」のど真ん中に、ちょんと触れただけだった。


 その瞬間、符紙の金色が、一気に強くなる。


 鏡面が、水面のように波打ち、剣先の刺さった一点から、細かい罅が、内側へ内側へと沈み込むように広がっていく。


 残形の白い顔が、ひとひらずつ剥がれ落ちていく。


 「お前は、『こうなれたら捨てられへんやろう』って、この子が必死に描いた幻に過ぎん」


 劉立澄の声は、変わらず静かだ。


 「本物は、その奥で、まだ泣いてる」


 罅の下から現れたのは、化粧の崩れた少女の顔だった。


 目の下にはうっすらとクマがあり、肌も少し荒れている。


 眼尻は赤く、泣きはらした痕がある。


 紛れもない、小春自身の顔。


 「生きるのは、この子の仕事や」


 彼は、剣を一度引き、こんどは刃の背で、鏡枠をこん、と叩いた。


 符の光が、枠をぐるりと一周し、剥がれ落ちた「完璧な面」を、細かい塵にして散らす。


 「……ここから先は、自分でやってもらう」


 彼は、背後の小春に向き直った。


 「自分の手で、取り返せ」


 小春の手が震える。


 鏡の中では、素顔の少女が、涙でにじんだ目をこちらに向けている。


 「……でも」


 声が、かすれた。


 「うちが、このままの顔でおったら、いつかここから追い出されるんとちゃいますか。誰にも、好かれへんのとちゃいますか」


 「それは、誰に訊くべきやと思う?」


 彼は、短く問い返した。


 「うちやない。――あんた自身や」


 剣は、空気の中にふっと溶けて消えた。


 「手を伸ばせ」


 鏡の中の自分に向かって。


 小春は、深く息を吸った。


 指先を震えさせながら、ゆっくりと鏡に向けて差し出す。


 鏡の中の少女も、手を伸ばした。


 それは、完璧に整えられた舞妓の手ではない。


 皺だらけの指。


 節のところが少し赤く膨らんだ関節。


 稽古と雑事でできた、薄いタコ。


 「……どう生きたい?」


 鏡の中の少女が、問いかける。声は、現実ときれいに重なっていた。


 「花見小路の、たったこの短い一本。西木屋っていう、たった一軒の店。――そのなかだけでもええ。あんたは、どんな顔で、ここを歩きたい?」


 小春は、目を閉じた。


 浮かんできたのは、初めて綾女に「今日はええ顔してたやん」と言われた日のこと。


 客に「話、聞いてくれて助かった」と小さな声で礼を言われた夜。


 緊張から裏で泣きそうになっていたとき、こっそり差し入れの甘いものを渡してくれた先輩の横顔。


 そのどれも、化粧は少し崩れ、笑いすぎて目元に皺が寄り、疲れてあくびもしていた。それでも――確かに、「生きていた」。


 「うち、自分の顔でおりたい」


 唇から、ようやく言葉がこぼれ落ちる。


 「普通やって言われてもええ。嫌われる日があってもええ。……化粧落として、『これがうちや』って言える顔で、おりたい」


 鏡の中の少女が泣き出し、現実の小春も、同じように泣き出した。


 ぽたぽたと落ちる涙が、畳に小さな濡れ跡をつくるたび、周囲をまとっていた白い影が、ひとひらずつ剥がれていく。


 長いあいだ着続けた衣装のボタンを、一つずつ外すように。


 やがて、「完璧な舞妓」の輪郭は完全に溶け、鏡の表面に吸い込まれ、再びこちら側に返ってくる。


 ――今度は、「自分の重み」を持った姿として。


 灯りが、一瞬だけふっと翳り、すぐに戻った。


 鏡の中と現実の小春は、完全に重なっている。


 白粉はすっかり落ち、目元は赤く、鼻先も真っ赤。


 髪はしどけなく肩に落ち、長い一日を終えた少女の姿。


 「……そのほうが、ずっとええ顔や」


 劉立澄の声が、背後からそっと降ってきた。


 そこには、からかいの色も、気休めもない。ただの事実としての言葉だった。

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