第5話 損益分岐点《ブレーク・イーブン》の向こう側

(……計算が、間違っていたんだ)


 夢を見ていた。

 鉄と油の臭いがしない、消毒液と線香の匂いがする夢だ。

 まだレンが学生だった頃。ただの真面目な工学生で、「狂気」を知らなかった頃の記憶。


(ボルトの強度が0.1%足りなかった。たったそれだけの誤差エラーで、あの橋は落ちた)


 瓦礫の山。サイレンの音。そして、二度と戻らない数字(いのち)。

 世界は残酷なほど物理法則に従順だ。祈りも叫びも、運動方程式の前では何の意味も持たない。

 だから、計算しなければならない。

 二度と、大切なものを「計算ミス」で失わないために。


「……ッ!」


 レンは短い呼気と共に覚醒した。

 ガタン、ゴトン。規則的な振動が背中を揺らしている。

 目を開けると、そこは見慣れた薄暗い医務室――というより、機材倉庫の隙間に作られた簡易ベッドの上だった。


「……お目覚めか、吸血鬼殿」


 皮肉げな声が降ってくる。

 艦橋への連絡通路に、レオンが立っていた。手には泥水のように黒いコーヒーが入ったマグカップを持っている。


「状況は」

 レンは上体を起こそうとして、軽い目眩に襲われた。左腕が包帯でグルグル巻きに固定されている。血管直結の痕だ。

「寝てろよ。失血で1リットルも抜いたんだぞ。普通の人間ならショック死してるレベルだ」

「質問に答えろ、レオン」

「……チッ。順調だよ。お前の『劇薬』のおかげでエンジンは快調だ。泥沼エリアは抜けた。今は第三階層、岩石砂漠地帯を巡航中だ」


 レオンはコンソールを顎でしゃくる。

 モニターには、比較的安定した地盤と、規則正しく敷設されていくレールが映っていた。

 循環効率も99%近くまで回復している。


「レールの敷設精度も上がっているな。……お前が調整したのか?」

「暇だったからな。お前のクソ細かい計算式(マニュアル)を読んで、射出角を0.5度修正した。文句あるか?」

「いや……いい仕事だ。修正値を記録(ログ)しておけ」


 レンが素直に認めると、レオンは決まり悪そうに鼻を鳴らした。

 かつてはレンのやり方を「野蛮」と罵っていたエリート技師が、今はその野蛮なシステムを必死に維持している。

 共犯関係が、板につき始めていた。


「レン君!」


 バタバタと足音がして、ユナが駆け込んできた。その手には、高カロリーのレーション(保存食)と鉄分サプリメントが載ったトレイがある。

「ダメだよ起きちゃ! まだ顔色が真っ白だもん!」

「休んでいる時間はない。……ユナ、炉心の調子はどうだ。魔力回路に傷はついていないか」

「私の心配より自分の心配をしてよ!」


 ユナは涙目で怒った。

「あんな……あんな無茶苦茶なことさせて。私の魔力でレン君の血管を焼くなんて、もう二度と嫌だからね」

「必要経費(コスト)だ。お前が無事なら、それで収支は合う」

「合わない! レン君が痛いのは、私が痛いのより嫌なの!」


 ユナはレンの包帯にそっと触れる。その指先からは、冷え切ったレンの体を温めるような、優しい微熱が伝わってきた。

 レンはふと、夢の中の冷たい瓦礫を思い出した。

 計算ばかりしていた人生。だが、この温かさだけは、どんな計算尺でも測れない気がした。


「……善処する」

「もう、絶対だからね」


 束の間の平穏。

 だが、この世界はそんな甘い時間を許してはくれない。


 ビーッ! ビーッ!


 突如、艦橋に近接警報アラートが鳴り響いた。

 それも、魔獣の襲撃を告げる荒々しい音ではない。冷徹で、機械的な警告音だ。


「なんだ!? 魔獣反応じゃない……これは高エネルギー体の接近警報!?」

 レオンがモニターに飛びつく。

 通信士のミルが、震える指でキーボードを叩く。


「前方12時方向より接近! 速度……速い! 時速200キロ以上! こちらの倍以上の速度です!」

「馬鹿な、この悪路で200キロだと!? 空でも飛んでるのか!?」

「いいえ……地に足を、レールをつけて走っています!」


 モニターの映像がズームされる。

 砂塵の向こうから現れたのは、生物的な不潔さが一切ない、洗練された「銀色の矢」だった。

 流線型の美しい装甲。音もなく回転する車輪。そして、車体の周囲に展開された幾重もの幾何学的な魔法障壁(シールド)。

 レンたちの継ぎ接ぎだらけの『グランド・スラム号』とは対極にある、完全無欠の要塞列車。


「あれは……」

 レンが呻く。

 知識としては知っている。神域の最深部を守るとされる、古代文明の自律型防衛システム。


神域守護列車アイギス。……神域の番犬だ」


 ズドンッ!!

 挨拶代わりの砲撃が、グランド・スラム号の直近に着弾した。

 爆風で車体が大きく傾く。


「シールド展開率100%……物理攻撃無効化!? 冗談だろ、あんな綺麗な列車が、なんでこんな荒野を走れるんだ!」

 レオンが叫ぶ。

 レンは血の気のない顔で、だが鋭く敵を見据えた。


「奴はレールを回収しない。奴自体が、空間に干渉して『見えないレール』を作りながら走っているんだ。無限の魔力と、完全な演算能力で」


 それは、レンが目指し、決して届かなかった理想の姿。

 「計算ミス」をしない、完璧な機械神。


「来るぞ。……ただの獣狩りじゃない。これは『戦争』だ」


 銀色の死神が、ゆっくりと砲塔をこちらへ向けた。

 損益分岐点を超えた先。

 そこで待っていたのは、払いきれないほどの赤字(ぜつぼう)だった。

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