第22話 枝折の願い
個室にいた。
意識が戻っていないのか眠っているだけのかはわからないがずっと目を閉じている。
そしてまだ熱は下がっていなかった。
「さっき枝折の主治医の先生が来てくれたの」
デイルームにある椅子に
冷たい篤子の手に握らせてコナも隣に座る。
窓の外は気持ちよく晴れていた。
「三ヶ月ほど前だったかな。枝折が薬が変わったって言ってて。
私が妊娠してからは枝折はひとりで病院に行ってたから詳しいことは知らなくて」
「俺も薬のことは聞いたよ。
枝折さん、自分に合う薬を先生が探してくれてるって言ってた」
「私もそう聞いてた」
「そうじゃなかったってこと?
言ってくれたら俺がついていくのに…」
「それも言ったわ。
コナについてってもらえって。
でも枝折、ただの診察なんだから大丈夫って」
薬が変わったのは前の薬が効かなくなって、
再発したからだと主治医から聞いて、篤子は目の前が真っ暗になった。
胆管がんに使える抗がん剤は少ない。
もし最後の抗がん剤が効かなくなったらそこで終わりなのだ。
「私に心配かけないようにって枝折が思ってくれてるのもわかる。わかるけど…」
「篤子さん。そうだよね。俺たちには言って欲しいよね」
こくん、と篤子は頷いて指で目をぬぐう。
コナが持たせてくれた小さなペットボトル。
コナの気持ちがうれしくて篤子はキャップを開けて飲んだ。
「敗血症で間違いないだろうって。全身に回った菌がなくならないと危険なんだって」
「そんな、」
「がんによってそうなってるかどうかは今調べてるみたいだけどとりあえず治療が先だって言われたわ」
コナが握った篤子の手は小さく震えていた。
妊娠している篤子に無理をさせるわけにはいかない。
「治療してもらったら枝折さん、また元気になるよ。俺が付き添うから篤子さんは家に帰って」
「でも、」
家にいても心配なのだろう。
枝折のそばにいた方が気持ち的にも篤子にとっていいのかもしれないが、ここでは横になることもできないのだ。
「赤ちゃんがしんどくなるよ。
篤子さんは家にいてゆっくりしてて。
動きがあったら俺が連絡するから」
「コナ…」
初めて枝折の店、branchで会ったコナは大人しくてどちらかといえば暗い男の子だった。
なまりを気にしているのかあまり話もしないし、笑顔もぎこちない。
しかし今、あの時のコナとは別人のようにしっかりして強くなっていた。
「わかった。頼むわ。家でゆっくりさせてもらう」
「うん。任せて、って俺もすることないけど」
「ううん。枝折にはきっとコナがいることはわかってる。心強いと思うわ」
「篤子さんが家でゆっくりしてたら枝折さん
安心するよ」
そう言って篤子はコナの手をぎゅっと握り返して、携帯を取り出した。
「もしもし。寝てた?ごめんごめん。
枝折がまた入院しちゃってね。コナがついててくれるのよ。
悪いけどbranchに臨時休業のプレートつけてきて。
うん、そこにあるのでいいから」
電話の相手は
四季は後で病院に行くと言って電話を切った。
篤子は携帯をバッグに入れて、大きくなったおなかをゆっくりと撫でる。
そして、よいしょ、と言って立ち上がり微笑んだ。
「じゃあコナ。お願いします」
「うん。篤子さん、ごはんたくさん食べてぐっすり寝て。枝折さんは絶対に大丈夫だよ」
コナが篤子をエレベーターホールまで送りに行く。
妊娠する前は颯爽とした歩き方だった篤子が、よたよたと体を揺らしながら歩いて行く。
お腹にいる赤ちゃんのために篤子も家でがんばるのだ。
篤子と別れてからコナは枝折の病室に入り、
椅子に座って眠っている枝折をじっと見つめた。
熱が上がり切ってしまったからなのだろうか、ずっと震えていた体はじっとしている。
枝折の熱い手を握り、コナはひたすら無事を祈った。
一時間ほど経った頃、主治医が部屋に顔を出した。
「先生、」
「息子さんだったよね。お久しぶりです」
相変わらず穏やかな笑顔の主治医が、手に持っていた数枚の用紙をコナに渡した。
「突っ込んだ血液検査の結果が出たんです。
ここなんですが、白血球と…あと炎症反応も高い。
熱はまだあるけど、点滴でお薬をバンバン入れてますから。
今からCTを撮ってがんの方の状態を見てみます」
「あの、治りますよね?」
