第5話 密かな絆の代償



 村の近くにある討伐指定の森では、勇者が魔獣と対峙する日々が続いていた。


 俺は、できることなら勇者のことなんて──意識の外に追いやっておきたかった。けれど、あの日からずっと、心のどこかがざわついていた。彼がこの村を訪れたその瞬間から。


 両親を奪った「召喚の儀」。その中心にいた男。憎んで当然のはずだった。そう自分に言い聞かせてはみたものの、どうにも彼の存在を無視できない。


 王城からの催促は変わらず続き、彼が日々すり減っていくのが、見ているだけで伝わってくる。目立った能力がないことに焦っているのも分かった。周りの村人たちの視線は冷たく、陰口も後を絶たない。幼馴染のリリアは、あからさまに敵意を向けていた。


「こいつは私たちの仇だよ! こいつが来たせいで、あたしの家族も──」


 あの日、その言葉が飛び出した場に、俺は居合わせた。勇者の顔が苦痛に歪んでいくのを、目の前で見てしまった。この世界にたった一人で放り込まれて。誰も信じられず、自分の存在が誰かの不幸の象徴でしかない。そんな絶望に、彼は押し潰されかけていた。見てはいけないと思っても、その表情は、焼き付いたように離れなかった。


 俺は、彼の孤独を誰よりも近くで感じていた。王城の護衛すらまともに扱わず、食事も満足に与えられない彼の姿に、胸が痛んだ。……俺自身、彼に向かって「嫌いだ」と言い切ったというのに。


「勇者なんて、いなければよかったのに」


 そう心で繰り返して、自分を納得させようとするたびに、何かが軋んだ。両親を失った痛みが、心の中に蘇る。その痛みの奥で、それでも彼を気にかけずにはいられない自分がいた。彼の瞳の奥に沈んでいる孤独。それは、家族や仲間の温もりを知る者にとって、到底見過ごせるものではなかった。気づけば俺の意識は、勇者の小さな変化に敏感になっていた。


 その日も、日が傾き始めた頃、俺はそっと人目を避けながら、勇者が滞在する宿の裏手へ向かった。護衛たちの会話で、彼が昨夜から何も食べていないと耳にしたからだ。懐には、水筒に入れたスープと、焼きたてのパン。まだ温かい。


「……おい」


 声をかけると、勇者は小さく肩を跳ねさせてこちらを向いた。顔色は悪く、目の下には深い隈が浮かんでいる。


「アリアス……?」


 俺の名を呼ぶ声はかすかに震えていた。その声音に、胸の奥がずしりと重くなる。


「これ、食っとけ。どうせまた、まともなもん食ってねぇんだろ」


 ぶっきらぼうにパンとスープを差し出す。勇者の瞳が、驚きと感謝で揺れた。


「……ありがとう。悪いな」


「別に。あんたが倒れたら、魔獣の相手を誰がするんだよ。……それだけだからな」


 そっぽを向いたまま、言葉を吐き捨てる。これが俺にできる、精一杯の優しさだった。これ以上は、言葉にできない。村人にどう説明すればいい? 俺が、あの”勇者”を自主的に助けているだなんて。


 勇者は、ゆっくりとスープを啜り、パンをちぎって口に運んだ。俺は黙って隣に座る。あくまで距離を取ったまま、彼が食べ終わるのを待った。



 ◇◇◇


 夜が深まり、村の明かりが一つ、また一つと消えていく頃。俺たちは村外れの古びた祠の陰で、密かに向き合っていた。ここなら、誰にも見つからない。


「アリアスは……本当に優しいな」


 ふいに、勇者がぽつりと呟いた。その言葉にどう返せばいいのか分からず、言葉に詰まる。


「……何言ってんだよ。俺は、あんたが嫌いだって言っただろ」


「ああ、言っていたな。でも、君の目は、そう言っていなかった」


 勇者は真っ直ぐに俺を見つめた。その視線に耐えきれず、俺は咄嗟に目を逸らした。


「俺は……君だけが、この世界で俺を”人間”として見てくれている気がしている。他の誰もが勇者という”不満の捌け口”でしか俺を見ていないのに」


「……それ、あんたが勝手にそう思ってるだけだろ」


「かもしれない。でも、そう思えるだけで、俺には救いなんだ。君には……想像もできないだろうけど」


 勇者は、どこか諦めの混じったような微笑を浮かべた。


「王城でも、この村でも、俺はずっとひとりだった。誰にも本音なんて話せないし、話せばきっと理解されない。むしろ、俺の存在が誰かを傷つける。……だから、君が時々見せる、その不器用な優しさが、俺には本当に……温かいんだ」


 胸の奥が、鋭く抉られたように痛んだ。


 本当は何も悪くないはずなのに、自分を責めるように語るその横顔が、あまりに痛ましくて。何か言葉を返そうと思っても、喉が詰まって、うまく出てこない。ただ、彼が抱えてきた孤独の深さだけが、嫌というほどに伝わってきた。


