第5話:File_05_元住人・C氏からの手紙.pdf

【編集部注】


前話で触れた通り、K氏の自宅郵便受けに直接投函されたUSBメモリには、一つのPDFファイルと、数点の動画・音声データが格納されていた。

差出人は「C」と名乗る人物。

内容は、Sヶ丘団地4号棟403号室(404号室を挟んで反対側の隣室)にかつて居住していた際の記録である。

K氏は生前、この資料を「最も危険なパンドラの箱」と評していた。

ここには、古参住民のB氏が語った「祟り」や「信仰」といった情緒的なベールを剥ぎ取った、冷徹な観察記録が記されていたからである。


以下は、そのPDFファイル『観察報告書_ver2.0』の全文テキスト起こしである。


【文書データ:C氏からの告発文】


K様、はじめまして。

貴方がネット上で「音」の正体を探っているのを知り、接触を図りました。

結論から言います。

B婆さん(馬場という老婆)の話は半分正解で、半分は欺瞞です。

あの老人たちは、自分たちが何を守っているのか本当は理解していません。

彼らはあれを「土地の神様」か「悪霊」だと思い込み、供物を捧げることで鎮められると信じている。

そう思い込まなければ、精神が保てないからです。


しかし、私は違います。

私は元々、大学で海洋生物学を専攻していました。

あの部屋の隣に住んで半年、私は壁越しにあらゆる計測を行いました。

振動数、温度変化、音響解析。

その結果導き出された結論は、あれが「霊」などという曖昧な存在ではないということです。


あれは、巨大な「臓器」です。

あるいは、「孵卵器(インキュベーター)」と呼ぶべきかもしれません。


私は403号室に入居した当初、貴方が取材したA君と同じように、不快な咀嚼音に悩まされました。

しかし、私の部屋(403)と404号室の間にある壁は、A君の部屋(405)側よりも薄かったようで、より鮮明な「生態」を観察することができました。


貴方は404号室が「コンクリートで埋められている」と聞かされたでしょう?

それは事実ですが、正確ではありません。

完全に埋められているなら、音など響くはずがない。

私は非破壊検査に使われる聴診機器を壁に当て、内部の構造を探りました。

その結果、コンクリートの中に、血管のように張り巡らされた無数の「空洞」が存在することが判明しました。

まるで蟻の巣です。

そしてその中心部、かつて居間だったと思われる空間に、直径2メートルほどの巨大な空洞があり、そこに「核」となる何かが鎮座しています。


私が「臓器」と呼ぶ理由は、その活動サイクルにあります。

あれは24時間常に食べているわけではありません。

明確な「消化」と「排泄」、そして「成長」のサイクルがあるのです。


思い出してください。

A君は、音の種類が変わったと言っていましたね。

最初は「ゴリッ、ゴリッ」という硬い音。

次に「ジュルッ、ジュルッ」という液体を啜る音。

そして最後に「言葉」のような音。


これは、捕食行動ではありません。

「変態(メタモルフォーゼ)」の過程です。


第一段階:破壊期

「ゴリッ」という音は、コンクリートの壁を内側から削り、自身の居住空間を拡張している音です。それと同時に、どこからか運ばれてきた「固形物」を砕いています。


第二段階:溶解・吸収期

「ジュルッ」という音。砕いたものを消化液で溶かし、体内に取り込んでいます。この時期、換気扇やコンセントの隙間から、あの特有の甘ったるい腐臭が強くなります。これはタンパク質が変質する時の臭いです。


第三段階:擬態・学習期

ここが最も重要です。

あれは、単に大きくなろうとしているのではありません。

「人間」になろうとしているのです。

壁越しに聞こえる生活音、話し声、テレビの音声。

それらすべてを「教材」として吸収し、声帯を震わせる練習をしているのです。

A君が聞いた「言葉」は、偶然ではありません。

あれは、こちらの反応を試しているのです。


私がこの団地を逃げ出した決定的な理由は、406号室の住人「鈴木」の正体を知ってしまったからです。

B婆さんは「鈴木のチャイムに応答するな」と言いましたね。

当然です。

406号室に、人間は住んでいません。

あそこは、404号室の「メンテナンスルーム」です。


同封した動画ファイル『Video_04.mp4』を見てください。

これは私が退去する前夜、ベランダ越しに決死の覚悟で406号室の窓を撮影したものです。

カーテンの隙間から、中の様子が映っています。


見ていただければ分かりますが、406号室の床には、太い黒いパイプが這っています。

そのパイプは壁を貫通し、404号室へと繋がっている。

そして、部屋の中にいる「鈴木」と呼ばれる人物。

彼は、人間ではありません。

少なくとも、中身は違います。

動画の1分20秒あたりに注目してください。

彼が腕をまくり上げた時、皮膚の下で何かが蠢いているのが見えます。

そして、彼の顔。

一瞬だけ振り返ったその顔には、目も鼻もありませんでした。

ただ、口だけがあった。

耳まで裂けた巨大な口が、笑っていたのです。


Sヶ丘団地4号棟は、人間が住む場所ではありません。

あそこは、404号室の中身を育てるための「殻」です。

そして住民たちは、知らず知らずのうちに「音」や「生気」という餌を与えさせられている家畜です。


Kさん、貴方はもう、あれに「認識」されています。

A君の音声データを聞いた時点で、貴方の脳内には「回路」ができてしまった。

B婆さんが言った「糸電話」というのは、あながち間違っていません。

あれは音波を通じて、貴方の聴覚野に寄生します。


最近、幻聴が聞こえませんか?

