太陽に憧れたたんぽぽの話




「ねえスミレ、恋と憧れの違いってなんだと思う?」



 そんなことを親友に尋ねる私はあの人にとってお子さまなのだろうか。親友からの返事を待ちながら私はあの人のことを考える。太陽みたいなあの笑顔を。頼んだ紅茶はとっくにぬるくなっていた。


 私には気になる人がいる。あくまで気になる人。だからきっとこの気持ちは憧れだ。



***



「よし、オッケー!また一段と可愛くなっちゃったね、杏子(あんず)ちゃん」


 あたたかな昼下がり、陽の光が満ちる美容室リアンで今日も私は魔法にかけられる。


「えへへ、いつもありがとうございます!撫子(なでしこ)さん」


 鏡越しに太陽のような笑顔で「どういたしまして」と返すその人こそ私の気になる人だ。金髪ショートのお姉さん。甘いものが好きで散歩が趣味、猫が好き。私が撫子さんについて知っているのはそれくらいのことだ。自分で考えていてちょっぴり切なくなる。


 私は思う、美容師さんはずるい。普通の人ならドキドキしちゃうような距離感でも真剣な顔で可愛くなる魔法をかけてくる。髪に触れるなんて友達同士でもふだんからすることではないと思う。それが仕事だから撫子さんにとっては当たり前だということもわかっているけれど、いつだってその距離に私がドキドキしていること、どうか撫子さんは気づいていませんように。


 お会計を終えて預けていたコートとマフラーを身にまとう。そんな私を見ていた撫子さんが突然なにかを思い出したように「あ、ちょっと待ってて!」とバックヤードに駆けていく。なにか忘れ物でもしていただろうかとしばらく待っていると何やら嬉しそうな顔をして撫子さんは戻ってきた。その手には可愛らしいラッピングの小袋が握られている。


「バレンタイン近いから、もしよかったら!」


 そう言って手渡された小袋を見ると、近所に最近できた洋菓子店のクッキーの詰め合わせだった。まさかバレンタインのプレゼントをもらえるとは思っておらず、あまりの嬉しさに自分にしっぽが生えていたらぶんぶん振っているのが見えていただろう。


「わあ、嬉しい!あ、このお店気になってたんです。ありがとうございます!」


「ほんと?よかったあ」


 満足げに笑っていた撫子さんの切れ長な瞳が私の頬で視線を止めた。



「あ、髪の毛ついてる。ちょっとじっとしててね」



 突然のことで言われるがまま、というよりは動けなかった私の頬に撫子さんの細い指が触れた。


 その瞬間、ふわりとこの季節らしくないさわやかな香りが鼻をかすめた。これは......檸檬の香り。太陽みたいな撫子さんにぴったりな香りだった。


「はい、取れた」


 指が触れたのは一瞬のことだったが、その香りは鼻の奥に残って私の心の底に日だまりをつくったのだった。


「あ...ありがとうございます」


 我ながらぎこちない言い方だったと思う。まともに目も合わせられないままに別れを告げて美容室をあとにした。さすがに今日は色々ありすぎた。


 撫子さんはいつもそうなのだ。人の心にするりと入り込んでぽかぽかとあたためてくれる。それが時々私にはあたたかすぎて胸が熱くなってドキドキしてしまうのだけれど。


 駅のトイレで鏡を見ると私のほっぺたは赤ちゃんみたいに紅かった。ああ、こんな子どもっぽい私じゃ撫子さんのとなりは似合わない。


改めて自分の顔を見る。もう夕方だけどまつげはくるんと上がっていた。美容室に行く前はまつげを入念に上げる、前に撫子さんが「杏子ちゃんまつげ長くてうらやましい!」とほめてくれたから。でも今はそのことにとらわれていることすら子どもっぽくてため息が出た。



***



「美容室に行くための服を買いに行くってなに?」


 スミレはあきれて笑いながらも私の買い物に付き合ってくれた。


 スミレとは大学の文芸サークルで出会った。猪突猛進な私とは正反対、慎重で計画的な彼女にはいつも助けられてきた。



「で、どんな服がほしいの?」


「うーん、大人っぽい感じかなあ」


 撫子さんの隣に似合う感じ。本当はそう答えたかったけどさすがに恥ずかしくてやめた。それにスミレは撫子さんとは面識もない。


「大人っぽい感じねえ」


 私より少し背の低いスミレだが、長い黒髪を耳にかけてショッピングモールの案内板を指差しながら思案する姿はとても大人っぽい。スミレみたいな人なら撫子さんの隣にいてもお子さまには見えないだろう。


