第4話 同郷の秘密と拒絶(勇者視点)
アリアスだけは、俺を責めなかった。
だからといって、特別優しくされたわけでもない。むしろ、あのときの彼の目は明らかに警戒を含んでいた。けれどそれでも、他の誰とも違っていた。拒絶でも、軽蔑でもない、もっと別の、どこか穏やかな視線だった。村人たちが石を投げ、罵声を浴びせる中、彼だけが冷静に群衆に声をかけ、その場を収めようとしていた。
言葉を交わしたわけじゃなかったのに、最初から彼だけが俺を”勇者”という肩書きではなく、“白戸弘樹”という一人の人間として見ようとしていた──そんな気がしてならなかった。それが、妙に心に残っている。
◇◇◇
この世界に来て、もう二週間が経つ。
俺は王宮の石造りの塔の一室に閉じ込められていた。窓から見える景色は、青い空と遠くに連なる山々だった。部屋には質素なベッドと木製の机、そして山積みにされた分厚い書物があった。ろくな説明もないまま、問答無用で”勇者”として扱われ、教育が始まった。
歴史、言語、魔法、剣術──どれも初耳で、まともに理解できるはずもない。講師の老人は眉をひそめ、兵士たちは腕組みをして立っていた。教えを請う姿勢が足りないと判断されたのか、彼らは次第に冷ややかな目を向けてきた。
「お前には失望した」
「前に召喚された勇者なら……」
石造りの廊下に響く靴音と共に、繰り返されるその言葉に、胸の奥がじわじわと焼けるようだった。
王宮の一室で、召喚に関する重い事実を告げられたのは、それから数日後のことだった。金色の装飾が施された椅子に座った老臣が、淡々と説明する。俺をこの世界に呼ぶために、二百人を超える魔法使いが命を落としたという。儀式の代償として──らしい。俺一人のために、そんな大勢が死んだということだ。
吐き気がした。口元を手で覆い、椅子にもたれかかる。
自分の意思で来たわけでもない。勝手に呼ばれたのに、なぜ俺が責められなければならない? 俺のいた世界には、もっと適した人間がいくらでもいただろう。兵士、格闘家、軍人──いくらでも。
なのに、なぜよりにもよって、平凡な会社員でしかない俺を選んだのか。この世界の選択が間違っていたのに、それをすべて俺の責任にされるのは理不尽だった。
そんな俺に、一体何ができるというのか。
訓練場で調べてもらった俺の”勇者としての力”は、まるで期待外れだった。魔法の水晶に手を触れても、かすかに光るだけ。木製の剣を振るっても、満足に的を壊すこともできない。魔力は低く、剣の扱いも平均以下。中級程度の魔獣になんとか勝てるくらい──そんな力で、どうやって世界を救えというのか。
王族たちは、少なくとも表面上は俺を称えてくれた。玉座の間で、きらびやかな衣装を身にまとった王が微笑みかけてくる。でも、廊下の隅で護衛についていた傭兵たちがひそひそと話しているのを耳にして、すぐに気づいた。俺を「王家への不満を集めるための盾」だと嘲笑っていた。要するに、俺は使い捨ての駒なのだ。世論の矛先を受ける、都合のいい”勇者”という存在。
その瞬間、この世界に「魔王」なんて本当に存在するのかすら、疑わしくなった。
俺を取り巻く人々は、どこまでも冷たく、欺瞞に満ちていた。すべてが嘘のように思えた。この世界そのものが、恐ろしかった。
毎日が、ただ苦しくて、息をするのも痛かった。朝、ベッドから起き上がるのも億劫で、食事も喉を通らない。信じられるものが何一つなくて、心がすり減って、やがて何も感じなくなった。
──いっそ、この世界なんて滅びてしまえばいいのに。
◇◇◇
王宮から命令が下ったのは、そんな絶望の淵にいた頃だった。使者が羊皮紙に書かれた文書を手渡し、厳しい表情で内容を告げる。地方の村に現れた魔獣の討伐に向かえというものだった。相手は中級程度の魔獣。俺でも一応は倒せるレベルだった。
けれど、向かう先が悪かった。そこは、召喚儀式の影響で家族を失った者たちが多く住む村だった。俺の存在が歓迎されるはずもない。
予想通りだった。
馬車から降り、村の中央の広場に立った瞬間、数十の視線が一斉に俺に注がれた。周囲には石づくりの家々が並び、井戸の周りに村人たちが集まっていた。罵声が飛ぶ。石が投げられる。俺の頬を掠め、足元に転がる小石。俺の周囲を囲む護衛たちは、助けるどころか、少し離れた場所で腕組みをして面倒そうに立っているだけだった。
──俺は、この世界にとって明確に「悪」なのだ。
そう思い知らされたそのとき、人垣の向こうから一人の青年が現れた。
長く流れるような銀灰の髪。整った顔立ちと、氷のように冷たい瞳。粗末な布の服を着ているが、その立ち姿にはどこか気品があった。その青年は俺を責めるような視線を向けることなく、ただ群衆の間に立ちはだかり、彼らを静かに制していた。
見覚えがあった。
召喚の儀式のとき、倒れていた魔法使い──命を削るような術式の直後、石の床に崩れ落ちたあの姿を、俺は忘れていなかった。
アリアス・ヴァルター。
どうして俺を庇った? 君は俺の何を知っている? 俺の何を見て、ああしてくれた?
