第2話:File_02_依頼人・A氏へのインタビュー.mp3
【編集部注】
K氏は、前回のログに残されたスレッドの投稿者(以下、A氏とする)に対し、SNSおよび掲示板の個人メッセージ機能を駆使して接触を試みた。
当初、A氏は一切の取材を拒否していたが、「貴方が聞いた音と同じものを、私も過去に耳にしたことがあるかもしれない」というK氏の(嘘か真か不明な)メッセージに対し、興味を示して返信を寄せた。
本ファイルは、202X年5月20日、A氏の転居先であるアパートで行われたインタビューの録音データを文字起こししたものである。
なお、A氏の精神状態に配慮し、インタビューは断続的に行われた。文中にある(※)は、録音の中断や、K氏による補足説明を示している。
【K氏の取材メモ:訪問時の状況】
指定された住所は、Sヶ丘団地から電車で三駅ほど離れた、築浅の木造アパートだった。
A氏は大学を休学中とのことだった。
インターホンを鳴らしてからドアが開くまで、約5分を要した。
その間、ドアの向こうで何度もチェーンロックを確認する音や、覗き穴からこちらの様子を伺う気配がした。
現れたA氏は、二十代前半と思われるが、実年齢よりかなり老けて見えた。
頬はこけ、眼窩がくぼみ、極度の睡眠不足であることは明白だった。
特筆すべきは、彼の耳だ。
彼は業務用と思われる巨大なイヤーマフを装着していた。
私の声が聞こえているのか不安になったが、彼は私の顔を確認すると、無言で招き入れた。
部屋の中は、奇妙なほど物がなかった。
引っ越してきたばかりということを差し引いても、生活感が希薄だ。
カーテンは二重に閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。
そして、部屋の中央にあるローテーブルの上には、大量の「ウィダーインゼリー」や「流動食」のパウチが散乱していた。
固形物が一つもない。
その異様な光景に、私は一瞬言葉を失った。
【音声ファイル再生:File_02_Main.mp3】
(録音開始時のノイズ。衣擦れの音。A氏がイヤーマフを外し、首にかける音)
K氏:……このたびは、取材を受けてくださりありがとうございます。ライターのKです。
A氏:……どうも。
K氏:体調はいかがですか? かなり痩せられたようですが。
A氏:見ればわかりますよね。食べられないんです。
K氏:食べられない、というのは? 喉を通らないということでしょうか。
A氏:いいえ。「音」がするからですよ。
K氏:音?
A氏:噛む音です。咀嚼音。自分が何かを噛むとき、骨を通じて頭蓋骨に響くでしょう? 「ガリッ」とか「クチャッ」とか。あの音が、あの夜聞いた「壁の向こうの音」とリンクしちゃうんです。自分が何かを食べているはずなのに、気づくと、壁の向こうの「あれ」が食事をしている光景がフラッシュバックして……吐いてしまう。だから、噛まなくていいものしか喉を通らない。
K氏:なるほど……。それは辛いですね。
A氏:同情はいりません。ただ、聞いてほしいだけです。誰かに伝えないと、僕の頭がおかしくなったことになっちゃうから。
K氏:ええ、そのために来ました。貴方の身に起きたことを、順を追って話していただけますか。あの掲示板に書き込んだ、最後の夜のことを。
(A氏が深く息を吸う音。ペットボトルの水を飲む音がする)
A氏:あのスレを立てた夜、僕は本当に逃げるつもりでした。財布とスマホを持って、玄関に向かったんです。でも、玄関のドアノブに手をかけた瞬間、聞こえたんです。
K氏:何が聞こえたのですか?
A氏:外の廊下からです。湿った足音。「ペタッ、ペタッ」っていう、濡れた雑巾を床に叩きつけるような音。それが、僕の部屋の前で止まりました。
K氏:誰かが、ドアの前に立っていた?