「ねえ、スミレがいつも服買ってるお店連れてってよ」


 思わずそう言ってしまうところがもう子どもっぽいなあと思う。


「スミレの服って大人っぽくて素敵だなあって思ってたから知りたい!」


 そう言って、スミレからお店の名前を聞き出すとやや困惑しているスミレを引っ張るようにそのお店まで向かった。


 スミレが教えてくれたお店は名前は知っていたが、お洒落な人しか入れないような気がしてまだ一度も入ったことがないお店だった。心なしかマネキンすら私が普段行っているお店とは違って見えて、なんだか自分がちんちくりんになったような気がする。ちょっと怖じ気づいていると、これまたお洒落な店員さんが話しかけてきた。


 どうやらスミレとその店員さんは顔馴染みらしく「今日はこの子の服を探しに来たんです」と紹介されてドキドキしながら会釈をする。


「どんな感じがいいとかありますか?」


 話してみるとその店員さんは思っていたよりも優しくて話しやすく、私の「大人っぽくも今の自分から離れすぎていないものがいい」というわがままな注文にも笑顔で対応してくれた。


「そうしたらこの新作のワンピースとかいかがですか?色はモノトーンで落ち着いてる感じですけどプリーツとかフリルが入っていてお姉さんの雰囲気にも合うと思うんです」


 確かにそのワンピースは可愛くて、でもどこか大人っぽくて私の求めている雰囲気にぴったりだった。


「試着してみなよ」


 スミレにそう言われて店員さんに試着室まで案内してもらう。



「前で待っててね!」


「わかったわかった」



 試着室で早速ワンピースを着てみる。実際に着てみると想像していた以上に素敵で、急いでカーテンから顔を出す。


「スミレ!見て!」


 スミレが返事をする前に試着室のカーテンを全部開けて飛び出した。


 あまりに勢いがよすぎてびっくりしたのか、スミレは一瞬固まっていたがすぐに「いい感じじゃん」と笑顔をくれた。


 元の服に着替えて試着室から出るとスミレはぼーっと下を向いていたが、試着室から出てきた私に気がつくとすぐに笑顔になってこちらにやって来た。待たせてしまって疲れたのかもしれない。おわびに甘いものでもごちそうしよう。



「お待たせ、スミレのおかげで素敵なお洋服に出会えたよ!ありがとう!」


「どういたしまして。すごく似合ってたよ」


 お会計を済ませて紙袋を受け取る。この紙袋の中にあの素敵なワンピースが入っているのだと思うと紙袋すら抱き締めてしまいそうだ。そんな私の様子を横から眺めていたスミレが面白そうに笑っている。



「本当に杏子は可愛いなあ」


「なにそれ馬鹿にしてるでしょ~」


「してないしてない、満足してくれてよかったなあって」


 そんなことを言い合いながら近くの雑貨屋さんにふらりと立ち寄る。



「バレンタインのお返ししなきゃなあ」


「なにか検討つけてるの?」


「うーん、檸檬味の何かがいいの」


「檸檬?なんで?」


 撫子さんから檸檬の香りがしたからと言いかけてやめる。このことは私だけの秘密にしておきたかった。あの日のことを思い出すと、今も鼻の奥にあの檸檬の香りが漂っているような気がしてまた胸が熱くなる。


「撫子さん檸檬味が好きって言ってたから」


 スミレ、ごめん。嘘をついたことをひっそり心の中で謝った。


 結局瓶入りの檸檬キャンディを選んだ。可愛くラッピングもしてもらい、次の美容室の時に渡すことにした。



「今日なんか私の買い物にばかり付き合わせちゃってごめんね」


「全然。嬉しそうな杏子見てるの面白かったから」


「なにそれ!でもありがとうね、お礼に甘いものでもどう?」


 スミレはお礼なんていいと言っていたがそこは強引に押しきり、私たちのお気に入りのカフェに引っ張っていった。


 店内に入ると甘い香りが鼻をくすぐる。優しい笑顔の店員さんに案内され、窓際の席に座る。窓辺には観葉植物が置かれ、変な顔のペンギンのピックが刺さっている。このあいだ来たときはこんなピックは刺さっていなかった気がする。だいぶ西に傾いた陽の光が窓から差しこみ店内をオレンジ色に染めていた。