その夜から、気がつけば、アリアスのことが気になって仕方なくなっていた。
翌朝。俺は意図的にアリアスの家の前を通った。
小さな石づくりの家で、入り口には木製の扉がある。窓からは薄いカーテンが覗いていた。偶然を装って足を止め、声をかける。
「アリアス。……おはよう」
扉の前で何かの作業をしていたアリアスは、驚いたように目を見開いた。手に持った小さな木の棒を落としそうになる。けれど、すぐに視線をそらし、何も言わずに背を向けた。
その背中には、あのときの村人たちのような嫌悪も、拒絶も、なかった。
ただそれだけのことが、妙に心に沁みた。
──それだけで、救われた気がした。
それからというもの、俺は何かと理由をつけては、彼に話しかけるようになった。些細なことでも、会話の糸口を見つけようと必死だった。
「アリアス。……森でキノコを見つけたんだが、これ、食べられるか?」
村の外れ、井戸の近くで桶に水を汲んでいたアリアスに声をかける。最初のうち、アリアスは無表情にそっぽを向くだけだった。けれど、俺が差し出した布袋の中身を覗き見した瞬間、明らかに顔色が変わった。
「……おい、これ全部毒キノコだぞ。赤いやつ、見るからにヤバいだろ。何を作る気だ、お前」
桶を地面に置き、眉をひそめて俺を見上げるアリアス。
「え? 食べる気で採ったんだが……異世界だし、なんとなく色が派手なほうが栄養ありそうかなって……」
「はあ!? 馬鹿を言うな! 食えるキノコは地味なやつに決まってんだろ! それ以前に、なんでキノコ探しなんかしてんだよ……あんた、勇者様だろ?」
手を腰に当て、呆れたような表情を浮かべるアリアス。
「……はは。俺、勇者……なんだよな、たぶん」
「何その妙な返し……はぁ。まあいい。娯楽か何か知らんが、覚えとけ。青っぽくて、傘が平たいの。あれなら食える」
井戸の石組みに腰を下ろし、アリアスが説明を始める。
「青くて平たいの、だな。うん、覚えた。ありがとう」
こうして、ようやくほんのわずかだが、アリアスとの会話が成り立つようになった。
言葉遣いはぶっきらぼうで棘もあるが、村の子どもたちと接する姿はどこか兄貴分のようで、意外なほど面倒見がよかった。広場で遊んでいる子どもたちに、優しく語りかける姿を何度も見かけた。そのとき彼が語っていた昔話に妙な既視感を覚えたのが気になったが──
それでも、アリアスの存在は、確かに俺を支えてくれていた。
◇◇◇
昼下がりの穏やかな光が差し込む中、俺は宿の裏手で剣の手入れをしていた。木陰に腰を下ろし、鞘から抜いた剣を布で磨く。少しでも使えるようにならなければ、この先やっていけないと思ったからだ。
「おい、異邦人」
突然、鋭い声をかけられて振り返ると、鎧を着た護衛の男が険しい表情で立っていた。
「王宮からの使いだ。お前に話がある。来い」
有無を言わせぬ調子で腕を掴まれ、そのまま引きずるようにして宿の広間へと連れていかれる。部屋には、金糸の刺繍が施された上衣を着た男が立っていた。窓からの光を背に受け、顔は影になっている。上品な顔立ちだが、口元には嘲るような歪んだ笑みが張り付いている。
「魔獣の件、いつになったら結果を出すつもりだ? この、役立たず勇者が」
その一言で、腹の底から怒りがこみ上げた。だが、それを顔に出すわけにはいかなかった。拳を握りしめ、唇を噛みしめて、じっと耐える。
反論しても無駄だと、もうわかっていた。この世界での俺は、ただの駒以下の存在だ。
男はなおも嘲りの言葉を重ね、最後には鼻で笑って吐き捨てた。
「今夜までに成果を見せろ。さもなくば、お前の食事はないと思え」
そう言い残し、護衛を連れて去っていく。重い足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていく。
腹が、情けなく鳴る。
金は支給されていない。この世界の金を持っていない俺は、自分で買うこともできない。これまでも王宮で食事を抜かれることはよくあったが、この村でも食事を抜かれると、明日魔獣相手に思うように動けなくなるかもしれない。これまでの俺だったら、心が折れていただろう。