コナが、渡された血液検査のデータを見てもさっぱりわからないが主治医が赤丸をつけてくれた項目は基準値内におさまっていなかった。
「治しましょう。みんなで、
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「僕じゃなくて佐藤さんがね。
がんばってくれるはずです」
ニコッと笑った主治医にコナは安心した。
治るかどうかわからないのに、主治医は枝折を信じてくれたのだ。
主治医が出て行った後、看護師が入ってきて枝折の血圧や体温を測定する。
コナが邪魔にならないように部屋の端に立っていると看護師が枝折の点滴を確認しながらコナに話しかけた。
「今からベッドごとCTを撮りに行きますね」
「はい。よろしくお願いします」
看護師が慣れた手つきで枝折を乗せたベッドを動かして部屋を出て行く。
廊下に出たコナは枝折を見送ってそのまま立ち尽くしていた。
branchに着いた四季は、篤子に言われた通りに階段の上の看板と地下のドアに【臨時休業】と印字されたプレートを付ける。
エントランスを出て枝折の病院に向かおうとしていると携帯が鳴った。
「はい」
コナからかと思ってあわてて出ると弁護士の
「四季くん、今大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
まだ眠っている街。眩しい日差しに目を細めながら四季は歩いていた足を止めて道の端に寄った。
「ゆりさんが見つかったんだけど、たぶん、
なんだよね」
「ありがとうございます。確定じゃない…ってことですか?」
「ハワイにはウォングって名字が多くて。日系も多いし。もしかしたらゆりって名前も他にもいるかもなんだけど」
そう前置きした蒼が、現地に行って会ってみないことには、と付け加えた。
「コナくんにも電話したんだけど出なくて。
それで四季くんに」
「わかりました。今からコナに会うんで聞いておきます」
「アポなしで行くから逃げも隠れもしないと思うんだけど、会いに行くなら早い方がいいと思う。
たぶん気づかれてはいないと思う。
でも調査してることを…たとえばゆりさんの親とかが知ってたら、ね」
仮定だが、ゆりがもし無理やり連れて帰られていたとして日本の何者かが調査していることがわかったら警戒するだろう、と蒼は言っているのだ。
その場合はゆりを隠すに違いない。
そのことをふまえてコナに相談する、と言って
四季は蒼との電話を切った。
病院に着いた四季はコナに電話をしたが出ない。
ラインも未読のままなので、仕方なく篤子から部屋を聞き出した。
病棟へ上がり枝折の部屋を探していると、コナが廊下にぼんやりと立っていた。
「コナ」
驚いた顔をしたコナを連れて四季は枝折の部屋に入った。
ベッドがないので広く感じる病室。
枕元にある【佐藤枝折様】と書かれたプレートを見てコナは口元で微笑んだ。
「枝折さん今、CT検査に行ってる」
「そっか」
コナが、枝折が危ないことを四季に話す。
真っ青になった四季がコナから視線を外して下を向いた。
「大丈夫だよ。先生が、枝折さんはがんばってくれるはずだって言ってた」
「…そうだよな。枝折さんはがんばってくれるよな」
来月には赤ちゃんが産まれてくるのだ。
絶対にみんなで新しい家族を迎えなければならない。
四季とコナは強く手を握り合った。
「戻りましたよー」
部屋の入り口から看護師の声が聞こえた。
あわてて四季とコナが部屋の端に移動すると、眠ったままの枝折が戻ってきた。
「画像を先生が見て、それからお話があると思いますのでもう少しお待ちいただけますか?」
「はい。今日はずっといます」
「またお声かけしますね」
看護師は、枝折の血圧を測り、布団を整えてから部屋を出て行った。
枝折のベッドサイドに四季とコナが並んで座る。
酸素マスクをつけた枝折はずっと眠っていた。
「検査…結果が良かったらいいな」
「うん」
まだ主治医は来ない。四季は蒼からの話をコナにした。
「枝折さんに、ゆりさんに会え、って言われてるけど…今は無理だよ」
「うん。それは俺も同じ」
四季はここへ来るまで、枝折がこんなに危険な状態だと知らなかった。
だからもちろんコナの意見に賛成だった。