 本日のケーキセットを二つ頼む。いつものお決まりだ。



「今日はありがとうね」


「こちらこそ甘いもの食べたかったから嬉しい、ありがと」


「今日のセットチーズケーキでラッキーだったね」


 このお店のチーズケーキは絶品なのだ。通常メニューにはなく、日替わりの本日のケーキセットに気まぐれで登場する。だから出会えたときはとても嬉しい。


 こうしてこのカフェに通うのももうすぐ4年目になる。夜遅くまで営業しているので2人でサークルの帰り道に寄るのが常なのだ。もうすぐ始まる来年度のサークル勧誘に使う部誌に何を載せるかについて話しているうちにケーキセットが運ばれてきた。


 チーズケーキはいつも紺色のまるいお皿に盛り付けられて出てくる。10センチ弱くらいの潰れた円柱形で、バターの香りのクッキー生地の上に檸檬の香りがさわやかなチーズクリームが乗っている。チーズクリームの上にはその円周をぐるりと囲う真珠のネックレスみたいな生クリームが絞られている。そしてその真ん中にぽつんとブルーベリーが置かれている。これがこのお店のチーズケーキだ。


「やっぱりかわいい~」


 思わず歓声をあげると向かいに座っているスミレが吹き出した。



「毎回新鮮な感想くれるよね」


「確かに。前回も言ってた気がする」


「杏子といると元気になっちゃうな」


「私はスミレといると安心するよ。今日だってあの服屋さん入るの緊張してたけどスミレとだからなんとかなったんだよ~」


 こうしてお互いに思っていることをちゃんと言い合えるのが私たちのいいところだと思う。普通の人なら照れくさくなるようなことも私たちの間では包み隠さず伝えている。


 一口食べると檸檬の香りが鼻を抜ける。その香りに撫子さんの笑顔が思い出されて、少し頬が熱くなり頭を振った。そんな私をスミレは不思議そうな顔で見ていた。


 紺色のお皿の上で月が欠けていくように、丸いチーズケーキはどんどん無くなり、新月になる頃には紅茶は少しぬるくなっていた。


 そんな少しぬるくなった紅茶を飲みながらこのあいだ話していたことを思い出す。「恋と憧れの違い」スミレには恋してる相手とかいるのだろうか。私から撫子さんの話はよくするが、スミレからはそういう話は聞いたことがない。聞いてみようかと思ったがスミレと私のことだ、もしなにかあったら教えてくれるだろう。そう思ってその話をするのは止め、部誌の話に話題を戻した。



***



 次の週、午後の授業が二人揃って休みだったので今度はスミレの服を見に行こうという話になった。学食でお昼ご飯を済ませてショッピングモールへ向かう。



「数日前に行ったばっかりなのにね」


「こうやって二人で出掛ける時間が楽しいんだから」


「それは間違いない~」


 そんな話をしながら歩いていたときだった。


 ふと通りの反対側のイタリアンレストランが目に入る。そういえば新しくできて気になってたんだよなあと思って横目に歩いていると、2人の女性が出てくるのが見えた。その片方の女性の顔が見えた瞬間、自分の喉から出たとは思えない掠れた声が飛び出た。


「あ...。」


見覚えのある金髪のショートへア、太陽みたいな笑顔をしたその人は一緒に出てきた女性と自然に手を繋いだ。でも手を繋ぐ前からその人の笑顔で相手とはどんな間柄なのかは想像がついていた。


 気がついたら足が止まっていて、スミレがこちらを振り返っていた。



「どした...?」


「いや...なんで...も」


 そう口は勝手に動いていたが、指先からどんどん体温が抜けていくように冷たくなっていくのがわかった。なんだか背筋がピリピリとしている気がする。その間も私の目は2人の女性から視線をそらすことができなかった。


「なんでもないことないよね?」


 どうしたらいいのかわからなくなって、大丈夫だと首を振ったがスミレは私の手を引いて「とりあえずどっか座ろ」と近くの公園まで私を連れ出した。体温が抜けた私の手を包むスミレの手は優しくてあたたかかった。