だが今回は、幸いなことにアリアスが教えてくれたキノコがある。あの話を聞いた日の夕方、俺はすぐに森へ向かい、青っぽくて傘の平たいキノコをいくつか採取してきていた。荷物袋の底には、慎重に選んだそれが入っている。
腰から袋を外し、中身を確かめるように手を差し入れた。傘の一つを取り出し、そっと掌に載せる。手の中の小さなキノコは、まだしっかりとした弾力を保っていた。
これをまた採ってくれば、当分やっていけるはずだ。
そう思っていた矢先だった。
「なんだ今の話は?」
窓の外から声がした。開け放たれた窓の向こうに、アリアスが立っていた。夕日を背に受け、その表情は影になっているが、目を見開き、俺を凝視している。
思わず言葉を詰まらせた。何をどう説明すればいいのか、わからなかった。
「もしかして、あんた……まともに飯も食えてなかったのか?」
窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして問いかけてくるアリアス。
「……ああ、実は。役立たない奴には金をかけられないって。俺、この世界の金も持ってなくてさ」
「そんなふざけた話があるか! あんた、こっちの都合で呼び出された勇者だろ!? 本来なら、装備も生活費も支給されるはずだろ!」
アリアスの怒りが真っ直ぐにぶつかってきた。その激しい感情に、俺は思わず、苦笑いを浮かべてしまう。
「それに見合う能力がないらしくて……」
「は? いやいや、あんた勇者に選ばれた転移者だろ!? ステータスに特典チートとか表示されなかったのかよ?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「ステータス……? 特典チート……? なんで、そんな言葉、知ってるんだ……?」
この世界の人間は、そんな言い方はしない。俺が召喚された直後、教育係は「ステータスという概念はこの世界には存在しない」とはっきり否定した。
なのにアリアスは、当然のようにその言葉を口にした。
「……っ、いや、そんなの、どうでもいいだろ! それより、そのキノコよこせ! 調理してくる! ここで待ってろ!」
窓から身を引き、アリアスは一方的にそう言い捨てた。そして勢いよく駆け出していく足音が聞こえる。
──まさか、彼も”こっち側”の人間なのか?
村の子どもたちに語っていた物語。あの、どこか懐かしい口ぶり。そして今、口にした言葉。
すべてが、俺のいた世界とつながっていた。
初めて、この世界で「誰かとつながっている」と感じた。
戻ってきたアリアスは、リリアという名の少女を連れていた。茶色い髪を三つ編みにした、小柄で気の強そうな目をした少女だった。アリアスと同じく、粗末な服装をしている。
二人の手には、湯気を立てるキノコの煮込みと焼かれた肉、さらに味噌汁のような汁物まである。木製の器に盛られた料理からは、懐かしい匂いが漂い、思わず胸が詰まった。
「なんでアリアスが、勇者の世話なんかしなきゃいけないのよ」
リリアの突き刺すような目が痛かった。器を机に置きながら、明らかに不満そうな表情を浮かべている。
「……勇者がまともに飯も食えてなかったら、魔獣なんか倒せるわけないだろ。文句があるなら、ついてくんなって言ったよな」
アリアスは机の向こうに腰を下ろし、リリアを睨み返す。
「でも、こいつは私たちの仇だよ! こいつが来たせいで、あたしの家族も──!」
リリアの声が震えていた。小さな拳を握りしめ、押し殺していた感情が、堰を切ったようにあふれていた。
アリアスは、返す言葉を見つけられず、目を伏せていた。
「……食べろ。器は外に出しておけ。……俺たちは帰る」
立ち上がり、リリアの肩を軽く叩いて促すアリアス。
「アリアス……ありがとう」
礼を言うと、彼は背を向けたまま、かすれるような声で返してきた。
「……俺は、勇者が嫌いだ。だから……勘違いするな。これは……魔獣討伐のためだ」
そう言い残し、アリアスは静かに去っていった。扉の閉まる音が、静寂の中に響く。
けれど──俺には、わかりかけていた。
その震える声の裏にあったもの。彼が隠そうとする感情の正体。
──この世界で、たった一人。
俺と同じ”異邦人”が、ここにいるのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。