第6話:File_06_K氏の取材メモ_音声入力.txt

【編集部注】


本ファイルは、K氏のスマートフォンに残されていたテキストデータである。

これまでの取材メモは、彼が愛用していたノートPCで作成されていたが、この第6話に相当する記録だけは、スマートフォンの音声入力機能(Speech-to-Text)を用いて作成されている。

なぜ彼がキーボード入力を諦めたのか。

その理由は、後に発見された彼のスマートフォンの画面に付着していた「乾いた体液」と、指紋認証が反応しなくなるほど損傷した彼の指先の状態から推測できる。


K氏は、自宅を出てSヶ丘団地へ向かう道中、断続的に独り言のようにメモを残していた。

以下は、そのテキストデータの原文である。

一部、音声認識の誤変換と思われる箇所や、意味不明な文字列が含まれているが、編集部はあえて修正を加えず、そのまま掲載することとした。

(※)は、背景音や状況から編集部が推測した注釈である。


【音声データ変換ログ:202X年5月28日 23:15】


あー。あー。マイクテスト。

くそ、反応が遅い。

指が痛い。

キーボードが打てない。

爪が全部剥がれた。

自分で剥がしたわけじゃない。

朝起きたら、布団の中に散らばっていたんだ。

まるで付け爪が取れるみたいに、ポロリと。

血は出ていない。

代わりに、爪があった場所から、透明なジェルみたいな汁が出てる。

これが接着剤の役目をしているのか、キーボードを触るとキートップが指にくっついて離れないんだ。

だから喋るしかない。

記録を残すには、喋るしかない。


準備はできた。

ハンマー、バール、レコーダー。

それと、ガソリンの携行缶。

燃やすつもりはない。脅しだ。

いや、最悪の場合はやるかもしれない。

頭の中がうるさい。

耳鳴りじゃない。

ラジオのノイズみたいな音が、脳みそのシワの隙間を流れている。

「ザザッ、ザッ、……コッチ、コッチ……」

呼ばれている。

404号室が、俺を呼んでいる。


ミイは置いていく。

押し入れの隙間から、ずっと俺を見てる。

あれはもう猫じゃない。

俺の知ってるミイじゃない。

「行ってらっしゃい」って言った気がした。

猫が喋るわけないのに。

でも、口の動きは確かにそう言っていた。


家を出る。

玄関のドアを開けるのが怖い。

外の世界が、まだ俺の知ってる世界かどうか、自信がない。


【音声データ変換ログ:202X年5月28日 23:45】


タクシーに乗った。

駅まで歩こうと思ったけど、無理だった。

足の裏の皮も剥げてるみたいだ。

一歩歩くたびに、靴の中で「グチャッ」て音がする。

気持ち悪い。

でも、痛みはない。

それが逆に怖い。


運転手がバックミラー越しに俺を何度も見てくる。

俺の顔、そんなに酷いか?

マスクとサングラスをしてるから、見えないはずだ。

いや、匂いか。

ファブリーズを一本使い切ったけど、染み付いた腐臭が取れない。

運転手が鼻をすする音がうるさい。

「ズズッ、ズズッ」

その音が、あの咀嚼音と重なる。

この運転手も、あっち側の人間か?

いや、考えすぎだ。

落ち着け。俺は取材に行くんだ。

被害者としてじゃなく、ジャーナリストとして。


外の景色がおかしい。

街灯が赤っぽく見える。

信号機の赤が、ドロッとした血の色に見える。

歩いてるサラリーマンが、肉の塊に見える。

腹が減った。

そういえば、丸二日何も食べてない。

コンビニの袋を持った女性が歩いてる。

その袋の中身じゃなくて、彼女の腕が美味そうに見える。

かぶりついたら、どんな音がするだろう。

「パキッ」かな。「ジュワッ」かな。


やめろ。

考えるな。

俺は人間だ。

まだ人間だ。

早く着いてくれ。

このままだと、俺はタクシーの中で理性を手放してしまいそうだ。

運転手の首筋にある太い血管が、ドクドクと脈打ってるのが見える。

あれを噛みちぎりたい衝動を抑えるのに必死だ。

自分の太ももをハンマーの柄で殴って気を逸らす。

感覚がない。

殴ってる音が、遠くで響いてるみたいだ。


【音声データ変換ログ:202X年5月29日 00:30】


団地の近くで降りた。

運転手は逃げるように去っていった。

料金を払う時、小銭に粘液がついちゃって、嫌な顔をされた。

「お大事に」って言われた。

皮肉か?

