太陽に雨が降る時
***
「ねえスミレ、恋と憧れの違いってなんだと思う?」
杏子(あんず)にそう聞かれたのは二人のお気に入りのカフェで頼んだ紅茶が冷めてきた頃だった。
目の前で物憂げな表情を浮かべるお人形のように整った顔、肩につかないくらいの長さの栗色の髪はゆるやかなパーマがかけられ柔らかな印象を与える。
「ずいぶん哲学的な質問。どうせ『撫子さん』のことでしょう。」
「いやまあそうなんだけど…。」
まだ憧れだなんて思っているんだね、とっくに私は気づいているというのに。まあ私だから気づいたのかもしれない。
ティーカップの縁を見つめる長いまつげを見ながら考える。目の前の彼女が私以外の人のことを考えて物憂げな顔をしている。きっと今の胸の痛みがその答えだ。
少し考えたふりをしてなんとか作った笑顔で言った。
「…誰かに取られたくないって思ったら恋なのかもね。」
ねえ杏子、今の私はうまく笑えていましたか?
***
杏子のことを好きだと気づいたのはいつからだっただろうか。
杏子とは大学の文芸サークルで出会った。ふわふわとした見た目とは裏腹に芯があってカラッとしている性格、そんな彼女に気づけば恋をしていた。話せば話すほどに、一緒にいればいるほどに彼女のあたたかさに焦がれていった。彼女の隣に似合う人になりたいと、彼女に会える日は少し早起きをしていつもより丁寧にお化粧をした。
しかし、いつからか杏子の口からその人の名が飛び出すようになった。その人の話をする時、彼女の頬はほんのり紅に染まり、その瞳はきらきらと輝きで溢れた。それは紛れもなく恋をする乙女の姿だった。
私の好きな人には好きな人が出来たのだった。
けれども恋する乙女はより一層美しくなる。そうして私を苦しませる。彼女がその人の名を口にするたび胸の奥がズキンと痛み、その美しさに胸を熱くした。
***
その日はお互いに午後の授業が休みになり、二人で昼食を済ませて買い物へ向かう途中だった。
通りの反対側にあるイタリアンレストランから出てくる二人の女性が目に入った。背の高い金髪ショートの女性と肩までの黒髪を綺麗に切り揃えた女性。仲睦まじそうにレストランから出てきた二人は自然に手を繋ぎ、駅の方へと歩いていく。その一瞬の光景に、ああ羨ましいな、などと考える。
「あ…。」
隣で杏子が立ち止まった。
「どした…?」
そう杏子の方を振り向きながら尋ねた。
「いや…なんで...も...」
そう言いつつ杏子の顔が少しずつ悲しそうに歪んでゆく。その視線の先には先程の女性たちがいた。
その瞬間に私はすべてを理解した。あの二人のうちどちらかが『撫子さん』だったのだ。その間にも杏子はみるみる悲しみに侵食されて、私よりも少し背の高いはずの彼女が小さく見えるようだった。
「なんでもないことないよね?」
それでも頑なに首を振る杏子だったが「とりあえずどっか座ろ。」と近くの公園まで手を引く私に逆らうことはなかった。
平日のお昼過ぎの公園はとても静かで鳥のさえずりだけがそよ風に乗り、辺りの寂しさを紛らわしていた。公園の入り口からは少し離れたベンチに並んで座る。ベンチに座った途端、堰が切れたように杏子はその大きな瞳からポロポロと涙を流した。
私はかける言葉を見つけられず、ただただあたたかさを確かめるように彼女の震える背中をさすることしかできなかった。静かな公園に彼女のすすり泣く声と鳥のさえずりだけがこの世界を作っていた。
どれくらいの時が経ったのだろうか。ぽつりと杏子は言った。
「憧れだったらよかったのにな。」
そうして涙に濡れた大きな瞳で私の方を見ると、彼女らしくない雨に打たれた花のような弱々しげな笑顔で言った。
「スミレがいてくれてよかった...。」
その笑顔を見るのが苦しくて思わず彼女を抱き締めた。なにか言おうとした彼女の言葉を遮るように言葉を紡いだ。
「笑えない時は笑わなくていいんだよ。」
それは自分自身に向けていった言葉でもあった。泣き濡れた顔で笑う彼女にどんな顔を見せればいいのか分からなかったのだ。こうしていればお互いの顔を見なくて済むから。
それからしばらく杏子は私の腕の中でただただ泣いて、少し元気を取り戻した顔で「なんか恥ずかしくなっちゃった」と涙を拭った。
***
翌週杏子に会うと、彼女は髪をばっさり切りショートヘアになっていた。
「切っちゃった!」
彼女はいつものとおりカラッとした笑顔で言った。短く切り揃えられた髪はとても爽やかで彼女にとても似合っていた。
ああ私は彼女のこの笑顔が好きなんだ、こういうところが好きなんだ、そう思った。
「似合うじゃん。」
それからいつの日か心から伝えたいその言葉を、友達のフリをして伝える。
「好きだよ。杏子のそういうところ。」
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