A氏:はい。最初は管理会社の人か、警察かと思いました。でも、気配が違う。ドア一枚隔てた向こう側から、強烈な臭いが漏れ出してくるんです。掲示板にも書いた、あの甘ったるい腐臭です。それがドアの隙間から侵入してきて、鼻の奥にこびりつく。
K氏:それで、ドアスコープを覗いたんですね。
A氏:……覗かなきゃよかった。覗き穴の向こうは、真っ暗でした。夜だから暗いのは当たり前なんですけど、廊下の常夜灯の明かりさえ見えない。何かが、覗き穴を外側から塞いでいたんです。
最初は手で塞がれているのかと思いました。でも、違った。
「ヌルッ」って動いたんです。塞いでいるものが。
そこで気づきました。ああ、これは皮膚だ、って。誰かが顔をドアに押し付けて、覗き穴を覗き返しているんだって。
K氏:あのスレッドにアップロードされた画像のことですね。解析したところ、眼球のように見えましたが。
A氏:ええ、目でした。でも、白目がブヨブヨしていて、瞳孔が縦に裂けていた。人間じゃない。もっとこう、深海魚みたいな質感の……。
そいつと目が合った瞬間、頭の中に直接、音が響いたんです。
「ミツケタ」
言葉じゃない。音の振動が、そう翻訳されたみたいな感覚でした。
腰が抜けて、その場にへたり込みました。
そしたら、ドアの向こうから、あの音が始まったんです。
(A氏の声が震え始める)
A氏:ガリッ、ゴリッ、バキッ。
骨を砕く音。肉を引きちぎる音。
それが、さっきまで聞こえていた隣の部屋(404号室)からじゃなくて、玄関のドアのすぐ向こうで鳴り響き始めた。
まるで、ドアの前に「餌」を置いて、そこで食事を始めたみたいに。
僕は恐怖で動けなくて、朝まで玄関のたたきで震えていました。
K氏:朝になって、音は止んだのですか?
A氏:はい。スズメの鳴き声が聞こえ始めた頃、フッと気配が消えました。
恐る恐るドアを開けたら、誰もいませんでした。
ただ、ドアの前のコンクリートの床に、黒いシミが残っていました。
油みたいな、粘着質のシミです。
それを見て、もう無理だと思いました。
荷物をまとめる余裕もなく、そのまま逃げ出して、ホテルに泊まって、不動産屋に駆け込みました。親に借金して、今の部屋を借りました。
K氏:警察には?
A氏:言えるわけないでしょう。隣人が化け物でしたなんて言っても、薬物検査されて終わりです。
(沈黙。K氏がメモを取るペンの音が響く)
K氏:……それで、例の「録音」についてですが。お持ちなんですよね?
A氏:……聞きますか?
K氏:そのために来ました。
A氏:後悔しますよ。これを聞いてから、耳鳴りが止まないんです。医者に行っても異常なしって言われるけど、常に頭の奥で、あの音が鳴ってる気がする。
K氏:構いません。お願いします。
A氏:……わかりました。スマホのボイスレコーダーに残っています。
あの夜、掲示板に書き込む前に、証拠として録ったものです。壁にスマホのマイクを押し当てて録音しました。
(スマートフォンの操作音。再生ボタンが押される)
【再生中の音声データ:rec_202X0512.m4a】
(冒頭、強烈なホワイトノイズ。「サーッ」という空気音の後ろで、低周波の唸りのような音が持続している)
(10秒経過地点)
音:……ゴリッ……ゴリッ……
(K氏の注釈:非常に硬質な、岩石同士を擦り合わせたような音。あるいは、乾燥した太い骨を万力で締め上げるような音に近い)
音:……ジュルッ……チュッ……
(K氏の注釈:粘度の高い液体を啜る音。音の距離感が極めて近い。壁の向こうというより、マイクのすぐ横で鳴っているように錯覚する)
音:……(不明瞭な呟き)……
(K氏の注釈:人の声らしきものが混じる。低い、男性とも老婆ともつかない声。言葉として聞き取ることは困難だが、抑揚がついている)
音:……タリナイ……
音:……アケルナ……
音:……マダ、タリナイ……
(K氏の注釈:音量を最大にして繰り返し聞いた結果、上記のように聞こえた。しかし、A氏は「そんな言葉は聞こえない」と証言している。聞こえ方に個人差があるのか?)
音:バキィッ!!
(突然、何か巨大な質量のあるものが破壊される破裂音。録音レベルが振り切れ、音が割れる)
音:ヒュウウウウウウウウ……
(細く、鋭い笛のような呼吸音。これが30秒ほど続き、プツリと録音が途切れる)
【インタビュー再開】
(再生終了。K氏が大きく息を吐く音)
K氏:……これは、凄まじいですね。
A氏:でしょう? これが、一晩中続くんです。
……Kさん、さっきの音の中に、声みたいなのが聞こえませんでしたか?
K氏:ええ。「タリナイ」と言っているように聞こえました。
A氏:……やっぱり。僕には別の言葉に聞こえたんです。
K氏:何と聞こえたのですか?