体のどこかに、覚えのない痣(あざ)や湿疹ができていませんか?

それはアレルギー反応ではありません。

貴方の体が、あれを受け入れるための「作り変え」を始めているのです。


逃げてください。

音のしない場所へ。

と言いたいところですが、もう手遅れかもしれません。

USBメモリの最後のファイル『Simulation.wav』は、私が計算で導き出した、あれが「孵化」した時のシミュレーション音声です。

これを聞けば、管理会社があれほど必死に封鎖を続ける理由がわかるでしょう。

あれが外に出たら、この街は終わりです。


Cより


【K氏の取材メモ:添付ファイルの検証】


手が震えて、キーボードがうまく打てない。

C氏から送られてきた動画『Video_04.mp4』を確認した。

画質は粗いが、内容は彼の記述通りだった。

406号室の中、薄暗い部屋で、作業服を着た男が立っていた。

彼は、壁から伸びる太いホースのようなものを抱え、それを愛おしそうに撫でていた。

そして、彼がこちら(カメラ)に気づいて振り向いた瞬間。

顔の中心に、縦に亀裂が入った。

そこで映像は乱れ、途切れている。


もう一つの音声ファイル『Simulation.wav』。

再生しようとマウスカーソルを合わせたが、どうしてもクリックできない。

本能が拒絶している。

ファイルサイズが異常に大きい。音声データなのに、数ギガバイトもある。

これには、音声以外の何かが組み込まれている気がしてならない。


【K氏の日記:202X年5月28日】


体調が最悪だ。

腕にできた湿疹が広がっている。

最初は赤い斑点だったものが、今は黒く変色し、触るとヌルヌルする。

皮膚科に行ったが「原因不明の皮膚炎」と言われ、ステロイドを処方されただけだった。

薬を塗ると、傷口が「チリチリ」と音を立てて痛む。

まるで、薬を塗られるのを嫌がって暴れているみたいに。


そして、ミイ(猫)のことだ。

あの日以来、ミイは押し入れから出てこない。

食事も水も摂っていないはずなのに、衰弱している様子がない。

むしろ、体が大きくなっている気がする。


昨夜、勇気を出して押し入れを開けてみた。

懐中電灯で奥を照らす。

ミイは、衣装ケースの上で香箱座りをしていた。

こちらに背を向けている。


「ミイ」

名前を呼ぶと、ゆっくりと首が回った。

180度。

真後ろまで。

猫の骨格ではありえない角度だ。

そして、その顔を見て、私は悲鳴を上げて尻餅をついた。


ミイの顔は、いつもの愛らしい猫の顔ではなかった。

目があるべき場所に穴が空き、そこからピンク色の肉芽のようなものが飛び出していた。

口元はだらしなく緩み、涎(よだれ)が糸を引いている。

その涎が床に落ちると、「ジュッ」と煙が上がった。


『……オ、ソ、イ……』


ミイの口からではない。

ミイの腹の中から、くぐもった声が聞こえた。

あの声だ。

405号室の壁越しに聞いた、あの低い唸り声。


「遅い? 何が?」

私は狂ったように問いかけた。


『……エ、サ……』


そこで私は意識を失ったらしい。

気づくと朝だった。

押し入れは閉まっており、ガムテープで目張りされていた。

誰がやったんだ? 私か?

記憶がない。

自分の手が、ガムテープの粘着剤でベタベタしていた。

そして、爪の間に、黒い泥のようなものが詰まっていた。


C氏の手紙にあった「孵卵器」という言葉が頭を離れない。

404号室は親機で、私の部屋にいるミイは子機なのか?

それとも、私自身も……?


鏡を見るのが怖い。

今朝、歯を磨いている時、口の中から「ジャリッ」と音がした。

吐き出すと、砕けた歯の欠片と、コンクリートの粉のようなものが混じっていた。


もう、家にいられない。

でも、外に出るのも怖い。

街中の音が、全部「あれ」の咀嚼音に聞こえる。

電車の音も、人の話し声も、工事現場の音も。

世界中が、私を食べるために口を開けているように感じる。


唯一の解決策は、発生源を叩くことだ。

C氏は「逃げろ」と言ったが、もう逃げ場はない。

あの団地に戻るしかない。

404号室。

あの「壁」を壊して、中の核を確認する。

そうすれば、この呪縛から解き放たれるかもしれない。

あるいは、自分が何になってしまったのか、答え合わせができるかもしれない。


準備をする。

ホームセンターでハンマーとバールを買ってきた。

それと、高性能な集音マイクとレコーダー。

ライターとしての最後の矜持だ。

私が何を見て、何を聞いたのか。

それを記録に残さなければ、私はただの「行方不明者」として処理されてしまう。

それだけは避けたい。


今夜、決行する。

深夜2時。草木も眠る丑三つ時。

いや、あの団地においては、住人が眠り、あの音が最も活発になる「食事の時間」だ。


(File_05 終了)

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