第3話 強制空冷《ラム・エア》の代償
「
航空技師レオンの高笑いが、轟音の中に響く。
『グランド・スラム号』は、かつてない速度で泥の海を滑走していた。
側面に強引に括り付けられたジェットエンジンが、断末魔のような叫び声を上げながら、氷点下の暴風を吐き出し続けている。
シュゴオオオオッ!!
猛烈な風圧が、射出されたばかりの赤熱したレールを叩く。
本来なら自然冷却に数十分かかる熱量が、わずか数秒で奪われる。黒く硬化した鋼の上を、車輪が軽快に駆け抜けていく。
「後ろの崩壊領域を振り切ったぞ! 泥沼(マッド)ごときに、俺のエンジンが負けるかよ!」
「……調子に乗るな。レールの接合部に0.5ミリのズレがある。風圧が強すぎるんだ」
浮かれるレオンに対し、レンは冷水を浴びせるように淡々と指摘した。だが、その口元はわずかに緩んでいる。
計算上の「死線」は超えた。この速度なら、
そう思われた、矢先だった。
「……ん?」
レンの鼻が、異臭を捉えた。
鉄と泥の臭いに混じって漂う、鼻を刺すような刺激臭。何かが焦げ付く、脂っこい臭いだ。
「レオン、エンジンの油圧計を見ろ」
「あ? 油圧ならさっき確認したばかりだ。正常値……なっ!?」
レオンがコンソールを凝視し、絶句する。
緑色で安定していたはずのグラフが、不気味な乱高下を繰り返していたのだ。
ドシュッ……バシュッ……!
エンジンの回転音が、スムーズな高音から、痰が絡んだような濁った音へと変わる。
排気口から吐き出される風が、白からどす黒い灰色へと染まっていく。
「おい、排気が黒いぞ! 冷却風が止まる!」
エリスの悲鳴。
その直後、ジェットエンジンの咆哮が、プスン、という情けない音と共に唐突に途絶えた。
「停止(フレームアウト)した!? なんでだ、燃料はまだあるぞ!」
レオンが必死に再始動スイッチを叩くが、エンジンは沈黙したままだ。
冷却を失ったレールは、再び赤熱した飴細工へと戻り、泥の中へと沈んでいく。
ガガガガガッ!!
激しい振動。急減速。
「総員、衝撃防御! 沈下するぞ!」
レンが叫ぶと同時に、車体が泥の沼へとめり込んだ。推進力が失われ、列車は重たい鉄の棺桶と化す。
「原因はなんだ! 焼き付きか!?」
「いや、温度はそこまで上がってない……まさか!」
レオンはメインモニターに「循環系統図」を呼び出した。
そこには、絶望的な警告が表示されていた。
『警告:冷却オイル循環不全(サーキュレーション・エラー)。配管閉塞率99%』
「閉塞だと……? そんな馬鹿な、フィルターは新品だぞ!」
「……空と地面の違いだ」
レンが呻くように言った。
「あのエンジンは、高度1万メートルの清浄な空気を吸うように設計されている。だがここは泥と硫黄の粉塵が舞う地獄だ」
レンは壁を叩いた。
「吸い込んだ不純物が、高温になったエンジンオイルと混ざり合ったんだ。微細なゴミと劣化した油が結合し、高粘度の
人間で言えば、動脈硬化と血栓が同時に起きた状態だ。
冷却液(オイル)が回らなければ、エンジンはただの鉄屑だ。そして、レールを冷やす手段も失われる。
「レオン、配管をバラして掃除するのに何分かかる?」
「……今のヘドロの硬度じゃ、配管ごと交換しなきゃ無理だ。分解清掃(オーバーホール)だけで最低でも3時間はかかる!」
「3時間? ふざけるな!」
通信士のミルが、顔面蒼白で叫んだ。
「3分も持たないわよ! 後ろを見て!」
後方モニター。
一度は引き離したはずの「空間崩壊」の波が、減速した列車をあざ笑うかのように猛スピードで迫っていた。
さらに悪いことに、機関室のユナから悲痛な通信が入る。
『レン君、熱が……熱が逃げないの!』
「なんだと?」
『あのエンジン、列車の放熱器(ラジエーター)とも直結してるでしょ!? 循環が止まったから、私の魔力熱も捨てられない! 炉心温度、限界突破するよぉ!』
冷却系の全停止。それはレールの硬化不全だけでなく、動力源であるユナ自身の自壊(メルトダウン)を意味していた。
ピーーッ! ピーーッ!
艦橋中が赤色の警報ランプに染まる。
「炉心融解まで、あと60秒!」
ミルのカウントダウンが、死刑宣告のように響く。
列車は泥に足を取られ、後ろからは虚無が迫り、内側からは爆熱が膨れ上がる。
詰み(チェックメイト)だ。
物理的にも、時間的にも、解決策はない。
「くそっ、何かないのか! あのガチガチに固まったヘドロを、一瞬で溶かせるような強力な溶剤は!」
レオンが髪を掻きむしりながら、備品リストを検索する。
「洗浄液、シンナー、酸……だめだ、どれも威力が足りない! 配管を溶かさず、中のヘドロだけを分解する都合のいい薬品なんて……!」
艦橋に絶望的な沈黙が落ちる。
だが、レンだけは違った。
彼は静かに目を閉じ、頭の中で元素記号と化学式を組み立てていた。
(……ある。ここにある有機物と、ユナの高濃度魔力を反応させれば……特殊な
レンは目を開き、腰のナイフを抜いた。
その視線は、自身の左腕の血管へと向けられていた。
「レオン。点検孔を開けろ」
「は? 何をする気だ」
「溶剤ならある。……ここに、約5リットルほどな」
レンは袖をまくり上げ、浮き出た動脈を指先で弾いた。
その瞳には、再びあの狂気的な合理の光が宿っていた。
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