A氏:「オマエダ」って。
お前が足りない、お前を食べる、って言われてる気がして……。
(A氏が激しく咳き込む。過呼吸のような荒い呼吸音)
すいません、止めてください。これ以上聞くと、また吐き気が。
K氏:わかりました。もう結構です。
最後に一つだけ確認させてください。
貴方が住んでいた405号室の、そのまた隣、406号室の住人とは接触しましたか?
404号室(本来あるべき空洞)を挟んで反対側の403号室ではなく、反対側の隣人です。
A氏:あ……そういえば。
406号室、表札は「鈴木」ってなってましたけど、一度も会ったことないです。
でも、変なことがありました。
僕が引っ越してきた当初、挨拶に行こうと思ってチャイムを鳴らしたんです。
そしたら、中から返事はなくて、代わりにテレビの音が大音量で聞こえてきたんです。
バラエティ番組の笑い声。
でも、それが不自然で。
まるで「中の音をかき消すため」に、わざと大きな音を出してるみたいな……。
もしかしたら、406号室の人も、何かを聞いていたのかもしれません。あるいは……。
K氏:あるいは?
A氏:406号室の人なんて、最初からいなかったのかもしれない。
「鈴木」なんてよくある苗字の表札をかけて、人が住んでるように見せかけてるだけで。
あのフロア全体が、404号室の「何か」を管理するための……檻(おり)みたいな場所だったんじゃないかって。
K氏:……興味深い推察です。
A氏:Kさん、これからあそこに行くつもりですか?
K氏:ええ、そのつもりです。
A氏:やめたほうがいい。絶対に行かないでください。
あの音を聞いてしまった人間は、マーキングされてます。
僕も、そしてこれを今聞いた貴方もです。
あそこに行けば、今度は貴方が「餌」になりますよ。
K氏:ご忠告、感謝します。ですが、仕事なもので。
A氏:……そうですか。
じゃあ、これ、持っていってください。
(ガサゴソと何かを取り出す音)
K氏:これは……お守りですか?
A氏:気休めかもしれませんけど、地元の神社でもらったやつです。
あと、これ。僕が調べた、あの団地の古い地図のコピーです。
図書館の郷土資料室で見つけました。
団地ができる前、あそこが何だったか知ってますか?
K氏:いいえ。
A氏:「井戸」があったんです。ただの水汲み場じゃない、もっと大きな、すり鉢状の穴が。
地図には「拝み井戸」って書いてありました。
何のためにあったのかは分かりません。
でも、4号棟の404号室の位置……そこは、ちょうどその「拝み井戸」の真上に当たるんです。
K氏:貴重な資料をありがとうございます。必ず役に立てます。
【K氏の取材メモ:インタビュー後記】
A氏の部屋を辞去したのは、夕方だった。
帰り際、彼は玄関のドアチェーンをかけたまま、隙間からじっとこちらを見つめていた。
その目は、あの画像にあった「のっぺらぼうの目」と同じくらい、生気を失っていた。
彼から提供された音声データを、帰りの電車の中でイヤホンで聞き直してみた。
やはり、不快だ。
単なる騒音ではない。脳の奥にある、原始的な恐怖を司る部分を直接撫で回されるような感覚。
そして、A氏が言っていた「言葉」の違い。
私には「タリナイ」と聞こえ、彼には「オマエダ」と聞こえた。
これは録音された音が変化しているのではなく、聞く人間の深層心理に感応しているのではないか。
だとしたら、読者諸氏にはどう聞こえるだろうか?
もし、全く別の言葉が聞こえたという方がいたら、編集部まで連絡をいただきたい。
A氏から託された古地図を見る。
「拝み井戸」。
奇妙な名前だ。井戸とは本来、水を汲むためのものだ。拝む対象ではない。
あるいは、そこには「水以外のもの」が溜まっていたのではないか。
住民たちは、その井戸に何を捨て、何を拝んでいたのか。
次回の更新では、問題のSヶ丘団地を管轄する管理会社、および自治会への接触を試みる。
「存在しない部屋」について、彼らが何を隠しているのか。
公式の記録と、住民の証言の矛盾を突き崩していきたいと思う。
最後に。
取材から帰宅して以来、私の部屋でも奇妙な音がし始めた。
冷蔵庫の裏、あるいは壁の隙間から。
「カリ……カリ……」という、小さな音が。
ネズミだろうか。そう思いたい。
だが、うちの猫が、壁の一点を凝視したまま、威嚇の声を上げ続けているのが気がかりだ。
(File_02 終了)
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