それとも、俺がもう助からないってわかってるのか?


Sヶ丘団地の入り口。

静かだ。

静かすぎる。

虫の声もしない。

いつもなら野良猫がいるゴミ捨て場にも、生き物の気配がない。

街全体が息を潜めて、俺が来るのを待っていたみたいだ。

(激しいノイズ)

ああ、聞こえる。

ここに来ると、頭の中のノイズがはっきりとした「音」に変わる。

心臓の鼓動と同期してる。

ドクン(ゴリッ)、ドクン(ゴリッ)。

団地全体が、巨大な心臓みたいに脈打ってる。


4号棟へ向かう。

公園のベンチ。

B婆さんがいつも座ってた場所。

誰もいない。

でも、ベンチの上に何かが置いてある。

近づいてみる。

……入れ歯だ。

総入れ歯が、ポツンと置いてある。

綺麗に揃えられた靴もある。

服も畳んである。

中身だけがない。

B婆さん、どこ行ったんだ?

「吸われた」のか?

あの穴に、中身だけチュルッと吸われたのか?


想像しただけで、口の中に唾が溜まる。

美味そうだと思ってしまった。

俺はもう駄目かもしれない。

早く終わらせないと。

あの壁を壊して、中にある「核」を潰さないと。

そうすれば、俺も元に戻れるはずだ。

B婆さんも、ミイも、俺の手も。


【音声データ変換ログ:202X年5月29日 00:50】


4号棟のエントランス。

郵便受けの前。

406号室のポストを見る。

「鈴木」の表札がなくなってる。

代わりに、ガムテープが貼られてて、マジックで何か書いてある。

字が汚くて読めない。

いや、これは日本語じゃない。

ミミズがのたうち回ったような、あるいは血管の図解みたいな模様だ。

これを見た瞬間、目から涙が出てきた。

悲しいんじゃない。

懐かしいんだ。

この模様を、俺は知ってる。

俺の細胞の一つ一つが、この模様を記憶してる。


階段を上がる。

一段一段が、柔らかい。

コンクリートの上を歩いてるはずなのに、内臓の上を歩いてるみたいな感触だ。

手すりがヌルヌルする。

錆(さび)じゃない。

壁から染み出してきた何かだ。

2階、3階。

空気が重い。

水圧がかかってるみたいだ。

耳抜きをしないと鼓膜が破れそうになる。

「ンッ、ンッ」

自分の喉を鳴らす音が、廊下に響く。

それが呼び水になったのか、上から音が降ってきた。


「……オカエリ……」


はっきり聞こえた。

複数の声が重なってる。

老人の声、子供の声、男の声、女の声。

全部混ざって、一つの意思を持った声になってる。

4階だ。

あそこが源だ。


足が勝手に動く。

逃げたいのに、体は喜び勇んで階段を駆け上がろうとしてる。

拒絶と渇望が同時に襲ってくる。

ハンマーを握る手に力が入らない。

バールが重い。

「助けてくれ」

口に出してみたけど、声にならなかった。

出てきたのは「ヒュウウウ」っていう、あの笛みたいな呼吸音だけだった。

俺の喉、どうなってるんだ?


【音声データ変換ログ:202X年5月29日 01:05】


4階に着いた。

405号室の前。

A君が住んでいた部屋。

ドアが開いている。

鍵がかかってないどころか、ドアそのものが歪んで、閉まらなくなってる。

中から明かりが漏れてる。

誰かいるのか?

A君か?