枝折が元気になったらそこからまた考えればいい。
蒼は急げと言ったが、コナにとって今大切なのは枝折だ。
「…行きなさい」
枝折の声が聞こえた気がして、コナが四季を見ると四季も目を丸くしていた。
「枝折さん?起きたの?」
コナが立ち上がって枝折の顔をのぞき込む。
うっすらと目を開けた枝折は小さく頷いた。
「枝折さん…良かった」
四季もコナの隣で微笑む。夜中に運ばれてからずっと眠っていた枝折がやっと目を覚ましたことがうれしかった。
「行き…なさい。ゆりさんの…ところ」
「うん。わかった。そのうち行くよ」
四季の話を聞いていたのだろう。枝折はゆっくりと首を横に振った。
「私は…大丈夫」
「枝折さんが元気になったら絶対に行くから」
「早く…行きなさい。会えなくなるわ…」
それだけ言って枝折はまた目を閉じた。
前々からゆりには絶対に会わないとダメだ、と枝折は言っていた。
自分を産んだ人。本当の母に会いなさい、と。
自分がこんな状態なのに枝折はこのチャンスを逃すな、とコナに言ったのだ。
「ごめん。俺が枝折さんの前で話したから」
「ううん。四季のせいじゃないよ。四季が言わなくても枝折さんはきっと俺を見て気づくよ」
自分のことを誰よりも理解してくれる枝折はやっぱりコナにとって母だった。
コナを枝折の部屋に残して、四季はデイルームに行き篤子に電話をした。
「枝折さんはそう言ってたけど、元気になってから行こうってコナと決めたんだ。
だから篤子さんからも、」
「枝折の言うこと聞きなさい」
「でも、行くとなると俺と弁護士さんも着いていくことになるんだよ」
篤子をゆっくりさせようと思ってコナが枝折に付き添っているのだ。
今二人がハワイに行ったら篤子しか残らない。
枝折のことが心配だということもあるが、コナも四季も篤子だけにすることは避けたかった。
「行くっていっても明日明後日じゃないんでしょ?」
「わかんないけど、まだ返事もしてないから
明日とかじゃないと思う」
「それなら大丈夫。その頃には枝折もきっと落ち着いてるわ。だから四季は弁護士さんに会いに行くと伝えて」
行かない方が枝折が気を使うし、本望ではない。
篤子はそう言いたかった。
そしてみんなで枝折は大丈夫だと信じたかった。
「わかった。コナに言ってみる」
篤子が本当は一番不安なのだ。そんな中、ゆりに会わせてやりたいという枝折の思いを汲むのは相当な覚悟がいるだろう。
四季が電話を終えて部屋に戻ると、枝折の手を握ってコナが布団に突っ伏していた。
「コナ。篤子さんに電話してきた」
コナの肩に手を置いてから先に四季が廊下に出る。
主治医が来てもすぐにわかるように枝折の部屋の前で篤子の言っていたことを伝えた。
「篤子さんに枝折さんを説得してもらおうと思って電話したんだけど、枝折さんの言うことを聞きなさいって言われた」
「無理だよ。俺は行きたくない」
「すぐに行くわけじゃないからって。
それまでに枝折さんは良くなってるからって。
篤子さん…枝折さんの願いを叶えてやりたいんだと思う」
コナが何かを考えているように瞳を揺らす。
篤子からの伝言を伝えた四季は、もうコナに従おうと考えていた。
「枝折さんの…願い」
「うん」
「そうだよね。さっきも…あんなにしんどそうなのにがんばってそれだけ言ってたよね」
“行きなさい”
かすれた声で、枝折はそう言った。
ここでコナがゆりに会わない選択をしたら枝折は一生、そのことを申し訳ないと感じるだろう。
コナは四季と目を合わせて力強く頷き合った。
「行くよ。ゆりさんに会いに」
「コナ…」
「まだ本当にゆりさんかどうかわからないけど、もし会えたら帰ってきて枝折さんに報告する。
きっと喜んでくれるよね」
うんうん、と四季が頷いて微笑む。
今夜にでも蒼に連絡してみることを二人で決めた。
コナも目を細めて微笑む。枝折を喜ばせるためならなんでもしたい。元気になると信じたかった。
「佐藤さん」
ナースステーションから出てきた主治医が、
廊下にいた四季とコナに近づいてくる。
そして部屋には入らずに二人を連れて病棟の
一番奥の部屋に連れて行った。
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