 言葉を交わすことなく何度か来たことのある公園に導かれ、ベンチに座った途端、自分でもびっくりするくらい涙が溢れてきた。となりに座ったスミレは静かに私の背中をさすってくれた。その手の優しさに安心したのか余計に涙が出てきて「スミレ、ごめん」と思いながら背中に触れるあたたかさに甘えて沢山泣いた。沢山泣いて泣きつかれてきた頃、先日スミレに投げかけた質問のことを思い出した。



「憧れだったらよかったのにな」



 今ならわかる、撫子さんへの気持ちは憧れではなく恋だったのだと。撫子さんが恋人に向けていた笑顔を思い出して喉の奥の方がぎゅっと締まる。あんな顔を見たらこの恋心が報われないことはよくわかった。


 少し落ち着いたらとなりにいるスミレが心配そうに私を見つめていることに気がついた。今日となりにいたのがスミレでよかった。改めてスミレの優しさに心があたたかくなった。


「スミレがいてくれてよかった...」


 心配の色が映るスミレの目を見て安心させようとその言葉を伝えた瞬間、グッと体が引き寄せられた。気がつけば私はスミレの腕の中にいた。突然のことにびっくりしてなにか言おうとしたけれど、それを遮るようにスミレは言った。



「笑えないときは笑わなくていいんだよ」



 スミレの目に私の顔はどんな風に映ったのだろう。でもその言葉の優しさが私の心をあたためて、溶けた氷が涙となってまた溢れてきたのだった。「せっかく涙が止まったところだったのに」そう思いながらもスミレの腕の中はあたたかくて涙を止めようとは思わなかった。



***



 ホワイトデーの翌週、私は美容室へ向かっていた。予約してから日が空くと行くのが怖くなりそうで前日に予約をいれたのだった。かばんの中には忘れずにバレンタインのお返しも入れてきた。まつ毛もいつものように入念に上げてくるんと上を向いている。


 

 3月も半ばを過ぎたこの頃はとても暖かく、今日のように晴れた日は薄手のコートでも暑いくらいだ。思えば美容室へ行く日はいつも晴れているような気がする。穏やかな春の風が肩まで伸びた私の髪を揺らす。


 美容室の前まで来て、また背筋が少しピリピリとする。気持ちを落ち着けようと深呼吸をして美容室の扉を開けた。受付を済ましてコートとかばんを預け、待ち合いのベンチに座る。


「杏子ちゃん!お待たせ~」


 ベンチには私しかおらず、なんだか心細くて店内の賑やかさに耳を澄まして待っていると、後ろから撫子さんの声が降ってきた。振り向くと変わらない笑顔の撫子さんが立っていた。笑顔は変わらないはずなのになんだかいつもよりも眩しく感じる。


「全然待ってないですよ~」


 そう言って立ち上がった私を見て、撫子さんは満面の笑みを向けてきた。


「わあ、そのワンピース可愛いね!めちゃくちゃ似合ってる!」


 思わず頬が紅くなるのがわかった。やっぱり撫子さんはずるい。いつだって私の心にするりと入り込んで心を熱くさせる。


「ありがとうございます!一目惚れだったんです」


 今日のために買ったんですなんて言えるはずもなくて、そう答えた。実際一目惚れだったのだから嘘ではないだろう。


 案内されて椅子に座るといつものように撫子さんが鏡越しに話しかけてくる。


「今日はどんな感じにする?」


 ここからの流れは何度も何度も脳内で練習してきた、撫子さんに伝えたい言葉があった。太ももの上に置いた両手をぐっと握りしめる。ふぅと息を吐き、勇気を出して答えた。


「ばっさり切りたくて。ショートへアにしてください」


 私がそう伝えると撫子さんはびっくりしたように鏡越しではなく直接私の方を見てきた。


「え!絶対似合う!けど、どうしたの急に...?」


 こちらを見ている撫子さんの視線を感じて胸の熱さが戻ってくる。周りは賑やかなはずなのに私の心臓の音が聞こえてくるような気がした。本当は目を見て伝えようと思っていた言葉だったが、やっぱり直接目を見て言えなくて鏡越しに、でもしっかりと撫子さんの目を見て伝える。





「いえ、撫子さんに憧れて...!」




***

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