いや、あいつは逃げたはずだ。


覗いてみる。

(長い沈黙)

……なんだこれ。

部屋の中が、ない。

玄関のタタキから先が、全部「肉」で埋まってる。

ピンク色の、脈打つ肉の壁が、部屋全体を埋め尽くしてる。

404号室の壁を突き破って、405号室まで浸食してきてるんだ。

C氏の言ってた通りだ。

成長してる。


肉の壁の表面に、顔が埋まってる。

いくつもの顔。

苦悶の表情じゃない。

みんな、恍惚としてる。

あ、あれは……。

見覚えがある顔だ。

数日前に管理会社で会った、あの担当者Bだ。

それに、公園で見かけた作業着の老人。

みんな、ここに取り込まれてたのか。

彼らは「管理者」じゃなかった。

「予備の栄養分」だったんだ。


担当者Bの顔が、俺を見て笑った気がした。

まぶたがない目が、ギョロリと動いて俺を捉えた。

そして、肉の壁が裂けた。

担当者Bの口があったあたりから、縦に大きく裂け目ができて、中から新しい何かが顔を出そうとしてる。


ここが核心だ。

この裂け目の奥に、心臓があるはずだ。

ハンマーを構える。

体中の関節が悲鳴を上げてるけど、やるしかない。

これを叩き潰せば、終わる。

それとも、俺もあの一部になるのか。


おい、待て。

裂け目の中に見えるあれ。

あれは……。

鏡?

いや、違う。

あれは「俺」だ。

俺が、あの中にいる。

丸くなって、眠ってる俺がいる。

へその緒みたいな管が、俺の口に繋がってる。


そうか。

わかった。

俺は取材に来たんじゃない。

帰ってきたんだ。

俺はずっと前に、ここで生まれるはずだったんだ。

間違って外の世界に出ちゃっただけで、本当はここにいるべきだったんだ。


(激しい打撃音のようなノイズ)

(何かが崩れる音)

(濡れたものが落ちる音)


あー。

気持ちいい。

あったかい。

ハンマーなんかいらない。

手で触れるだけで、壁が受け入れてくれる。

指が溶けて、壁と混ざり合う。

境界線が消える。


(※ここから先は音声認識が正常に機能しておらず、意味不明な文字列が羅列されている)


あががががg

たべr

おいしi

まま

うmれなおs

ssssss


(最後に一言だけ、はっきりと認識された言葉がある)


ごちそうさまでした


【編集部注:追記】


この音声データは、翌日の早朝、Sヶ丘団地の4号棟4階の廊下で発見されたK氏のスマートフォンから回収されたものである。

発見者は新聞配達員だった。

彼は「異臭がする」と通報し、警察が駆けつけた。

スマートフォンは、405号室のドアの前に落ちていた。

液晶画面は粉々に砕け、内部の基盤が剥き出しになっていたが、奇跡的にデータはクラウドに同期されていた。


警察の発表によると、K氏本人の姿はどこにもなかったという。

ただ、405号室の前には、彼が持っていたと思われるハンマーとバール、そして衣服だけが残されていた。

衣服は、ボタンやファスナーを外した形跡がなく、まるで「中身が蒸発した」かのように、その場にへたり込んでいたそうだ。

そして、405号室のドア。

K氏の記録では「ドアが開いていて、中が肉で埋まっていた」とあるが、警察の実況見分調書によれば、405号室は「施錠されており、中は空室。長期間人が立ち入った形跡はない」とされている。


しかし、鑑識課員の一人が奇妙な報告をしている。

405号室と、その隣の「パイプスペース(旧404号室)」を隔てるコンクリート壁。

その壁に、人型の染みが浮き出ていたという。

まるで、誰かが壁に抱きついて、そのまま吸い込まれたかのような影が。


次回、K氏が失踪する直前にクラウドにアップロードしようとして失敗した、最後の音声ファイル(File_07)を公開する。

それは、彼が「肉の壁」と対峙した瞬間に、レコーダーが捉えていた「生の音」である。

文字起こしされた音声入力データとは異なる、真実の音がそこにあるはずだ。


(File_06 終了)

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