「……そういえばさ」


 ぽつりと、勇者が口を開いた。


「アリアス、前に言っていたよな。『ステータスに特典チートとか表示されなかったのかよ?』って」


 その瞬間、全身を電撃が駆け抜けたような錯覚に囚われた。


 あのとき、つい怒りに任せて口走ってしまった不用意な一言。まさか彼が、そんな言葉を覚えていたなんて。しかも、それを今この場で持ち出してくるということは――。


 喉が乾き、心臓が警鐘のように騒ぎ始める。


 この秘密は、誰にでも軽々しく明かせるものじゃない。知られれば最後、異端として忌避され、村に居場所をなくすかもしれない。


 だが、彼の言葉の意図は、もう分かっていた。彼は、俺が自分と同じ”向こう側”の存在なのか、確かめようとしている。


 彼は、孤独なのだ。誰か、自分と同じ場所に立って話せる相手を、探していたのだろう。


 その気配は、痛いほど伝わってきた。


 そして、俺は、それを――否定することができなかった。


「……ああ。言ったよ」


 静かに息を吸い込み、胸の奥にある葛藤を宥めながら口を開く。


 迷いはあった。けれど、それ以上に、この秘密を彼と分かち合いたいという思いが、どうしようもなく胸に満ちていた。たとえ、それが村人たちとの間に越えられない溝を作ることになろうとも。もし、ほんの少しでも彼の救いになるのなら。


「……どれほど辛いのか、俺なりに少しは分かるつもりだ。俺も、あんたと同じ。この世界に来てからずっと、本当の意味では一人だった。誰にも言えなかった。言ったところで、理解なんかされない。いや、むしろ……異端扱いされるのが、怖かったんだ」


「アリアス……!」


 勇者が、そっと掌を差し出してきた。その手は、微かに震えていた。


「俺は……この世界で、君を探していたのかもしれない」


 その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいった。張り詰めていた何かが、静かにほどけていくようだった。異世界に来てから初めて感じる、確かな温もりだった。転生者として一人きりで抱えていた秘密。その重さを、彼は受け止めようとしてくれている。


 目の前にいるのは、たぶん――俺にとって、唯一の理解者だ。


 二人の間に、言葉では語り尽くせない、深い共鳴が生まれていた。秘密のすべてを打ち明け合う必要なんてなかった。ただ、視線と、差し出された掌のぬくもりが、その存在を物語っていた。


 だが、その静かな交流は、決して村人たちの目から逃れきれなかった。



 ◇◇◇


 翌朝、勇者が魔獣討伐へ向かったあと。俺が村の中心部へ向かう途中、井戸のそばに立ち寄ったとき、ひそひそと話す村人たちの声が耳に入った。


「アリアスが、勇者と随分親しくしているらしいわね」


「最近、様子がおかしいと思っていたのよ。勇者は私たちの仇なのに」


「まさか、過去を忘れて勇者の仲間にでもなるつもりなのかしら」


 冷たい視線が、背中に突き刺さる。俺は、何も言えずにその場を通り過ぎた。けれど、その足取りは重かった。


 昼頃、広場では子供たちが遊んでいた。俺は幼馴染の姿を探した。リリアは、俺に気づいてこちらへ歩いてくる。


「アリアス」


 いつものように、俺の隣に立つリリア。しかし、その顔はどこか曇っている。


「どうした、リリア。元気ねぇけど」


「……アリアスは、私たちを捨てて、勇者を取るの?」


 リリアのまっすぐな瞳が、俺を見上げた。その瞳には、不安と、悲しみが宿っていた。


 俺は、言葉に詰まった。リリアの家族も、勇者召喚で命を落としている。俺が「勇者」と親しくすることが、リリアを、そして村人たちをどれだけ傷つけるか。


「……俺は、勇者が嫌いだ。勇者召喚なんかがあるから、俺の両親も、リリアの家族も──」


 そう言いかけて、続く言葉が喉につかえた。もう、嘘をつけなかった。あの男への気持ちは、「嫌い」だけでは収まりきらないものになっていたから。


 リリアは、沈黙を受け取ったように、そっと目を伏せた。


「……勇者のこと、もう嫌じゃないの?」


 その問いかけが、胸に深く突き刺さる。このままでは、俺が村人たちとの絆を壊してしまう――そんな不安が、現実として目の前に突きつけられた。



 ◇◇◇


 その夜、再び勇者と会ったとき。胸のうちにある葛藤を伝えることはできなかった。だが、勇者は俺の顔を見て、すでにすべてを感じ取っていたのだろう。


「アリアス……俺が君を、苦しめているのか?」


 その声は、夜の闇に溶けるように、かすかに響いた。俺は何も答えず、ただ彼の瞳を見つめ返す。


 彼もまた、俺と同じ孤独を抱えている。そのことが、痛いほど伝わってきた。


 だから、俺は、心の中で静かに誓った。


 ――それでも、俺は、あんたをひとりにはしない。


 言葉には出さずとも、目に宿ったその思いは、きっと彼に届いていたはずだ。揺るがぬ決意と、ほんのわずかな迷いの気配とともに。

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